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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

岩沼

2013年07月06日 | 宮城県
(竹駒神社)
 岩沼は交通の要衝であり、戊辰戦争時には奥羽鎮撫総督府が置かれ、九条道孝は岩沼要害に滞在した。


竹駒神社

岩沼市の竹駒神社は、日本三大稲荷の一つという。ところが、インターネットで「三大稲荷」を検索すると諸説あるようで、「伏見稲荷・豊川稲荷・笠間稲荷」を挙げるのが一般的のようである。さらに佐賀県の祐徳稲荷や岡山県の最上稲荷としている説もあるが、どういうわけだか竹駒神社を挙げているHPは少ない。さらに調べると、三大稲荷を自称している神社は全国に九つもあるようで、こうなると「どれでも良いか」という気になってくる。当事者にとっては深刻な問題かもしれないが。
竹駒神社は広い境内を持つ神社で、仙台額兵隊が一時期ここを屯所としていた。

(鵜ヶ崎神社)


鵜ヶ崎神社


戊辰役戦死弔魂之碑

 岩沼領から出陣して戦死した二名(大宮重左衛門と三浦曽右衛門)の弔魂碑である。両名とも白河口における戦闘での犠牲者である。


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栗原

2013年07月06日 | 宮城県
(千葉周作生誕の地)


千葉周作生誕の地

 今回の旅行では、連日日の昇る前、早朝四時半に起床し、日の出の時間には第一目的地に行き着くような過酷な日程であったが、さすがに体力的に厳しいものがあった。遂に三日目の朝は寝坊してしまい、気が付いたら外はすっかり明るくなっていた。ホテルは仙台市内の繁華街の中にあった。ベッドの中で「やっぱり都会は夜通し騒がしいな」と感心していたが、何のことは無い。窓から外を見ると、往来は通勤の人や車が行き交っていた。慌てて飛び起きて、朝食も取らずに栗原市花山方面に向かった。

 花山は剣豪千葉周作の出身地として知られる。実は、千葉周作生誕地と称する場所は、陸前高田にもある。どちらが正解というのは断言できないが、司馬遼太郎先生は小説「北斗の人」で、千葉周作の父、千葉幸右衛門の出身地を栗原の花山とし、その父が陸前気仙郷にいたころに娶った娘に周作を産ませたとしている。

(孤雲屋敷)


孤雲屋敷

 孤雲屋敷(旧佐藤家住宅)は、花山村草木沢小田に所在した住宅を移築したもので、七代目当主重太郎(号を孤雲と称す)は、千葉周作の剣士としての天分を見抜いた人物として知られる。このエピソードは、司馬遼太郎先生の小説「北斗の人」にも紹介されている。孤雲居士は、この住居で隠遁生活を送っていたが、趣味、学問に長け、人徳も厚く、多くの人と交わりがあったと言われる。その中の一人に周作の父、千葉幸右衛門がいたというわけである。現在、孤雲屋敷は一般に公開され、千葉周作に関する資料の展示などを行っているが、寝坊したとはいえ、私がここに行き着いたのは朝八時過ぎであり、孤雲屋敷の開館時間前であった。

(城国寺)


城国寺

 孤雲屋敷から数百メートルという場所に城国寺がある。
 城国寺は、伊達藩川口宿老遠藤玄信が寛永年間にこの地に移転再興したという古刹で、以来遠藤家の菩提寺となっている。墓地の一段高くなった場所に遠藤家の墓地がある。


贈四位遠藤允信公墓
(遠藤文七郎墓)

 幕末の遠藤家当主は十一代遠藤文七郎允信(さねのぶ)。天保七年(1836)生まれ。十九歳で父元良に代わって奉行となった。仙台藩の勤王派で、性格は酷烈といわれた。藩論を勤王に導こうとして佐幕派の但木土佐と対立し、文久三年(1863)政争に敗れて閉門を命じられた。維新後は奉行に復して戊辰戦争後の処理に当たった。侍詔院下局に勤め、次いで仙台藩権大参事となった。のちに神職に転じ、氷川、都々古別、平野、塩竃各神社の宮司を務めた。明治三十二年(1899)没。六十四歳。

