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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

篠山 Ⅰ

2019年12月14日 | 兵庫県

(篠山城)

 

                       

史跡 篠山城跡

 

 篠山はもの凄い観光客で賑わっていた。篠山と聞いてもデカンショ祭りと黒枝豆くらいしか思いつかないが、聞けば最近はテレビ等で取り上げられ、人気の観光スポットになっているらしい。

 三連休初日のこの日は、市内の駐車場は満杯で、辛うじて篠山城三の丸跡に設けられた駐車場に自動車を停めることができた。

 

 

篠山城外堀

 

 篠山城は慶長十四年(1609)に徳川家康が豊臣方の拠点である大阪城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために山陰道の要衝であったこの地に築いた城である。城の縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎が行った。当時「笹山」と呼ばれた丘陵を利用し、堀を二重に巡らし、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっている。天守閣は築かれず、二の丸には大書院などの御殿が建てられた。江戸時代を通じて譜代大名の四家が藩主として次々と移ってきた。

 

 

御殿跡

 

 復元再建された大書院の裏手では御殿跡の部屋の配置が分かるように整備されている。

 

 

大書院

 

(王地山公園)

 

 

王地山公園

 

 

孤松臺

 

 王地山は高台で眺めがよく、松の木が一本生えていたことから、「弧松台」と呼ばれた。西園寺公望が山陰道鎮撫の際に篠山に滞陣したことから篠山町長が西園寺に揮毫を依頼してこの石碑が建立された。

 

(北新町)

 今回の篠山の旅の眼玉は、市内十二か所に建てられた伊能忠敬の足跡を記念する石碑を踏破することにあった。場所を知るために「伊能忠敬篠山領探索の会」の作成した「伊能忠敬笹山領測量の道めぐり」と題したパンフレットを入手しなくてはならない。そこで探索の会会長加賀尾啓一様(81歳)のお宅に電話して、パンフレットを取り寄せた。加賀尾会長はメールを持っておられないので、まずFAXでご自宅にこちらの住所等をご連絡しなくてはならない。当方は自宅にFAXがないので、駅前のコンビニから送ることになった。すると直ぐにパンフレットを郵送していただいた。これで概ね石碑の場所は分かったが、ご親切にも加賀尾会長が当日現地をご案内いただけるとのこと。せっかくなのでお言葉に甘えることにした。

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道①

 

 会長との約束は午後であったが、思いのほか亀岡の史跡探訪が順調にいき、篠山に入ったのは午前十時半くらいであった。あまりに早過ぎたので、約束の時間まで自力で石碑を回ることにした。京都側から篠山に入ると、⑫番目の福住から昇順に回ることになる。

 伊能忠敬は全国を測量して歩いたので、その足跡に石碑を建てようとすれば、無数にその候補地がある。しかし、実際にその場所に石碑が建てられているのはそれほど多くはない。私の知っている限り、篠山市の十二か所が最高で、次いで広島県神石高原町の四か所といったところであろう。

 

 石碑①は丹波篠山市立青山歴史村の駐車場の前に建てられている。文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊十名は、百三十一人の労役村民を従えて、笹山市中の西町、西町口木戸番所、魚屋町、二階町、右大手門、青山下野守居城まで測量。同町内測所前に杭を打ち込んで止宿。翌六日は早朝より東岡屋村に向けて出発、十日午後、笹山城下二階町に到着。止宿。夜は晴れたため天体観測。十一日は早朝より、五日に打ち込んだ杭より始め、呉服町、立町、河原町、京口門番所、大芋川の京橋二十間を渡った。

 

(西岡屋)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道②

 

 西岡屋の石碑は、権現山の南側に建てられている。この場所から南側に昔の街道が伸びていたらしいが、今となっては自動車一台も通れないほどの細い道で、これが街道とは思えない。加賀尾会長以下伊能忠敬笹山領探索の会の皆さんは、伊能忠敬が残した絵図をもとに、彼らが測量を行いながら歩いた道を特定し、中にはその作業の過程で明らかになった昔の街道もあったそうである。加賀尾会長によれば、測量隊の足跡をたどって歩くこと二回、その作業を通じて正確な位置を特定したのである。皆さんの努力にまったく頭が下がる。

