史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大垣 Ⅱ

2010年05月13日 | 岐阜県
(小原鉄心邸跡)


小原鉄心邸跡

 JR大垣駅北口から近い場所に藩老小原鉄心の邸宅跡を示す石碑が建てられている。石碑を解説した案内板があるわけではなく、忘れられたような石碑である。

(大垣保険センター)
 大垣保険センター辺りが大垣藩校敬教堂の跡地である。保険センターの前に石碑と孔子像が建てられている。


藩校敬教堂跡

 大垣藩に藩校が設立されたのは、八代藩主戸田氏庸(うじつね)のときである。開設当時は学問所、のちに致道館、さらに敬教堂と改称された。十代氏彬のとき、孔子像を祀った大成殿が設けられ、その雷除けとしてトネリコの樹が植えられた。藩校は明治維新間もなく廃校となったが、トネリコは現在まで生き残っている。


トネリコ

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東吉野 Ⅴ

2010年05月11日 | 奈良県
(一の谷付近)


天誅組志士鍋島米之助戦死之地

 大和高田から高取、五條、下市、大塔、十津川、下北山、上北山と走破した旅の最後の訪問地は、東吉野である。前回東吉野を訪ねたのはもう五年前になるが、そのときとりこぼした史跡を回ることにする。

 鍋島米之助は土佐藩士で、脱藩して尊王攘夷活動に参加した。吉村寅太郎の影響を受けて天誅組の挙兵に参加した。
 九月二十四日の夜半、那須信吾、宍戸弥四郎らとともに敵陣に突入した米之助は、そこで敵弾を受けて重傷を負ったが、これに屈せず敵陣を次々と破って当地にまで進んだ。民家の納屋に潜入して休息をとったが、翌朝藤堂藩の知るところとなり包囲され、ここで戦死を遂げた。二十四歳という若さであった。

(木津川)


薬師堂


堂本家

 高取城攻めで受けた傷が悪化していた吉村寅太郎の一行は、三畝峠から小村を経て木津川の堂本孫兵衛宅に泊った。九月二十六日の夜、潜伏していた薬師堂を出た吉村寅太郎は、翌日の午前、石の本の薪小屋に隠れていたところを藤堂藩兵に見つかり無念の死を遂げた。

(谷尻)


天誅組義士 池田謙治郎戦死の地

 国道166号線から木津を北上し谷尻の集落を抜けたところに池田謙治郎戦死の地の碑が建てられている。行けども行けどもこの石碑が見つからない。路傍を歩いていた老婆に聞くと
「池田さんか誰だかわからないが、少し行ったところに石碑がある」
と教えてくれた。

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上北山

2010年05月11日 | 奈良県
(林泉寺)
 中山忠光や伴林光平一行が辿ったコースとは異なるが、十津川小原から下北山村へ通じる国道425号線は、数えきれないくらいのカーブが連続する。非常に気を使うドライブである。天誅組一行は、道路地図にも載っていないような山道を辿ったはずである。彼らの苦難は、425号線のドライブの比ではなかったであろう。


林泉寺

 九月二十一日から二十三日にかけて天誅組本隊が宿泊したのは林泉寺である。その後林泉寺は北山川のダムの湖底に沈み、現在地に移転したという。林泉寺境内からは池原ダムを見渡すことができる。


上北山白川地区

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下北山

2010年05月11日 | 奈良県
(正法寺)


正法寺

 高取城攻城戦、継いで下市での戦闘にも敗れた天誅組は、天辻から十津川に逃れ、態勢を立て直そうとする。その間、河内勢は脱退し、多くの十津川郷士が離反した。九月十六日、十津川退去を決めた天誅組は、伴林光平一行を先行させた。翌十七日、中山忠光ら本隊は嫁越峠から前鬼村、笠捨村などで露宿を重ね、二十日夜には下北山村寺垣内の正法寺に入った。更に二十一日に白川村の林泉寺に着いた。ここで深瀬繁理と出会い、先行した伴林光平らが既にこの地を出立したことを知る。二十二日、藤堂藩の追討軍がこの地に迫っていることを察知すると、人足が逃げ去ってしまった。二十三日朝、携帯の食糧、荷物を林泉寺とともに焼き捨て、同日夜間、伯母ヶ峰を越えて鷲家国(東吉野)に向かった。