(金剛寺)


金剛寺

 金剛寺には梁川家代々の墓地があり、その中に羽前金山で壮烈な戦死を遂げた梁川播磨の墓がある。


梁川一家戦死英霊之碑

 本堂向かって左手にある梁川一家戦死英霊之碑である。


梁川頼親墓

 梁川播磨は、栗原郡鴬沢邑主。三百石。慶應四年(1868)、七番大隊長として出陣。七月十一日、羽前金山で傷。軍監五十嵐岱助と刺し違えて死。三十七歳。


氏家新太夫墓


長沼丹宮吉直墓

 梁川播磨の墓に向き合うように、氏家新太夫と長沼民弥という二人の家臣の墓が置かれている。両名とも梁川播磨と同じ七月十一日の羽前金山における戦闘で戦死。ともに二十七歳であった。

(瑞満寺)


瑞満寺

 瑞満寺には、姉歯武之進とその家臣の墓がある。


仙台藩軍監
烈士 姉歯武之進顕彰碑

 姉歯武之進は、世良修蔵暗殺に関わった仙台藩士。剣に優れていたという。戊辰戦争では、五番大隊瀬上隊の軍監兼小隊長として出陣。慶應四年(1868)閏四月二十九日白河城中ノ丸で戦死。二十五歳。この顕彰碑は、戊辰戦争から百二十年目の戊辰年であった昭和六十三年(1988)に建立された。


姉歯武之進平景澄墓(中央)および
その家臣(右:義勇孝忠清信士 左:義真忠鑑清信士)の墓

 右が日下勇、左は千葉松治の墓。いずれも姉歯武之進の家臣。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。

(柳徳寺)


柳徳寺

 柳徳寺の墓地の一角に先覚者の墓が集められており、その中に戊辰戦争で戦死した佐藤百助の墓がある。


佐藤百助藤原艮勝之墓

 佐藤百助は、坂本大炊の家来。慶應四年(1868)五月一日、白河で戦死。


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登米

2013年07月06日 | 宮城県
(昌学寺)


昌学寺山門

 昌学寺は、弘治元年(1555)の開山。山門(鐘楼門)と観音堂は寛政年間の建造である。


仁雄院忠参蘆洲居士
(芦名靱負墓)

 境内には伊達家一族の芦名氏の墓所があり、幕末の当主芦名靱負の墓がある。
 芦名靱負は、天保十年(1839)登米郡石越村に生まれた。父は佐渡盛長。諱は盛景。小姓頭から若年寄兼大番頭、藩校養賢堂御用掛等の要職を歴任し、参政にのぼった。戊辰戦争では左備指揮掛となり、額兵隊を総督した。越後、会津に転戦、戦後箱館に走った額兵隊統率の責を問われて明治二年(1869)六月、家跡没収のうえ永揚屋入りを命じられた。明治五年(1872)正月、許されて、のち西南戦争にも出征。その後は伊達家の家扶となった。詩画を得意とした。明治二十九年(1896)東京芝邸にて没。年五十八。

(佐沼城跡)


佐沼城跡

 佐沼城は別名鹿ヶ城とも呼ばれ、平安末期から歴史に登場する古い城である。伊達氏が仙台を治めるようになって以降、湯目氏(のち津田と改姓)、その後亘理氏が移り幕末まで続いた。


弔魂碑

 現在、佐沼城跡は史跡公園となっているが、その一角に佐沼領から出兵した戦死者の弔魂碑が建立されている。明治七年(1874)の建立。

(香林寺)


香林寺


戊辰役戦没者之塔

 香林寺は、旧豊里町唯一の寺院で、豊里町のほぼ全戸が檀家と言われ、裏山が開かれて広い墓地が造成されている。境内に戊辰役戦没者之塔が建てられている。これは登米隊、松山隊の戦死者四十名の慰霊碑である。建立は昭和四十五年(1970)。

(福田寺)


福田寺


弾忠潔儀居士(池田亀太郎墓)

 福田寺に池田亀太郎の墓がある。池田亀太郎は、銃士。慶應四年(1868)五月一日、白河で戦死。

(登米神社)


