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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伏見 Ⅴ

2010年02月03日 | 京都府
(竜馬通り)
 伏見の薩摩藩邸跡に石碑が建ったという情報を得たので、久し振りに伏見を散策した。昨今の龍馬ブームの影響だろうか。寺田屋などは以前にも増して世俗化して、一介のオジサンには近寄りがたいほどである。「竜馬通り」と名付けられた商店街には、竜馬寿司とかお登勢茶屋など、商魂逞しい便乗商品が並ぶ。


竜馬通り

(伏見薩摩屋敷跡)


薩摩島津伏見屋敷跡

 薩摩藩の伏見屋敷跡である。
 嘉永六年(1853)九月、輿入れのために江戸に向かう途中の篤姫も数日をこの屋敷で過ごし、ここを拠点に近衛家、東福寺、萬福寺(宇治市)などを訪問した。さらに時代が下って、慶応二年(1866)一月、寺田屋に逗留中の坂本龍馬が幕吏に襲われた。竜馬は辛うじて難を逃れ、薩摩藩の伏見屋敷に匿われた。

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東山三条

2010年02月03日 | 京都府
(坂本龍馬 お龍 「結婚式場」跡)


坂本龍馬 お龍 「結婚式場」跡

 地下鉄東山駅から少し東に行ったユースホステルの前に、やはり歴史地理研究者中村武生氏の建立した「坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡」という石碑がある。
 中村氏の解説によれば、一般には龍馬とお龍の結婚は、慶応二年(1866)薩長同盟が成立した後、龍馬が寺田屋に襲われたのをお龍の機転で救われた、このことが機縁で新婚旅行に出たとされているが、それから遡ること一年半、元治元年(1864)八月、青蓮院塔頭金蔵寺本堂で内祝言(つまり内々の結婚式)を挙げていた。あまり知られていない話だが、お龍の回想に基づくもので、信憑性が高いように思われる。

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一条戻り橋

2010年02月03日 | 京都府
(小松帯刀寓居参考地)
 清明神社で有名な一条戻り橋。堀川を渡って東に少し行った民家の前に、「此向かい 近衛堀川屋敷跡 小松帯刀寓居参考地」と刻まれた石碑が建てられている。碑のある場所周辺には、江戸時代筑前黒田家の屋敷があったという。この石碑の向かい側に小松帯刀の屋敷があったと推定されるらしいが、確実というわけではないため「参考地」というやや歯切れの悪い表現になっている。慶応二年(1866)一月に結ばれた薩長同盟は、小松帯刀の屋敷で締結されたと言われており、その舞台となった可能性があるというわけである。


近衛堀川屋敷跡
小松帯刀寓居参考地

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烏丸 Ⅱ

2010年02月03日 | 京都府
(楢崎家跡)


坂本龍馬妻 お龍の実家 楢崎家跡

 柳馬場通り三条の交差点を南に下がった小料理屋の前に「この付近 坂本龍馬妻 お龍の実家 楢崎家跡」という石碑が建てられている。
 お龍の父、楢崎将作は、青蓮宮に仕える医師であった。お龍が生まれたのは、富小路三条上る辺りと言われるが、ほどなく一家はこの地に移り住んだ。比較的裕福な家庭で、お龍は家事を任されるでもなく、華道、茶道、香道などの稽古ごとに専念できたという。

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三条西洞院 Ⅱ

2010年02月03日 | 京都府
(紀州藩邸跡)


茶人珠光 織田信雄
加藤清正 紀州藩邸

 三条西洞院を南に下がった民家の前に「茶人珠光 織田信雄 加藤清正 紀州藩邸」と記された、まるで判じ物のような石碑が建っている。茶人珠光とは、村田珠光のこと。織田信雄は、言うまでもなく織田信長の次男。加藤清正もこの地に屋敷を持っていたということらしい。江戸時代には、御三家の一つ紀州藩がここに藩邸を有していた。