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十津川 Ⅲ

2010年05月09日 | 奈良県
 十津川高校および文武館の職員およびその家族の墓苑、春風苑を訪ねたくて、二日目に再度十津川高校を訪問した。ちょうど学校では球技大会の最中であったため、校舎の周りに生徒や先生が集まっていた。私はその中のお一人、カメラを手にした先生に道を尋ねた。先生は丁寧に道を教えてくれたので、礼を言って父と言われた道を歩いていると、あとからその先生が追いかけてきて、
「分かりにくい場所なので、やっぱりそこまで案内します」
とおっしゃる。お言葉に甘えて、文武館跡と春風苑まで連れて行ってもらうことになった。

 文武館跡と春風苑まで、一旦込之上橋という吊り橋を使って対岸に渡り、そこで左に折れて、あとは未舗装道路を歩くことになる。確かに案内無しではなかなか行き着くことは難しい。


込之上橋


込之上橋からの眺望

 ご案内いただいた倉田先生は、奈良市内のご出身らしいが、もう十津川に赴任して二十年になるという。十津川高校では学校行事として春風苑への墓参りを年に一回行っているそうである。それにしても高校に附属した墓は全国的にも珍しいのではないか。少なくとも私の知る限り、同志社の若王子墓地くらいしか思い浮かばない。


文武館跡

 平山の文武館跡である。鬱蒼とした杉木立に中に在る。さすがに校舎は残っていないが、当時を偲ぶ苔むした石垣が残されている。文武館は慶応元年(1865)にここに移転されて、昭和二年(1933)に現在地に移るまで六十年以上に渡って当地に在った。これも貴重な遺構である。


春風苑


加藤謙二郎墓

 春風苑には、加藤謙二郎の墓がある。加藤謙二郎は、越中の人で中沼了三の門弟であった。中沼の推挙により文武館で儒学を教授したが、その講義は熱情ほとばしり、聴く人に感銘を与えずにおかなかったという。慶応三年(1867)三月、文武館の下河原で謎の割腹自殺を遂げた。三十七歳であった。

 忙しい中、文武館跡・春風苑までご案内いただいた倉田先生に厚く感謝申し上げたい。

(重里)
 重里の郵便局の横に深瀬家の墓があり、その傍らに深瀬繁理の歌碑と顕彰碑が建てられている。


深瀬繁理歌碑(左)
贈正五位深瀬君碑

 深瀬繁理(しげさと)は、文政十年(1827)に十津川村重里に生まれた。二十四歳のとき諸国を遊歴し、安政五年(1858)に野崎主計らと上京し、梅田雲浜に学ぶ。文久三年(1863)の天誅組挙兵の報に接すると、急ぎこれに参戦し各地を転戦した。事敗れた後は中山忠光に閲して時機を待つことを進言した。直後、津藩兵に襲われて北山郷白川の河原で斬首された。年三十七。
左の歌碑には辞世が刻まれている。

あだし野の露と消えゆくもののふの
都にのこす大和魂

(上湯川大桧曾)
 我々が泊ったのは、小料理宿「山水」という十津川下湯温泉に位置する一軒宿である。インターネットで調べて予約したので、行ってみるまではどんなものか不安であったが、山菜料理や源泉かけ流しの温泉も満足できるものであった。窓の外には満天の星。川のせせらぎと虫の声をBGMに夜は静かに更けていった。
 と、書きたいところだが、現実はそうはいかない。父のイビキは尋常ではなかった。まるで獅子の檻に閉じ込められているようなものであった。これに毎日付き合っている母に改めて敬意を表したい。

 朝、宿をチェックアウトして、宿の前の県道735号線をひたすらに西(龍神方面)に向かう。およそ半時間ほど自動車を走らせると、大桧曾のバス停に出会う。たばこ屋から老女が出てきたので、「田中光顕の歌碑を探している」と尋ねると、「たなかこうけんの碑だったら、この上にあるよ」と教えてくれた。土地の人に教わらないと、なかなか分かりにくい場所にある。老女によると、年に二~三人は、碑を訪ねてこの山間の集落まで来る人があるそうである。これまで色々な史跡を訪ねてきたが、辺鄙度ではここが最高であろう。


田中光顕歌碑

 田中光顕(浜田辰彌)は、元治元年(1864)時勢に激して脱藩して長州に走り、同志井原應輔、橋本鉄猪(大橋慎三)、那須盛馬(のちの片岡利和)らと謀って大阪霍乱を計画したが果たせず、十津川に潜伏することになった。
 田中光顕が潜伏したのが、上湯川大桧曾の田中主馬蔵宅である。滞在中、近隣の子弟に学問、剣術を教えたという。