登米神社


登米招魂碑

 登米神社境内に登米領戦死者の招魂碑が建てられている。

(本覚寺)


本覚寺

 本覚寺には仙台藩士米谷吉郎右衛門の墓がある。
 米谷吉郎右衛門は、藩老伊達筑前家来。戊辰戦争では中隊頭として活躍した。明治二年(1869)、旧幕兵隠匿の疑いで捕えられ、五月三日斬に処された。四十六歳。


米谷貫通先生墓
(米谷吉郎右衛門墓)

(冷松寺)


冷松寺

 冷松寺には、仙台藩米谷領戦死者の招魂碑が建立されている。旧米谷領主高泉兼之によって明治十三年(1880)に建立されたものである。


招魂之碑


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石巻 Ⅱ

2013年07月06日 | 宮城県
(飯野川八幡神社)


飯野川八幡神社

 飯野川八幡神社周辺は、亀ヶ森公園として整備されている。八幡神社に隣接するように稲荷神社があるが、さらにその奥に「御霊屋広場」と称されるスペースがあり、そこに墓が集められている。広場というほど広い空間ではなく、高木に囲まれた薄暗い場所である。そこに戊辰戦争で戦死した仙台藩士四名の合葬墓がある。この墓を探して公園内を走り回った。体力と時間を消費した。


仙台藩四名墓

 斎藤律右衛門、萩野市之進、渡辺信八郎、山川幸五郎という四名の仙台藩士の墓である。
 斎藤律右衛門は銃士。登米郡米山の人。慶應四年八月十一日、磐城駒ヶ峰にて戦死。萩野市之進も同じく銃士。大立目下総僕。登米郡米山の人。慶應四年(1868)年八月十一日磐城駒ヶ峰で戦死。渡辺信八郎(新八郎とも)も銃士。登米郡米山の人。慶應四年(1868)八月十一日、磐城駒ヶ峰で戦死。山川幸五郎も大立目下総家中。慶應四年(1868)九月十日磐城旗巻にて戦死。


仙台藩士戊辰戦没之碑

 鳥居前に、戊辰戦争百年を経た昭和四十三年(1968)に建立された戦没者慰霊碑である。

(香積寺)


香積寺


戊辰當藩戦役紀念碑

 香積寺には仙台藩中津山領から出陣し、越後土ヶ谷で戦死した四人の碑がある。明治二十三年(1890)七月建立。

(日枝神社)


日枝神社

 統禅寺に近い日枝神社に、戊辰戦争に関係する石碑が建てられている。


當戊辰役五十年祭碑
戊辰役碑移転建立祭文碑

 「當戊辰役五十年祭碑」は、昭和六十年(1985)に瀬上主膳の曾孫によって建立されたものである。明治二十七年(1894)、瀬上主膳が祭主として慰霊祭を執り行った際、石碑を建立したが、それが風化してしまったため、建立されたものである。
 その右が、戊辰戦争から五十年を記念して建てられた戊辰役碑移転建立祭文碑である。


招魂碑 戦病没者芳名碑

 左は瀬上主膳家中の戦死者の招魂碑。右は戊辰戦争から大東亜戦争にかけての鹿又地区戦病没者の招魂碑である。

(龍石寺)


龍石寺


顯中院白殘清風居士
(斎藤善次右衛門墓)

 龍石寺墓地の一番奥まったところに斎藤家の墓所がある。そこに斎藤善次右衛門と彼とともに戦死した家臣の墓が並べられている。
 斎藤善次右衛門は、陸前桃生郡前谷地村の富豪。しばしば仙台藩に軍費を献上していた。戊辰戦争では仙台藩軍に加わり、慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。四十二歳。


桜井伊勢松墓 本田三十郎墓 山口七三郎墓

 いずれも斎藤善次左衛門に従って従軍し、慶應四年(1868)五月二日、白河にて戦死した。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。


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石巻 Ⅰ

2013年07月05日 | 宮城県
(日和山)