(教諭所跡)
 三条東洞院のNTT西日本のビル裏手に、この地に教諭所(宣教館)があったことを示す駒札が建てられている。教諭所とは、庶民を対象とした教育機関である。当初、皆川淇園門下の北小路竉(竹窓)の発案で、天保四年(1833)室町竹屋町に開設された。その後、一時衰退したが、豪商などの資金援助を受けて天保九年(1838)に当地に再建されたものである。教育のほか、飢民救済などの社会事業にも積極的に参加したという。元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失したが、翌年再建されている。明治後は下京四番組小学校に引き継がれ消滅した。


教諭所(宣教館)跡

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三条大橋 Ⅱ

2010年02月03日 | 京都府
(高札場跡)


高札場跡

 三条大橋を渡ったSTARBUCKS COFFEEの前に、三条小橋商店街振興組合の建てた高札場跡を示す駒札が置かれている(一瞬、店のメニューかと思った)。
 三条大橋の高札場というと、新選組も関わった三条高札事件が有名である。当時、高札場には、長州を朝敵とする高札が掲げられていたが、この札が何度も引き抜かれて鴨川に投げ捨てられるということがあった。要請を受けて新選組が警戒にあたっていたが、慶応二年(1866)九月十三日の夜、これを引き抜きにやってきた八名の土佐藩士と乱闘となった。土佐藩側は二名が討死し、宮川助五郎が捕縛された。宮川助五郎は、土佐藩に引き渡されることになったが、脱走して各地に潜伏した。のち赦免され戊辰戦争にも従軍することになる。中岡慎太郎は近江屋で坂本龍馬とともに遭難した。このとき中岡は、宮川引き取りの相談のために龍馬のもとを訪問したと言われる。

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木屋町 Ⅳ

2010年02月03日 | 京都府
今回、時間があったので、久し振りに木屋町周辺を歩くことにした。京都でももっとも繁華な場所である。平日でも多くの観光客が行き交う。史跡も時々刻々変容している。以前訪ねたとき、池田屋はパチンコ屋だったが、現在は居酒屋となっている。内部は映画のセット風に池田屋が再現されている。坂本龍馬と中岡慎太郎が遭難した近江屋跡は、かつて旅行会社の支店だった(ような気がする)が、今はコンビニとなっている。たまに足を運んで史跡の状況を確認しておかなければならない、と改めて思った。

(お龍 独身時代寓居跡)


お龍 独身時代寓居跡

 今回、京都市街を歩いてみようという気になったのは、いくつかの石碑が新たに建てられたという情報を得たからである。木屋町にも正面に「此付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡」、側面に「京都府知事 中井弘 幕末期寓居跡」と刻まれた新しい石碑を発見した。別に紹介する、お龍関係の石碑、一条戻り橋の小松帯刀住居跡、伏見藩邸跡の石碑などは、いずれも歴史地理研究者と称する中村武生氏が中心となって建碑されたものである。
 京都の街は、歴史が溢れている。ともすれば忘れられそうになる史跡に、一つ一つ釘を打つようにして石碑を建てることはとても大切な行為だと思う。地味で報われることは少ないが、今後とも石碑を増やしてもらいたいと願うものである。
 敢えて苦言を呈させていただくと、京都の史跡は決して大河ドラマで取り上げられた人物所縁のものばかりではないということである。たとえば中岡慎太郎の陸援隊の白河屯所跡、松陰の遺志を継いで品川弥二郎が建てた尊攘堂の跡、幕臣永井尚志や西周の寓居跡などは、場所をほぼ特定できるはずだが、石碑らしきものは何もない。

 お龍の父、楢崎将作は、青蓮宮に仕える医者だったと伝えられる。文久二年(1862)、楢崎将作の急死で生活に窮した一家が移り住んでいたのが、ここ木屋町の借家だったという。石碑に付された説明によると、妹光枝が悪い奴に騙されて大阪の遊郭に連れていかれたのを、お龍が乗り込んで連れ戻したという有名なエピソードも木屋町時代のことらしい。

 中井弘は薩摩藩士。脱藩して土佐に渡り、そこで後藤象二郎に見いだされて、その出資により慶応二年(1866)渡英した。帰国後は宇和島藩主伊達宗城に招かれて同藩の周旋方として京都で活躍した。明治元年(1868)には外国事務各国公使応接掛となり、同年二月英国公使パークスが京都で遭難したとき、身を呈してこれを救った。その後、神奈川県判事、東京府判事を歴任。明治七年(1874)には駐英公使館書記に転じ、帰国後は滋賀県知事、元老院議官、貴族院勅撰議員に推された。明治二十六年(1893)に京都府知事となったが、間もなく病没した。年五十七。