慶應元年の春果てなし坂の上にて
父母のすみます國は見えながら      ふみもゆるさぬ関守は誰そ         昭和十二年春録舊作
九十五叟 光顕


贈正五位田中君碑

 田中光顕歌碑の近くに田中主馬蔵の顕彰碑がある。その横には主馬蔵の妻の墓も置かれている。
 田中主馬蔵は、天保三年(1832)にこの地に生まれ、若くして田辺藩儒平松良蔵に学び、同藩の柏木兵衛に撃剣を習った。深瀬繁理、野崎主計らと上京して、中川宮の命を拝して禁闕警衛の任に当たった。文久三年(1863)の天誅組の変にも参加したが、敗れて和歌山藩兵に捕えられた。のちに脱して京都に逃れたが、慶応元年(1865)今度は幕吏に捕えられた。翌年、脱獄して郷里に帰り、病没した。年三十五であった。


十津川大桧曾集落

 実はもう一つ十津川の史跡を訪ねる予定であった。これも「十津川かけはしネット」に掲載されている藤井織之助の遺髪碑である。蕨尾という集落で雑貨屋のおばあさんに聞いてみたが、分からない。近所で「先生」と呼ばれている方にも確認してもらったが、やはり分からない。藤井家の墓地は発見したが、そこに遺髪碑は見いだすことはできなかった。ここで小一時間ほど時間をロスしてしまった。この点だけが心残りであったが、ほかは十分満足して十津川をあとにした。

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十津川 Ⅱ

2010年05月09日 | 奈良県
(風屋)


天誅組風屋本陣跡碑

 風屋の集落の中に「老人憩の家」があり、その庭にダムに面して「天誅組風屋本陣跡」の石碑が建っている。「老人憩の家」が分からなくて交番で聞いたところ、その交番のすぐ隣であった。おまわりさんは腕に仔犬を抱いたまま、場所を教えてくれた。
 九月十六日、天辻を放棄した天誅組は風屋に本陣を移した。このとき京都の御所の警衛に就いていた十津川郷士は約二百。彼らは政変によって天誅組が朝敵になることを説き、天誅組に参加した千余人の十津川郷士は去就に苦しんだ。最終的には、本陣の置かれた福寿院(現在はダムに水没)で、天誅組と十津川郷士団の代表が会見し、十津川郷士の離脱が決した。同時に天誅組も十津川郷に滞陣することができなくなり退去を決定。同日、伴林光平一行は退路を求めて先発隊として十津川を出発した。

(滝川口)


伴林光平歌碑

世を棄てゝ くまばや汲まん 白菊の
花の中ゆく 瀧川の水

瀧川の里にて 伴林光平

 十津川退去を決した天誅組は、伴林光平、深瀬繁理らを退去の間道を探るために先行させた。彼らは滝川より花瀬、嫁越峠を越えて北山郷白川に出た。歌碑はそのとき滝川で光平が詠んだ歌である。
 光平は鷲家口の戦闘では辛うじて逃れたが、河内の国境岩船山付近で捕えられ、翌年京都六角獄舎で斬殺された。年五十二。

(野尻)


明治維新の志士 正五位中井庄五郎生誕之地

 中井庄五郎は、弘化四年(1847)十津川村野尻に生まれた。資性剛直、膂力衆に過ぎ、居合の達人といわれる。文久三年(1863)十七歳のとき上平主税とともに京都に上り、御所の守衛に就いた。同年の天誅組の変には鎮撫使に従ってこれを治めた。坂本龍馬の横死を悲憤し、慶応三年(1867)十二月七日、新選組隊士を酒楼天満屋に襲撃した。数名を殺傷したが、自らも創を負って死亡した。二十一歳。


水路橋

 中井庄五郎生誕地碑の頭上には、十津川第一発電所の巨大な水路橋がまたがっている。

(十津川歴史民族資料館)


十津川歴史民族資料館

 十津川の道の駅の目の前に十津川歴史民俗資料館がある。ここに中井庄五郎の佩刀が展示されているというので、立ち寄ってみた。
 しかしながら、歴史民俗資料館の開館時間は十七時までで入館は十六時まで。私がここに行き着いたのは十六時半で本来まだ開館しているはずの時間であったが、正門には鍵がかけられ、資料館の人たちは身支度を済ませて帰ってしまった。

(十津川高校)
 十津川高校は、元治元年(1864)に開校された郷校文武館の流れを汲み、平成二十六年(2114)に創立百五十周年を迎えるという歴史ある学校である。
 元治元年(1864)二月、孝明天皇の内勅により文武館開設の沙汰が下った。その年の五月には学習院儒官中沼了三が着任した。当時は折立村の松雲寺(現・折立中学校内)に仮校舎が置かれたが、慶応元年(1865)に折立平山の新館舎に移転した。