鹿島御児神社

 日和山山頂の鹿島御児神社には、土方歳三や榎本武揚らも立ち寄ったと伝えられる。


日和山からの眺望

 宮城県はいうまでもなく先年の東日本大震災の被災地である。しかし、仙台市内に宿泊して街の様子を観察した限りでは、ほとんど「被災地」を連想するような傷跡を見ることは無かった。繁華街では、人々は何事もなかったかのように飲食を楽しみ、夜遅くまで喧騒が絶えなかった。茨城県や栃木県の墓地では、今もって墓石が倒壊したまま手が付けられていないところも多いが、むしろ仙台市内ではそのような墓地は少なかった。
 ところが石巻まで来ると様子は一変する。改めて地震の、というより津波による被害が甚大であったことを実感した。日和山は標高六十メートルほどの小山であるが、その山頂から南側、つまり石巻湾側を一望することができる。津波に襲撃された一帯は、あの地震から二年余りが経過した今も更地が広がり、「復興」からは程遠い状況であることが見て取れる。
 津波は全てを持ち去ったと言われる。一帯は更地であるが、寺院に付属している墓地だけは、そのまま残っている。津波の猛威は墓石を薙ぎ倒していったものの、墓石を遠くに運び去るほどの力は無かったのであろう。荒野に墓地だけが残る異様な光景が目に焼きついた。
 実はこの中に西光寺があり、真田喜平太の墓標があるはずであったが、被災地でのうのうと史跡巡りをしている自分の姿を恥じて、この場所を歩くのは遠慮した。また時期を見て訪ねることにしたい。

(旧毛利邸)


志賀直哉と住吉町

 住吉町には榎本武揚や土方歳三らが宿泊したという毛利邸が残されているはずだが、見つけることができなかった。探し方が足らなかったのか、震災の影響なのか、単に建物の老朽化の問題なのかは分からない。

(折浜)


榎本武揚艦隊集結地

 折浜という小さな集落にも津波は押し寄せた。道路は寸断され、現在もその復旧工事が進行中である。海岸には「榎本武揚艦隊集結地」という標柱が建てられていたが、それも津波がさらっていったのであろうか。この日の海はとても静かで、巨大な津波が押し寄せたことを想像することは難しかった。

(洞仙寺)


洞仙寺


榎本武揚艦隊開陽丸乗組員・中井初次郎の墓

 洞仙寺も海岸に面しており、津波の直撃を受けたと推測される。どれほどの被害だったのか、開陽丸乗組員中井初次郎の墓は無事だったのか、ここに来てみるまで様子が分からなかった。
 洞仙寺の建物は一切残っておらず、ただ墓地だけはその場所にあった。中井初次郎の墓も無傷であったのはせめてもの救いであった。

(大聖不動明王)


大聖不動明王


細谷十大夫碑

 細谷十太夫は、榎本艦隊の西軍への攻撃を中止させ、石巻を戦禍から救った。さらに後年、石巻の開拓事業を指導したことにより、ここに追悼碑が建立された。

(統禅寺)


統禅寺


英翁院顕忠義仙居士
(瀬上主膳墓)

 瀬上主膳は大番士。二千石。桃生郡鹿又村領主。世良修蔵暗殺の指揮官といわれる。明治四十四年(1911)没。七十九歳。

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塩竈

2013年07月02日 | 宮城県
(鹽竈神社)


鹽竈神社

 鹽竈神社のブリュネの碑を探して歩き回った。表参道から随身門に至る階段は二百段を越える。駆け上がると息が乱れた。


ブリュネの碑

 ブリュネの碑は、表参道の大鳥居の前にある。ジュール・ブリュネは、慶應三年(1867)、幕府の要請に応じてフランスが派遣した軍事顧問団の一人として来日した。戊辰戦争が起ると、新政府支持を表明した駐日フランス公使を非難して、徹底抗戦を主張する榎本武揚ら旧幕脱走軍に共鳴して、箱館に渡った。その途中の慶應四年(1868)八月二十六日、浦戸寒風沢に寄港した。艦隊は物資の補給、鑑の修理のために約一カ月当地に停泊した。その間、ブリュネは榎本に伴われて仙台藩主伊達慶邦に面会し、主戦派の軍議に出席したり、戦線を視察したりして仙台周辺を歩き回り、克明なスケッチを何枚か残している。そのうちの一枚が鹽竈神社表参道の絵である。ブリュネの碑には、このスケッチの写しが嵌めこまれているが、雨上がりのため水滴が入りこんでしまい良く見えなかった。ブリュネはフランスに強制的に帰国させられ、パリで軍事裁判にかけられたが、軽い処罰で済まされ、後に陸軍参謀総長にまで昇進した。