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は百三十一人の労役村民を従えて宮田村の分岐点の杭から京都街道を測量し、有居、西岡屋、東岡屋村に入り、清水寺街道の分岐点に杭を打ち込んだ。翌六日、測量隊は早朝より百三十一人を従えて笹山を出発、前日東岡屋村に打ち込んだ分岐点の杭から清水寺街道の測量を始めた。渡瀬河原広く、その川幅約三十間を渡り、東吹村に入った。

 

(西谷)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道③

 

 八幡神社の西、美しい溜池の前に石碑がある。

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は早朝より百三十一人の労役村民を従えて、北野新村から京都街道の測量を始め、木之部村字西木之部、字東木之部、宮田村に入った。国料村へ通じる分岐点に杭を打ち込んだ。ここから北上し、佐仲峠まで測量して、その後宮田村まで測量することなく戻った。大庄屋久下弥太夫宅で昼食後、分岐点の杭から京都街道に入り、西谷村、大野村、坂本村、川北村を測量し、笹山城下に向かった。

 

 

溜池

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亀岡 Ⅱ

2019年12月14日 | 京都府

(馬路町先人顕彰碑)

明治維新人見中川両姓唱義碑

 

淸聲千古(中川人見両姓戊辰唱義碑)

 

 西園寺公望が慶應四年(1868)に山陰道鎮撫使として馬路に着陣した際に中川、人見両氏が陣営に参じたことを顕彰した石碑である。篆額は西園寺公望。竹越與三郎撰文、根岸好太郎の書。建立は中川小十郎。実父中川禄左衛門、養父武平太、叔父謙二郎らの名前が刻まれている。

 

中川謙二郎先生碑

 

中川小十郎先生之碑

 

(堀ノ内)

 

中川小十郎生家

 

 馬路町先人顕彰碑の道路を挟んで向い側辺りが中川小十郎の生家跡、即ち中川禄左衛門旧宅に当たる。堀に囲まれていたことから、「堀ノ内」と呼ばれていた。現在、無住となっており、母屋も取り壊されている。辛うじて蔵と土塀、長屋門が残されているが、いずれも老朽化が著しく、倒壊するのも時間の問題かもしれない。早期に保存の手を入れてもらいたい。

 

(長宮)

長宮

 

馬路

 

(典學社跡)

 

典學社跡

 

 注意していないと見逃してしまいそうな小さな石碑である。典學社は嘉永年間に桑田郡で開かれた最古の私塾で、中川小十郎の父や叔父謙二郎らも門下であった。塾長中條侍郎の娘梅野はのちの三輪田真左子(三輪田学園創始者)。真左子は、日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立にも関わり、中川謙二郎の招きにより東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の講師も務めた。

 

 

(四ツ辻)

 中川小十郎は、六歳のとき中川武平太の養子となった。小十郎は武平太の家で幼少期を過ごした。この家も無住となっており、建物の荒廃が進んでいる。

 

中川武平太旧宅

 

(人見龍之進旧宅)

 人見龍之進は、人見一族を代表して山陰道鎮撫使に同行するとともに、総督西園寺公望の宿泊施設として自らの屋敷を提供した。西園寺は馬路滞在の三日間をここで過ごした。この屋敷も人が住んでいないらしく、ほとんど幽霊屋敷の様相を呈している。

 

 

人見龍之進旧宅

 

(導養寺)

 狭い境内の片隅に北村龍象講学遺蹟碑が建っている。

 北村龍象は、明治大正期の教育者。幕臣の子として京都に生まれ、戊辰戦争に従軍の後、馬路に居を移した。典学社の後を継ぎ、四年にわたって塾を運営した。その後も馬路に残り、馬路学校と呼ばれる塾を開くなどして地域の青少年教育に尽くした。

 

道養寺

 

北村龍象先生講學遺蹟

 

