ユニバーサル開発設計事務所のブログ

自動車業界における開発、設計、原価低減、品質信頼性向上を対象とした開発設計業務を行っております。代表三谷のブログです。

草戸・川西街道漫歩(5)

2011-07-05 21:30:35 | Weblog
 時間のある時、草戸のことをよく知っている高齢者の方の体験談を聞いて歩いている。先日書いた草戸の芦田川の惨状が更に強くリアルに迫ってきた。

 8月8日の福山空襲のことは以前書いたが、さらに惨状を付け加える。こういうことから目を背けるのではなく、やはり現実として捉えることが、私たちが今後の平和を維持するために必要ではないかと思う。

 警戒警報発令 午後9時45分  空襲警報発令 午後10時5分 空からの焼夷弾攻撃を受けながら、市民は、家族の手を引き、水でぬらした薄い布団を頭からかぶり、蚊帳を持って逃げまわった(何故蚊帳を持って逃げたのか?かなりの人が書いているが、理由が分からない。蚊帳がひとつの生活母体であったのか。冷房もない暑い夏をすごすための知恵かもしれない。東日本大震災で被災された方々へのひとつのヒントになるかもしれない。然し今蚊帳は売ってないかも)。

 米軍機は照明弾を落とし、続いて空からガソリンのようなものをまき、その上で焼夷弾を落とした。福山には「あかつき部隊」というのがあって、応戦はしたのだけど、折角サーチライトで敵機の姿を捉えても、高射砲がぜんぜん届かず、撃っても、線香花火みたいに途中で炸裂し、その破片が市内に落ちた。今日会った人は近所の畑に落ちていたと話している。地上では、米軍の落とした焼夷弾が地面に突き刺さり、火を噴いていた。それに水をかけたり、布団で覆い消した。(焼夷弾の攻撃を受け蔵が焼けた私の家にも不発の焼夷弾が数個あったが、昭和20年代後半に、駐在所の巡査に渡した。)

 翌日被害の少なかった郊外の人たちは、大八車に、藁とコモと縄を積んで山を越え被災した福山市街地に向かった。

 そこで死体をコモに巻き、4箇所縄で縛り、大八車1台に4人乗せ草戸町の草戸大橋と当時300mくらい川下にあった鞆鉄道の鉄橋の間に運んだ。

 そこには土手に直角に長い壕が掘られていた。壕は幅1m、深さも1mくらいで、中には木の枝や藁など燃えやすいものが入れてあった。壕の上には、兵隊が担いでいた鉄砲がある間隔で置いてあった。

 コモで巻かれた死体を鉄砲の上に並べて、松根油をかけて火をつけたが、なかなか燃えず、無残な状況だった。


 今でも壕を掘った後の場所は生えている草が違うと言う。そんな悲劇は人々の記憶から消えても、苦しみながら亡くなった人の怨念は何時までも消えることはない。
コメント
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