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漢字は分析的か

2006-12-28 23:18:02 | 言葉とイメージ

「日本人は瓜の絵が描けるのですね」と中国人の留学生が驚いたことがある、という話が中川正之「漢語からみえる世界と世間」にあります。
 中国語では瓜というのは黄瓜(キューリ)、西瓜(スイカ)、苦瓜(ニガウリ)、木瓜(パパイヤ)などの上位概念なので描きようがないというのです。
 日本語の場合は、瓜(うり)、西瓜(すいか)、苦瓜(にがうり)、胡瓜(きゅうり)などと並列されていながら、瓜類を表す上位概念をかねているから、上位概念のほうは描けなくても(真桑)瓜の絵が描けるというのです。

 へちま(糸瓜)、かぼちゃ(南瓜)、など表記としては日本でも漢語表現では瓜の字がつきますが、音声にはウリがついていないので、日本語の場合は瓜類なら「~うり」というように統一した表現をするという意識はありません。
 中国語の場合は瓜類は「~瓜」という形になっているので、文字を見れば具体的にはわからなくても「ハハア、これは瓜の一種なんだな」と大体の見当がつきます。
 日本語の場合はひらがなで表現すれば、「きゅうり」と「にがうり」いがいは文字から見当をつけるということは出来ません。
 そうした意味で漢字は分析的であるといわれているのですが、反対の意見もあります。

 たとえば、日本語では「けむし」、「けもの」、「けがわ」など「け」がつけば「毛」に関連した言葉だと見当がつくのに、中国語では「毛虫」、「毛物」、「毛皮」という上限をしないというのです。
 また日本語では「なく」という言葉が総称としてあるのに、中国語では泣、鳴、啼、哭など個別の「なきかた」の表現しかないといったことで、漢字は分析的でないという意見もあるのです。

 こうしてみると、中国語でも日本語でもどちらにしても首尾一貫して分析的であるというようなことはないということが分かります。
 分析的であるということは物が整然と分類されていて、名前からそのものが属する分類が分かるということなのでしょうが、そういうことが言葉として望ましいのかどうかは疑問です。
 理屈でつけた名前は、その理屈が間違っていると困ったことになるのは、クジラが鯨と書かれたり、アメリカの先住民がインド人ではないのにインディアンと呼ばれてしまった例でも分かります。
 
 日本語は瓜の例でも分かるように、いろんな呼び方をしてしまって、漢語があれば表記はそのまま受け入れ、それに日本語をつけて訓読みをしたりするのですが、漢語がなければカタカナ語をつかってしまいます。
 プリンスメロンなどをいまさら「***瓜」などと漢字を当て字で作っても通用しないでしょう。