(金輪寺)

 

金輪寺

 

頼君三※處士墓

※=森という漢字の左下の「木」が「豆」

 

 

櫻井新三郎源頼直墓

 

 神尾山金輪寺は、亀岡市街から十キロメートルほど離れた山の中にある。最寄りの集落からでも四キロメートル以上も山道を登らなくてはいけない。

 金輪寺の創建は延暦二年(783)。その後、一時衰微したが、寛治年間(1087~93)に栂尾高山寺の明恵上人により再興され、隆盛を誇った。往時には堂宇が立ち並ぶ巨大寺院であった。今も本堂の屋根や扉に菊の紋が使われているのが、由緒正しさを物語っている。幕末、当寺の住職大橋黙仙は、勤王で知られた。寺の庫裏に勤王の志士が集まり、密議を交わしたといわれる。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎や戊辰戦争に従軍して上京し江戸で暗殺された桜井新三郎の遺髪を持ち帰り、供養のために本堂裏に遺髪碑を建てた。

 

 

 

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松阪

2019年12月07日 | 三重県

(小野古江渡)

 雲出川は、伊勢国・大和国の境にそびえる高見山地の三峰山(標高1235メートル)に源を発し、伊勢湾へと注ぐ、櫛田川・宮川と並ぶ三重県下三大河川の一つである。大河であるために、南北朝時代には南朝方と北朝方の境界でもあり、軍事上の問題から橋がかけられず、各所に渡し場が設けられた。その一つが、かつてこの地にあった「小野古江渡(おののふるえのわたり)」である。この地は、伊勢街道に沿っているため、全国各地からの伊勢参りの人びとが行き交う交通の要衝であり、慶長十九年(1614)頃までは川越場から人馬によって川越えをしていた。江戸時代に四回おこった「おかげまいり」では、全国各地から多いときには五百万人もの民衆が伊勢参宮のために往来したといわれ、渡し場も宿場として賑わった。明治十三年(1880)には雲出橋が架けられ、地域の生活と文化を結ぶ架け橋となった。現在の雲出橋は、平成十二年(2000)五月に建設されたものである。

 松浦武四郎は、伊勢国須川村(現・松阪市小野江町)に生まれた。

 

 小野古江渡趾

 

 

常夜燈

 

(松浦武四郎生誕の家)

 

松浦武四郎生誕の家 

 

 

松浦武四郎誕生地

 

 この家は松浦武四郎の実家にあたる建物で、昭和三十七年(1962)に三雲村が史跡に指定したものである。この家の前の道は、伊勢街道であり、南に行けば伊勢神宮、北へ行けば四日市の日永で江戸と京を結ぶ東海道につながり、古くから多くのおかげ参りの旅人が行きかった道である。武四郎十三歳のとき起こった文政のおかげ参りでは、この街道を歩いた旅人は一年に四百~五百万人に上ったとされる。武四郎は街道を往く多くの旅人に刺激を受け、旅を志すようになったといわれる。この屋敷は現在に至るまで増改築が重ねられてきたが、武四郎生誕二百年を迎えた平成三十年(2018)に合わせて整備を進め、明治維新直前に作製された家相図に基づき、主屋、離れの保存修理と土蔵二棟、納屋の補強工事が施された。

 

(本楽寺)

 生家近くの本楽寺は、松浦家の菩提寺である。周囲の道は軽自動車一台がやっと通れるくらいの幅しかなく、非常に神経を使う。できれば生家前の駐車場に車を停めて、歩いて訪問することをお勧めする。

 

 

 本楽寺

 

(真覚寺)

 文政七年(1824)、七歳の武四郎は、真覚寺の住職、来応和尚から読み書きを習った。来応和尚は、諸国で修業し、霊力を身に付けたといわれる。武四郎の自伝によれば、十二歳の頃、雲出(くもず)村伊倉津村(現・津市雲出伊倉津町)に狐のとりついた娘がいたが、来応和尚がお経を唱えると狐から解き放たれ、稲荷大明神として祀ったところ、大変ご利益があると評判になったという。