十津川高校


中沼了三先生頌彰碑

 校庭の横に中沼了三頌彰碑がある。
 中沼了三は、文化十三年(1816)に隠岐国周吉郡中村に生まれ、天保六年京都に出て、鈴木遺音の門に学んだ。遺音の没後、学舎を開いて子弟の教育に当たった。門下には西郷従道、川村純義、桐野利秋、中岡慎太郎らがいる。嘉永年間には学習院の儒官として奉職。このころ十津川郷士と交わり、郷校開設に協力した。
 維新後は、新政府に出仕し、明治天皇の侍講、昌平学校一等教授等を歴任した。のち新旧思想の対立から三条実美、徳大寺実則と大激論の末、辞表を提出して野に下った。明治九年(1876)の神風連の乱では、了三の言辞が疑惑を招き、一か月ほど拘禁されたこともある。晩年には大津に湖南学舎を開くなど、生涯を通じて後進の育成に尽くした。明治二十九年(1896)、八十一歳にて京都で死去した。


文武館創立七十年記念碑

 中沼了三頌徳碑のすぐ近くに創立七十年を記念して建てられた石碑がある。この石碑が建立されたのは、昭和九年(1934)のことである。十津川高校のHPによれば、当時は「十津川中学文武館」と称していたようである。


浦武助先生像

 十津川高校の校舎の前に浦武助の胸像が置かれている。浦武助は大正十年(1921)に文武館長に就いたが、その直後火災により平山にあった校舎を全焼。学校の休廃止論・存続論が巻き起こったが、浦は存続再建に精魂を傾け、遂に現在地である込之上への移転再建を果たした。このことで“文武館中興の祖”と称されている。


剣豪中井亀治郎先生之碑

 十津川高校の前の国道端に「剣豪中井亀治郎先生之碑」と記された碑が建っている。中井亀治郎は、桃井春蔵とその高弟黒谷左六郎に剣を学び、三年足らずで奥義を究めたという。明治二十五年(1892)以降、帰郷して文武館およびその近郷で剣術を指南した。

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十津川 Ⅰ

2010年05月09日 | 奈良県
 いよいよ十津川である。
 村名の由来は、遠津川という説もあるが定かではない。とにかく遠いのは間違いない。かつて「陸の孤島」とも称されていたが、さすがに道路の整備も進み、秘境というほどの距離感はなくなった。それでも村域の九割は山岳地帯である。この季節は特に新緑がまぶしい。史跡だけでなく、豊かな自然にも触れて、リフレッシュさせてもらった。

 なお、ここで紹介する十津川の史跡は、主に「十津川かけはしネット」による。

(上野地)
 文久三年(1863)九月十三日、天誅組は本陣を上野地東雲寺に移した。東雲寺は明治になって廃寺となっており、実際の本陣跡地は確定されていないが、上野地の有料駐車場に石碑が建てられている。


天誅組上野地本陣跡

 駐車場に建つ石碑の写真を撮れば、ここでの用事は済んだのであるが、そのためだけに駐車代金五百円はいかにも勿体ない。ついでに有名な谷瀬(たにぜ)の吊り橋を見てくることにした。


谷瀬の吊橋

 スリルと眺望を楽しむことができる谷瀬の吊り橋は、もともと昭和二十九年(1954)に住民の生活用として架けられたものであるが、今ではすっかり十津川を代表する観光スポットとなった。長さ297メートルは日本一の長さである。歩くと不安定に揺れる。「一度に渡るのは二十人まで」と書いてあるのが、ますます不安感をそそる(だって二十人以上乗っているではないか)。最初はちょっとおっかなかったが、しばらくすれば慣れる。54メートルの高さから眺める渓谷は文句無しに素晴らしい。


吊り橋から十津川の眺め

 上野地地区の公民館の上に共同墓地があり、その中に勤王家長澤義訓の墓がある。公民館の前で婦人に共同墓地の場所を確認すると、墓地の入口まで案内してくれた。

 長澤義訓は、丹波亀山の人で、安政元年(1854)妻とともに十津川郷に永住目的で来郷した。安政四年(1857)に小原滝峠に大塔宮護良親王御詠の碑を建立し、十津川郷民の勤王の志気を鼓舞した。原因はわからないが、同年十一月、小栗栖にて自決した。


長澤義訓墓


国王神社

 上野地の集落を南下した十津川沿いに国王神社がある。扁額は大久保利通の筆による。

 国王神社には、十津川郷林村の庄屋玉堀為之進の辞世を刻んだ歌碑と、為之進が寄進した一対の石燈籠がある。
 玉堀為之進は、天誅組から援兵を求められたとき、慎重論を唱えたため、斬首された人物である。五十三歳であった。

