(車折神社)
車折神社
車折神社は、平安時代後期の学者、清原頼業を祀る。社伝によれば、後嵯峨天皇が社前を通りかかった際に、突如牛が動かなくなり、御車の轅(ながえ)が折れたことから、この名が付いたという。境内には芸能神社があり、有名無名の芸能人が赤い色の札を奉納している。
葵忠社
芸能神社の向かいにある小さな祠は、福田理兵衛を祀る葵忠社である。この祠は、かつて福田家のあった場所にあったが、昭和十年(1921)車折神社境内に移されたものである。
筆塚
明治期に活躍した日本画家の富岡鉄斎は、明治二十一年(1888)から明治二十六年(1893)まで車折神社の宮司を務めていた。そのため当神社には鉄斎の作品が数多く伝わっている。また、境内には鉄斎が使用した二千本を越える筆を収めた筆塚や、鉄斎の書による車折神社碑が建てられている。
車折神社碑
富岡鉄斎書、西園寺公望篆額
(正定院)
正定院
車折神社の東、正定院は、室町時代末期、福田理兵衛の先祖が、同じくこの地を領していた大八木家とともに建立したものである。本堂裏に福田家の墓地があるが、その中に福田理兵衛夫妻の墓もある。
贈従五位 養源院理譽治徳湛和居士
(福田理兵衛墓)
福田理兵衛は、文化十一年(1814)、洛西下嵯峨の郷士、材木商福田三郎左衛門の長男に生まれ、長じて嵯峨村の大庄屋、総年寄となった。商売を営んで財産を蓄えると、安政以来国事奔走した。文久二年(1862)、長州藩世子毛利元徳が入京すると、天竜寺、清凉寺および近辺の民家を借り受け宿舎に供した。元治元年(1864)禁門の変では、長州藩兵に対して兵糧米などを調達して提供した。長州の敗戦により三田尻に逃れ、妻子は離散、家屋は公売に処され、屋敷は焼き払われた。維新後の明治三年(1870)晴れて故郷に戻ることができたが、明治五年(1872)病を得て周防宮市駅高砂で死去した。五十九歳。

車折神社
車折神社は、平安時代後期の学者、清原頼業を祀る。社伝によれば、後嵯峨天皇が社前を通りかかった際に、突如牛が動かなくなり、御車の轅(ながえ)が折れたことから、この名が付いたという。境内には芸能神社があり、有名無名の芸能人が赤い色の札を奉納している。

葵忠社
芸能神社の向かいにある小さな祠は、福田理兵衛を祀る葵忠社である。この祠は、かつて福田家のあった場所にあったが、昭和十年(1921)車折神社境内に移されたものである。

筆塚
明治期に活躍した日本画家の富岡鉄斎は、明治二十一年(1888)から明治二十六年(1893)まで車折神社の宮司を務めていた。そのため当神社には鉄斎の作品が数多く伝わっている。また、境内には鉄斎が使用した二千本を越える筆を収めた筆塚や、鉄斎の書による車折神社碑が建てられている。

車折神社碑
富岡鉄斎書、西園寺公望篆額
(正定院)

正定院
車折神社の東、正定院は、室町時代末期、福田理兵衛の先祖が、同じくこの地を領していた大八木家とともに建立したものである。本堂裏に福田家の墓地があるが、その中に福田理兵衛夫妻の墓もある。

贈従五位 養源院理譽治徳湛和居士
(福田理兵衛墓)
福田理兵衛は、文化十一年(1814)、洛西下嵯峨の郷士、材木商福田三郎左衛門の長男に生まれ、長じて嵯峨村の大庄屋、総年寄となった。商売を営んで財産を蓄えると、安政以来国事奔走した。文久二年(1862)、長州藩世子毛利元徳が入京すると、天竜寺、清凉寺および近辺の民家を借り受け宿舎に供した。元治元年(1864)禁門の変では、長州藩兵に対して兵糧米などを調達して提供した。長州の敗戦により三田尻に逃れ、妻子は離散、家屋は公売に処され、屋敷は焼き払われた。維新後の明治三年(1870)晴れて故郷に戻ることができたが、明治五年(1872)病を得て周防宮市駅高砂で死去した。五十九歳。