 

 真覚寺

 

 

来応和尚の墓

 

真覚寺境内には来応和尚の墓が残されている。

 

(松浦武四郎記念館)

 

松浦武四郎記念館 

 

 松浦武四郎記念館は、平成六年(1994)の開館以来、松浦武四郎に関する資料の収集保管、調査研究、展示公開、教育普及などの博物館活動を行っている。

 

松浦武四郎記念館の展示  

 

 

一畳敷書斎(再現)

 

 全国各地を旅した武四郎は、七十歳を過ぎてこれ以上旅を続けることの困難を悟り、全国の知人に依頼して各地の古社寺から古材を贈ってもらいそれを組み合わせてたった一畳の書斎を自宅に増築した。使用されている木材は、広島の厳島神社、吉野の後醍醐天皇陵の鳥居、嵐山の渡月橋の橋げたなど、北は宮城県から南は宮崎県に及んだ。「一畳敷」と呼ばれるこの書斎は、現在東京三鷹市の国際基督教大学の敷地内に現存しているが、常時公開されているわけではないので、なかなか見ることができない。

 

          

多氣志楼  

会沢正志斎筆

 

 嘉永七年(1854)、武四郎に頼まれて会沢正志斎が書いたもの。武四郎は、門や入口、客間にかける書を集めて巻物に仕立てているが、佐藤一斎や富岡鉄斎など交流に広さを伺えるものが今に伝えられている。

 

 

松浦武四郎像

 

 

松浦武四郎像

 

松浦武四郎歌碑

 

 記念館前に武四郎の歌碑が建てられている。

 

 陸奥の蝦夷の千島を開けとて

 神もや我を作り出しけむ

 

 蝦夷地や千島列島を明らかにせよと神が私にこの地に送り出したのだ。蝦夷地調査は神から与えられた使命だという意味。武四郎の覚悟が伝わる歌である。

(射和)

 

 竹川家  

 

 松阪市射和(いざわ)は、今も昔の雰囲気を残す街である。その一角に竹川竹斎の生家が残されている。

 竹川竹斎は、文化六年(1823)の生まれ。家は豪商、両替商で江戸、大阪に支店を持っていた。江戸、大阪にあるときは余暇に学んで村の荒廃を憂い、自ら測量術、農土木術等を学んだ。射和、阿波両村を潤す溜池を、私財を擲って完成し、飢饉に備え村人のため米千俵を買うなど両村のために尽くした。嘉永には殖産のため茶園を開き、茶種と桑、楮、松などの苗木を植えた。安政二年(1855)には万古陶器を開設し、また射和文庫を建て一万巻の書物を置き教育の普及に力を尽くした。嘉永四年(1851)「海防護国論」を著わし、勝海舟に意見を寄せ海防思想をのべ、鳥羽藩のため大砲鋳造の献金をした。慶應二年(1866)の開港に反対し、幕府に物価対策として外国米七十万俵の購入を、また大阪・四日市間に航路を開くことを上申した。明治十五年(1882)、年六十で没。

 

(国分家)

 竹川家の向かいに国分家がある。国分家も竹川家と同じく豪商の家で、往時は「亀甲大」印の醤油を営んでいた。

 

 

 国分家  

 

 まだまだ三重県下の史跡を回りたかったが、日も傾いてきたので、この日の史跡探索はここまで。後ろ髪ひかれる思いで三重を後にした。また松阪を歩きたい。

 

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津 Ⅱ

2019年12月07日 | 三重県

(旧高通児童公園)

 

久居城跡 

 

 久居はかつて津とは独立した市であったが、平成の大合併で津市に吸収された。津の市街から七~八キロメートルも離れている。

 町の中心には、久居陣屋があった。今もかつての城下町らしく街には寺院が多い。久居藩は、津藩から分領されて藤堂高通が立藩したものである。城を築くことは認められず、陣屋を置いていた。