国の為 仇なす心なきものを 仇となりしは
恨みなりける


玉堀為之進辞世碑


玉堀為之進寄進の石燈篭

(川津)
 大字川津、旧川津ユースホステルの庭の一角に梅田雲浜顕彰碑と野崎主計の石碑が並んで建てられている。

 もともと十津川郷は勤王の志の深い土地であるが、幕末梅田雲浜の教導により勤王活動に挺身する者が多かった。雲浜と交友のあった野崎主計、上平主税、深瀬繁理らもその影響を受けた人材である。安政元年(1854)九月、ロシア軍艦が大阪湾に来航すると、十津川郷士は雲浜を首帥としてこれを撃攘しようと図った。郷士らが雲浜を擁して大阪湾に至ったとき、既に軍艦は港外に去りこの挙は実現を見なかったが、十津川郷が勤王の村として名を成す出来事となった。


梅田雲浜先生顕彰碑


野崎主計碑

 野崎主計(かずえ)は、名を正盛。十津川郷川津に生まれ、読書を好み、世情に通じたこの地域隋一の知識人であった。天誅組の変に際しては援兵の求めに応じて一郷を率いてこれに参加した。しかし、京都の政変により天誅組が賊徒となっていることを知ると、十津川郷士は離脱。責任を負って主計は川津の山中で自刃して果てた。年四十。

 左手の石碑は「野崎君頌徳碑」、中央の碑は墓標である。書は中沼了三の長男、中沼清蔵。


野崎主計辞世碑

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高取 Ⅱ

2010年05月09日 | 奈良県
(高取町役場)


天誅組鳥ヶ峰古戦場

 文久三年(1863)八月二十六日、天誅組は高取城奪取を企て攻撃を仕掛けた。対する高取藩では城代家老中谷栄次郎を総大将として、鳥ヶ峰に大砲を据えて応戦した。高取藩では、家康から拝領したという大砲(ブリキトースと呼ばれていた)で迎え撃ち、見事に撃退した。この戦闘で天誅組の吉村寅太郎は、味方の銃弾を腹部に負い撤収することになった。

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西吉野 Ⅱ

2010年05月09日 | 奈良県
(丹生神社)


丹生神社


大銀杏

 文久三年(1863)九月七日、大日川周辺における戦闘で、丹生神社(西吉野大日川)辺りでも激戦が展開された。大銀杏には当時の弾丸が食い込んでいるそうだが、下から見上げた限りでは確認できない。

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大塔

2010年05月09日 | 奈良県
(維新歴史公園)
 天辻町大塔の道の駅の前の坂を七百メートルほど上ったところに維新歴史公園が整備されている。この地域きっての富豪鶴屋治平衛の屋敷があった場所で、周囲の村人も協力を惜しまなかったという。天誅組は八一八の政変後、天辻に本陣を定め、ここから十津川郷に向けて檄を飛ばした。近隣より陸続と人は集まり、一時千人を越える勢力となった。


天誅組本陣遺趾


義烈 鶴屋治兵衛翁碑

 鶴屋治兵衛の顕彰碑は、公爵三条公輝の書。三条公輝は実美の三男で、家督を継いで、のち宮内省掌典長、御所歌長などを務めた人である。
 鶴屋治平衛は、天誅組の求めに応じて快く自宅を提供したと伝えられる。その結果、鶴屋も天誅組と運命をともにすることになる。


伴林光平歌碑


伴林光平歌碑

 維新公園には伴林光平の歌碑が二つ立てられている。

むす苔の 簾の里に 住居ても
憂目ばかりは 隔てざりけり

榧の実の 嵐におつる おとづれに
交じるもさむし 山雀の声


野崎主計歌碑

 もう一つの歌碑は、十津川出身の野崎主計の辞世。同じ歌の石碑が出身地である十津川村川津に建てられている。

討つ人も 討たるる人も 心せよ
同じ御国の みたみなりせば

(天辻郷土館)


維新胎動の地碑

 道の駅の向かい側には、藁葺き屋根の郷土館が建っている。その前に「維新胎動の地」と書かれた大きな石碑が置かれている。この碑の由来の一つは、南北朝時代のこと。大塔宮護良親王は、幕府軍の追討を逃れて大塔村に入り、ここから幕府追討の令旨を発し、ついに鎌倉倒幕の偉業を達成したのである。
 そして時代は下り文久三年(1863)、決起した天誅組は、五條代官を襲撃した後、交通の要地であり、物資の集散地でもあった天辻峠に本陣を構えた。このことが「維新胎動」と呼べるかどうかは議論のあるところだろうが、このような僻遠の地が過去に二度も歴史の表舞台に登場したのは、確かに記録すべきことである。


大塔宮護良親王像

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