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箕面

2010年02月02日 | 大阪府
(寒山寺)


寒山寺


内山家墓

 寒山寺は、阪急箕面駅から徒歩五分の場所にある。もともと大阪市内にあったのが、昭和四十年代にこの地に移転してきたものらしい。内山家の墓石は一か所にまとめられていて、その中の一角、右上の大きな墓が内山彦次郎のものという。墓石には「大機院殿之道玄昌居士」という戒名が刻まれている。
内山彦次郎は、大阪西町奉行所与力で、有能な人物だったようである。天保八年(1837)の大塩平八郎の乱にも出動して功があった。元治元年(1864)五月、大阪天神橋のたもとで首を奪われ殺害された。犯人は新選組とも言われているが異論もある。前年、大阪に出張中の新選組と、小野川部屋力士との乱闘騒ぎがあった。この事件を吟味した内山と新選組の間で遺恨が生まれ、内山が殺害されたというのである。

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阪南

2010年02月02日 | 大阪府
(境橋)


日本最後の仇討ち場

 JR阪和線の山中渓駅を降りると、目の前を走る道が旧紀州街道である。紀州街道は、当時和泉と紀伊とを結ぶ唯一の街道であった。駅の周縁には、山中宿という宿場町があった。山中宿には、本陣をはじめ二十軒を越える旅籠があり、紀州徳川家の参勤交代時には近郷から三千人もの人夫、助人がここに集まったという。殷賑を極めた山中宿であるが、現在は山間の静かな集落となっている。


紀州街道

 駅を出て二十分ほど和歌山方面に向かって歩くと、和歌山県との県境付近に「最後の仇討ち場」と書かれた石碑が置かれている。
 安政四年(1857)、土佐藩士広井大六は、同藩士棚橋三郎に口論の末、斬り捨てられた。
 大六の子、広井磐之助は江戸に申し出て、いわゆる仇討ち免許状を与えられた。磐之助は、加太に棚橋三郎が潜伏しているとの情報を得て、紀州藩に仇討ちを申し出たところ、紀州藩より棚橋を藩境より追放するので、和泉側で仇討ちをするのであれば苦しからずとの回答を得た。文久三年(1863)、磐之助は境橋付近で棚橋を待ち受け、見事に本懐を遂げた。
 石碑に書かれている解説によれば、この仇討ちは、「最後の仇討ち」と呼ばれているらしい。
 ただし、インターネットで検索すると、「最後の仇討ち」と称する事件は全国に多数あるようである(玉名、東京、金沢、高野山等々)。少なくとも明治六年(1873)二月に仇討ち禁止令が発布されるまで、未だ十年近くの時間があり、広井磐之助の事件を「最後の」とするのは無理があるかもしれない。

 広井磐之助は、坂本龍馬とも親交があった。龍馬は、磐之助が仇を捜しているのを見て、勝海舟に行方を探してもらうよう要請したと言われる。

 阪和線の各駅停車は、一時間に三本くらいしか走っていない。二本あとの列車に乗るため、和歌山県境までの片道約2㎞(往復4㎞)をわずか四十分で往復した。真冬というのに汗が吹き出た。

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和歌山 Ⅱ

2010年02月02日 | 和歌山県
(海善寺)


海善寺

 海善寺には、国学者にして歌人加納諸平(もろひら)の墓がある。


加納諸平墓

 加納諸平(もろへい)は、文化三年(1806)、遠江国白須賀にて生まれた。父は国学者夏目甕麿。文政二年(1819)和歌山に移り、天保二年(1831)以降、和歌山藩の命により「紀伊風土記新撰」の編纂に関わった。その後も歌集の編纂、藩の国学所総裁などに尽した。安政四年(1857)、五十二歳にて没した。門下から、飯田年平、伴林光平ら尊攘派歌人を輩出している。

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