 以前この場所は高通児童公園という名の公園であったが、巨大な多目的ホールの建設工事中で立ち入ることはできなかった。

 町の中の一等地を町のために活用することは大いに結構であるが、この場所に陣屋があったことは何らかの形で残してもらいたいものである。

 

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鈴鹿

2019年12月07日 | 三重県

(荒神山観音寺)

 

                       

観音寺

 

 荒神山(高神山とも)観音寺は、慶応二年(1866)四月八日、博徒神戸の長吉と桑名の穴太の徳が縄張り争いから、裏山で死闘を尽くしたのが、後の世に「荒神山の血煙」と題した浪曲となり、一躍有名になった。

 今、観音寺を訪れるとそのような血生臭い争いがあったことが信じられないほど、境内は静かで落ち着いた空気が流れている。

 荒神山の決闘の名残といえば、護摩堂の傍らの「吉良仁吉之碑」と本堂の前に「殴り込み荒神山」という古い東映映画の広告が貼り出してあることくらいである。

 

 

吉良仁吉之碑

 

 荒神山の喧嘩は、伊勢の加佐登神社。高神山観音寺の鳥羽をめぐるものである。伊勢日永追分の黒田屋勇蔵の跡目に絡む騒動でもあった。跡目争いに勝って縄張りを手に入れた子分穴太(安濃)徳(あのうとく)に対し、三河に追われた神戸の長吉が吉良仁吉、寺津間之助、そして清水次郎長の力を借りて奪い返そうと闘いを挑んだ。穴太徳は平井亀吉、黒駒勝蔵に助力を頼んだ。いわば次郎長と黒駒勝蔵との代理戦争の様相を呈していた。

 仁吉、大政ら二十二人は長吉を擁し、寺津に集結、海路で四日市に上陸し、石薬師宿に陣取った。勝蔵、亀吉の一党は百三十人ともいわれるが、実際は四十人余といったところであろう。これも庄野宿の穴太徳の陣に駆け付けた。両者は加佐登荒神山を挟んで対陣した。地廻りの役人が調停に乗り出し回避を図ったが、権威も空しく無視されてしまう。

 

 

殴り込み荒神山

 

 慶応二年(1866)四月六日、近在の参拝客で賑わう高市の真っ最中、群衆が見守る中、闘いは始まった。陰の主役次郎長と亀吉、勝蔵は不在で、子分間の壮絶な戦闘となった。大政が穴太方の用心棒角井門之助を倒すが、仁吉は鉄砲に撃たれ瀕死の重傷を負う。次郎長方は斬死二人、重傷四人、軽傷九人をだし、総勢二十二人中十五人が戦闘能力を失うという苦境に立たされた。石薬師の山中に隠れ、夜になって四日市に出て日永追分の善吉の手引きで船を調達し、嫌がる水主をなだめすかして、何とか遺体とともに寺津に引き上げた。一行中に売講子清龍なる講釈師がいて、大政の命を受け清水の次郎長へ知らせに走った。清龍は戦況を次郎長に熱弁をふるって語った。決定的な敗北ではなかったが、動員数で劣った分、吉良仁吉ら三人の子分を失うかつてない痛手を蒙った。(高橋敏著「清水次郎長」岩波新書より)

 

(神戸城跡)

 

 

神戸城

 

 神戸(かんべ)城は、伊勢平氏の一族神戸氏が戦国時代に築いた城である。神戸氏は織田信長軍の侵攻により圧迫されたが、永禄十一年(1568)、信長の三男を養子に迎えて和睦した。信孝は、天正八年(1580)、金箔の瓦を使用した五重の天守閣を築いたが、本能寺の変後、秀吉と対立して自刃し、文禄四年(1595)には天守閣も桑名城に移され、結局江戸期を通じて天守閣が再建されることはなかった。

江戸時代の城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保十七年(1732)本多忠統(ただむね)が入国した。本多氏の治世はその後百四十年、七代忠貫(ただつら)まで続いた。城郭は明治八年(1875)解体され、今は石垣のみが残されている。堀は埋め立てられ、城跡は現在神戸高校の敷地となっている。

 