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大崎

2013年07月02日 | 宮城県
(天性寺)


天性寺


坂本大炊平隆中之墓

 坂本大炊は、三百五十石。砲術、兵学に通じた。勤王の立場から会津救解に努めたが成らず。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。四十五歳。

(茂林寺)


茂林寺


千葉源左衛門平棠俊之墓

 千葉源左衛門は、松本要人家来。明治元年(1868)九月、占領官軍から戦犯に指定された松本要人が逃亡すると、家人に頼まれてその身代わりになることを承諾。松本の自殺を装った。享年五十一。松本は明治五年(1872)赦免された。


菊池忠治墓

 菊池忠治は松本虎之助の家来。慶應四年(1868)八月二十日、磐城駒ヶ峯にて戦死。二十八歳。


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大郷

2013年07月02日 | 宮城県
(糟川寺)


糟川寺

 大郷の糟川寺に見国隊長二関源治の墓がある。


二関源治の墓

 二関源治照忠は、天保七年(1836)仙台城下小田原の三十二石の大番士二関駒治の長男に生まれた。二関家は糟川を知行地として中粕川に屋敷を構えていた。戊辰戦争では銃士として越後に出陣。のち額兵隊に属して小隊指令士となった。仙台藩が降伏すると、これに納得しない同志とともに蝦夷地に渡った。このとき、藩士の次男三男や戊辰戦争で仙台藩領に転じた他藩士、知行地の農民らを集めて見国隊を結成した。明治二年(1869)四月、英国船エーレンブラック号に乗って北海道に渡り、内浦湾の砂原に上陸。榎本武揚率いる幕府脱走軍に合流した。見国隊は室蘭、箱館などを護ったが、五月十一日の総攻撃を受け、大森浜で被弾し翌日五稜郭で死亡した。二関源治は背が低く、色白で女性のようだったが、沈勇果断の人だったという。享年三十四。墓には法名「勵光院戦譽放貫儀争居士」が刻まれる。


千葉愛石 累卵の碑

 千葉愛石は、弘化元年(1844)大郷町粕川の半農半藩の家に生まれた。本名は立造。地元粕川で医師を開業したが、明治二年(1869)上京して岩佐純(明治天皇の主治医)に従事し、同病院の副委員長となった。のちに山岡鉄舟と知り合い、その臨終にも立ち会った。千葉愛石の墓は、全生庵山岡鉄舟の墓の傍にある。
 累卵の碑は、千葉愛石が明治二十二年(1989)に建立したもので、山岡鉄舟ら交流のあった著名人六十六名から言葉を集めたものである。累卵とは「卵を集めて積み重ねたように危険な状態」をいい、人生や世の中の危うきことを子孫に示そうとこの碑の建立を思い立ったもので、同じ主旨のものが東京の亀戸天神にもある。


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大和

2013年07月02日 | 宮城県
(保福寺)


保福寺

 保福寺は、寛文五年(1665)吉岡館主奥山氏によって開創された寺である。奥山家とその後、吉岡を引き継いだ但木家の墓がある。私が保福寺を訪れたとき、本堂は跡かたなく解体され、これから再建工事が始まるところであった。唯一残された建造物としては薬医門があるのみである。


但木(土佐)成行墓

 但木家の墓所に但木土佐成行の墓がある。但木土佐は文化十四年(1817)、吉岡の生まれ。諱は成行。安政五年(1858)には芝多民部のあとを受けて奉行に就き、殖産興業政策によって藩財政の立て直しを図った。藩主の信任を得て、仙台藩幕末維新期の政局を担った。幕府を中心とする国内改造と、親露開国策を取って大政奉還にも同調した。戊辰戦争では会庄両藩の謝罪寛典策を推し進め、奥羽越列藩同盟の中核を担うに至った。戦後、坂英力とともに東京に送られ、明治二年(1869)五月、斬罪に処された。五十三歳。


