(千葉周作生誕の地)
千葉周作生誕の地
今回の旅行では、連日日の昇る前、早朝四時半に起床し、日の出の時間には第一目的地に行き着くような過酷な日程であったが、さすがに体力的に厳しいものがあった。遂に三日目の朝は寝坊してしまい、気が付いたら外はすっかり明るくなっていた。ホテルは仙台市内の繁華街の中にあった。ベッドの中で「やっぱり都会は夜通し騒がしいな」と感心していたが、何のことは無い。窓から外を見ると、往来は通勤の人や車が行き交っていた。慌てて飛び起きて、朝食も取らずに栗原市花山方面に向かった。
花山は剣豪千葉周作の出身地として知られる。実は、千葉周作生誕地と称する場所は、陸前高田にもある。どちらが正解というのは断言できないが、司馬遼太郎先生は小説「北斗の人」で、千葉周作の父、千葉幸右衛門の出身地を栗原の花山とし、その父が陸前気仙郷にいたころに娶った娘に周作を産ませたとしている。
(孤雲屋敷)
孤雲屋敷
孤雲屋敷(旧佐藤家住宅)は、花山村草木沢小田に所在した住宅を移築したもので、七代目当主重太郎(号を孤雲と称す)は、千葉周作の剣士としての天分を見抜いた人物として知られる。このエピソードは、司馬遼太郎先生の小説「北斗の人」にも紹介されている。孤雲居士は、この住居で隠遁生活を送っていたが、趣味、学問に長け、人徳も厚く、多くの人と交わりがあったと言われる。その中の一人に周作の父、千葉幸右衛門がいたというわけである。現在、孤雲屋敷は一般に公開され、千葉周作に関する資料の展示などを行っているが、寝坊したとはいえ、私がここに行き着いたのは朝八時過ぎであり、孤雲屋敷の開館時間前であった。
(城国寺)
城国寺
孤雲屋敷から数百メートルという場所に城国寺がある。
城国寺は、伊達藩川口宿老遠藤玄信が寛永年間にこの地に移転再興したという古刹で、以来遠藤家の菩提寺となっている。墓地の一段高くなった場所に遠藤家の墓地がある。
贈四位遠藤允信公墓
(遠藤文七郎墓)
幕末の遠藤家当主は十一代遠藤文七郎允信(さねのぶ)。天保七年(1836)生まれ。十九歳で父元良に代わって奉行となった。仙台藩の勤王派で、性格は酷烈といわれた。藩論を勤王に導こうとして佐幕派の但木土佐と対立し、文久三年(1863)政争に敗れて閉門を命じられた。維新後は奉行に復して戊辰戦争後の処理に当たった。侍詔院下局に勤め、次いで仙台藩権大参事となった。のちに神職に転じ、氷川、都々古別、平野、塩竃各神社の宮司を務めた。明治三十二年(1899)没。六十四歳。
(金剛寺)
金剛寺
金剛寺には梁川家代々の墓地があり、その中に羽前金山で壮烈な戦死を遂げた梁川播磨の墓がある。
梁川一家戦死英霊之碑
本堂向かって左手にある梁川一家戦死英霊之碑である。
梁川頼親墓
梁川播磨は、栗原郡鴬沢邑主。三百石。慶應四年(1868)、七番大隊長として出陣。七月十一日、羽前金山で傷。軍監五十嵐岱助と刺し違えて死。三十七歳。
氏家新太夫墓
長沼丹宮吉直墓
梁川播磨の墓に向き合うように、氏家新太夫と長沼民弥という二人の家臣の墓が置かれている。両名とも梁川播磨と同じ七月十一日の羽前金山における戦闘で戦死。ともに二十七歳であった。
(瑞満寺)
瑞満寺
瑞満寺には、姉歯武之進とその家臣の墓がある。
仙台藩軍監
烈士 姉歯武之進顕彰碑
姉歯武之進は、世良修蔵暗殺に関わった仙台藩士。剣に優れていたという。戊辰戦争では、五番大隊瀬上隊の軍監兼小隊長として出陣。慶應四年(1868)閏四月二十九日白河城中ノ丸で戦死。二十五歳。この顕彰碑は、戊辰戦争から百二十年目の戊辰年であった昭和六十三年(1988)に建立された。
姉歯武之進平景澄墓(中央)および
その家臣(右:義勇孝忠清信士 左:義真忠鑑清信士)の墓
右が日下勇、左は千葉松治の墓。いずれも姉歯武之進の家臣。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。
(柳徳寺)
柳徳寺
柳徳寺の墓地の一角に先覚者の墓が集められており、その中に戊辰戦争で戦死した佐藤百助の墓がある。
佐藤百助藤原艮勝之墓
佐藤百助は、坂本大炊の家来。慶應四年(1868)五月一日、白河で戦死。