 どうでもよいことながら、神戸信孝こと織田信孝は幼名を三七あるいは三七郎といった。三月七日に生まれたというだけでそのように名付けられた。いかにも即物的な信長らしい命名であるが、私と同じ誕生日なのである。個人的にはもう少し頑張って欲しかったが、所詮秀吉に勝てる器量ではなかった。

 

 

吉川治太夫忠魂碑

 

 神戸城跡にこの町出身の志士吉川治太夫の碑が建てられている。

 吉川治太夫は文化六年(1809)の生まれ。十五歳にして藩主に認められ、聴番、茶道として近侍した。天保六年(1835)、中小姓本席、同八年、侍読、同十四年、代官役、安政六年(1859)、馬廻役を歴任し、万延元年(1860)には藩校教倫堂の掌教官を兼任した。文久元年(1861)、河内国錦部郡長野の代官となり、文久三年(1863)、配下の庄屋吉年儀蔵(長野一郎)らに働きかけ、中山忠光を報じて金殻の供給、武器の調達にあたった。狭山藩による吉年米蔵逮捕を防ぐために尽力したが、ことが露見して尋問のため壺井村に至ったところで自害して果てた。年五十五。

 

(妙祝寺)

 神戸公園の周囲には寺院が多い。城下町の名残であろう。その中の一つ、妙祝寺には、吉川治太夫や侠客神戸の長吉の墓がある。

 

 

妙祝寺

 

 

勤王家 吉川祇徳之墓

 

 治太夫の墓は表面が磨滅して判読できないが、傍らに「勤王家 吉川祇徳之墓」と刻まれた石柱が建てられているので、辛うじて行き着くことができた。その横にも吉川治太夫という名前の刻まれた墓があったが、没年から推測して治太夫祇徳の父のものであろう。

 

 

神戸の長吉(右)とその子分の墓(左・中)

 

 神戸の長吉は、明治十三年(1880)、六十七歳で死去したという。

 

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飛島

2019年12月07日 | 愛知県

(大宝)

 

                       

伊能忠敬測量之跡

 

 飛島村と弥富市の境に近い、鍋田大橋の北詰めに伊能忠敬測量之跡を示す石碑が建てられている。伊能忠敬が第四次測量隊を率いて中部地方に測量に訪れたのは、享和三年(1803)五十八歳のことであった。飛島には同年五月八日午後、大宝新田に到着し、長尾治右衛門宅に五月十一日まで宿泊した。滞在中は雨のため地図を作成していたことが「測量日記」に記されている。

 

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一宮

2019年12月07日 | 愛知県

(丹羽)

 京都の父が米寿を迎え、三連休の最終日に家族でお祝いを開くことになった。三連休の前に一日休みをくっつけて帰省することになった。初日は、名古屋で途中下車して、一宮、飛島、三重県の鈴鹿、津、松坂の史跡を巡ることにした。最初の訪問地は一宮市丹羽である。

 

                       

鷲津有隣堂之跡

 

 一宮市丹羽南屋敷の住宅街の中に鷲津毅堂を生んだ鷲津家の家塾有隣堂の石碑が建っている。特に説明板があるわけもなく、住宅街の中に石碑がぽつりと建てられているのみである。

 鷲津毅堂は、文政八年(1825)、尾張の丹羽郡丹羽村(現・一宮市丹羽)に生まれた。代々郷士であったが、曾祖父以来代々古学流の家学を継ぐ家であった。鷲津家は丹羽村に有隣堂を開き、諸生を教えていた。毅堂は、江戸に出て教授していたが、慶応元年(1865)、尾張藩の招きを受け奥儒者となり、藩校明倫館教授を経て三年で督学となった。藩主慶勝に従って上京し、国事を周旋、戊辰戦争では命を受けて隣藩の勤王勧誘に奔走した。同年徴士として京都に入り権弁官事となり、登米県権知事を経て明治五年(1872)には権大法官、明治九年(1876)五等判事。明治十四年(1881)には学士会員、翌年には司法権大書記官となったが、同年秋病死した。年五十八。

 

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