考えるための道具箱

Thinking tool box

◎青山真治の小説は。

2007-05-23 00:01:29 | ◎読
青山真治の『エンターテインメント』の面白さをなんとか言葉にしようと、書き始めてはみたものの、昨日から小一時間ほど、ちょっと書いてはやめて、次の書き出しを探し出し、それもまた違うなと、こんなことを繰り返しついに頓挫して、ベッドに横になったり、平野啓一郎の『決壊』を今頃ようやく読んでみたり、テレビをつけてみては、くだらんとか毒づいて、またパソコンの前に向かってみるものの、どうも、言葉が続かず、1日、寝かしてみた。しかし、あいかわらず書いては消し。その書き出しは、たとえば…

◎青山真治自身の、ときに問題視される暴力的な言論が、青山真治の小説に反映されているのだろうか。
◎これはそうとうなエンターテインメント。しかし、同じくらいエンターテインメントではない。
◎もし、いま街頭インタビューを受けたら、きっと「好きな作家は青山真治」と答えると思う。
◎この満ち溢れたB級を評する言葉がどこにあるのだろう。
◎「青山真治」で検索してみる。いくらページを繰っても『エンターテインメント』が出てこないのは…云々。

なんというか、どれも冴えない。まったくもって最低だ。結局、鎮座して語るような小説じゃないんだよな。もはや、映画の残滓でも、映画の青写真でもない青山真治の破滅的な小説世界を言い表すためには、それに対抗できるとも劣らない、同じような破滅的で暴力的な言葉が必要なんだろう。こんなふうに書きつつも、あいかわらず、鎮座してんじゃねえか、と誰かがささやく。

思えば、このブログでも何度か青山の小説に触れていることは触れている。『死の谷'95』、『ホテル・クロニクルズ』、『サッド・ヴァケイション』、『雨月物語』。『死の谷'95』は、何年前の年間ベストにあげていたし、『サッド・ヴァケイション』にいたっては、わが家に残したい50冊のうちのひとつにもあげている。にもかかわらず、それぞれのエントリーでは、ほんのわずかしか言葉を生み出せていない。編みだせていないというべきか。たとえば、『エンターテインメント』中の短篇のひとつ「夜警」については、『群像』掲載時に、こんなことを書いている。

「青山真治はあいかわらず映像的。主人公が警備員をやめてビルを出た瞬間に、ipodから流れてきたbossの「Back In Your Arms」はなんともそれらしいBGM。」

わずかこれだけ。確かに「夜警」を読んだときは、かなり忙しく、でも、この小説についてはなにか、瑕とか痕跡のようなものを残しておきたい、という思いだけで、とりあえず書いたことだけは覚えている。でも、この掌編について語るべきは、これだけではないはずだ。

なんだろう。攻める隙のようなものがまだ発見できないでいるのか。「隙」?そういえば、青山真治の小説について、まとまった評論はなかったはずだ。なんといっても、「青山真治」でググッても彼の小説についての項目にヒットするまでは相当数のページを繰らないといけないくらいだから。青山の小説では『ユリイカ EUREKA』が、三島賞を受賞しているが、このたび、予想どおり受賞となった佐藤友哉の『1000の小説とバックベアード』なんかは、余計なあとがきまで含めて、それはそれでよい小説なのだが、何かを語るだけの「隙」が素人目にみてもたくさんある。もちろん、それは佐藤の小説を損なうものではなく、その「あそび」のような「未完成」のところまで含めての小説の味だと思うが、それに比べると、青山の一連の小説は、その「あそび」のようなものがなく、ある種の切迫感みたいなものでギシギシになっているような気がする。きっと、視点をズラしてみれば、わずかな「隙」を発見できるかもしれないが、今日は無理だ。いや、いまはまだ無理だというべきなんだろう。

もう少し、このB級につきあってみるほかないか。それまでは、『エンターテインメント』に収められた「刺青の男」を何度も読んで、突然訪れすべてを蹂躙していった謎の雀士(かどうかもわからない)バラケンという男に何度もビビり続けなければならないんだろう。もしくは、語り手の狂気のほうか。いや、ほんとうにビビるべきは、表題作「エンターテインメント」の青山と思われる映画監督だろう。