但木土佐招魂碑

 明治二十八年(1895)に建立された但木土佐招魂碑である。


戊辰役戦死者招魂碑

 いずれも吉岡出身者や但木家の家来で、戊辰戦争で犠牲となった小島寅之進、今野忠助、堀籠善三郎、今野七十郎らの招魂碑である。うち小島寅之進は、志茂又左衛門らとともに秋田に使者として送られ、そこで斬殺された一人である。


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仙台 Ⅳ

2013年07月02日 | 宮城県
(大門寺)


大門寺

 大門寺に小松龍蔵の墓がある。


天主僕約瑟小松之墓
(小松龍蔵墓)

 仙台藩の勤王派。仙台で剣術道場を開いていた。戊辰戦争では、彰義隊頭取小田井蔵太とともに覚王院義観に令旨を書くことを依頼し、それが福島本宮で輪王寺宮公現法親王の手に渡り、さらに仙台藩主に届けられた。明治十一年(1878)没。享年五十九。

(長徳寺)


長徳寺

 長徳寺石田家代々の墓に、仙台藩士石田広治が葬られている。


石田家代々墓
(石田広治墓)

 石田広治は、慶應四年(1868)七月十一日、羽前金山(天童とも)で戦死。

(同慶寺)


同慶寺

 仙台市北郊の愛子(あやし)地区芋郷は、これが仙台市かというほど、鄙びた土地である。そこに同慶寺がある。


森田孫九郎墓

 同慶寺の無縁墓の中に森田孫九郎の墓がある。森田孫九郎は、近習役から旗本足軽頭。三番大隊小隊長。慶應四年(1868)六月二十四日、磐城金山で戦死。

(JTビル)


東華学校遺址碑

 五橋駅に近いJTのビルの前に東華学校遺址碑が建てられている。
 東華学校というのは、明治十九年(1886)、才能のある人を育て、キリスト教に基づく徳育を行う学校として設立された私立学校である。当初は宮城英学校と呼ばれた。設立に関わったのは、富田鉄之助(仙台藩出身、日銀総裁、東京府知事)、松倉恂(初代仙台区長)、松平正直(初代宮城県知事)らで、初代校長に新島襄が就任した。入学者は五百名以上で、河北新報創始者一力健治郎や詩人児玉花外、劇作家青山青果といった人材を輩出した。明治二十五年(1892)宮城県尋常中学校(現・仙台第一高校の前身)を起こすことになり、東華学校は廃校となった。碑文の上部には英文で「Seek Truth and Do Good」(真理を求め、善を行え)、その下に漢文で「實実徳勿虚栄」(実徳を修め、虚栄を求むるなかれ)と東華学校の学風や目的が謳われている。

(大和神社)


大和神社

 宮城野区蒲生の大和神社は、仙台港の南方に位置する小さな神社である。江戸時代初期、和田織部房長は、舟入堀の工事完工を機に家従とともに当地に移住した。和田氏の出自はもともと奈良だったため氏神を大和神社と称した。和田氏は千八百石の領主で、代々の住職を務めた。十一代和田織部為泰は邸内に武道場を作り、家臣に文武の道を教え、家風を刷新した。本殿の横に和田織部の慰霊碑が建てられている。


和田織部為泰之碑

 和田織部は、伊達六郎の二男。和田家を継いで、戊辰戦争では執政として活躍したが、戦後、恭順派の密告により、玉虫左太夫、若生文十郎らとともに明治二年(1869)四月切腹を命じられた。三十八歳。

(笹屋敷墓地)


阿部春之助藤原正春墓

 阿部春之助は、慶應四年(1868)八月、相馬口にて戦死。


戊辰殉難六士碑

 仙台藩丸森領主佐々元長家中の戦死者六名の慰霊碑である。明治三十三年(1900)十月建立されたもの。前記阿部春之助のほか、菅野右門、細谷虎之進、岩淵傳右衛門、岩淵傳左衛門、岩淵久次郎の六名の名前が刻まれる。

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