昭和五十二年(1977)に刊行され、今も出版が続けられているロングセラーである。その後、昭和五十九年(1984)に出された石井孝「戊辰戦争論」では、本書を「東北人によって書かれた戊辰戦争史としての主観性を含み、戊辰戦争の科学的理解において欠けるところがある」と批判しているが、星亮一氏の著作と比べればずっと客観的かつ科学的な印象を受ける。たしかに佐々木氏の後年の著述と比較すると、所々叙情的な表現が見られるのは事実であるが…。
本書では、鳥羽伏見戦争から箱館戦争に至るまで戊辰戦争の全体像をバランスよく描いており、戊辰戦争の入門書としては格好の書であろう。
新政府は、鳥羽伏見の戦争で勝利を収めると、早々に朝敵処分案を固めた。罪状の軽重によって五等に区分するものであった。第一等、第二等は、鳥羽伏見で敵対した主力、即ち徳川慶喜と松平容保、松平定敬である。第三等は藩主が滞坂し、政府軍に発砲、その上慶喜に従って東帰したもので、松平定昭(松山)、酒井忠惇(姫路)、板倉勝静(備中松山)である。第四等が本荘宗武(宮津)、第五等が戸田氏共(大垣)、松平頼聰(高松)であった。
この時点における処分は、飽くまで鳥羽伏見における戦争での責任の軽重を問うものであったが、会津藩に厳しい処分は、戦争の最初からその原型があったことが分かる。
慶應四年(1868)二月、東征大総督に対し、「会津藩松平容保、庄内藩酒井忠篤から助命嘆願があった場合、どう処置するか」という伺いが出された。その際、容保は「死謝」と決定された。佐々木克氏によると、この重大な決定を下したのは林通顕だという。通顕は諱で、通称は玖十郎。宇和島藩士で、藩主伊達宗城の信任が厚かった人物である。維新後の名前は、得能亜斯登(とくのうあすと)といった。一般にはほとんど知られていないこの人物がこの断を下し、その後、その方針は変更されることはなかった。奥羽鎮撫総督もその方針を踏襲し、会津藩や列藩同盟の謝罪嘆願は一切顧みられることはなかった。
戦後、明治二年(1869)十二月、明治新政府が発表した最終処分は、やはり会津藩にもっとも厳しかったが、その一方で会津と並んで「乱賊の巨魁」といわれた庄内藩は十七万石のうち、五万石を削減されただけであった。盛岡藩は七万石を削減されて十三万石に、二本松藩も五万七百石を削減されて五万石とされている。
では、会津藩と同様、幕末の政局でも「一会桑」の一角として終始薩長に抵抗し、戊辰戦争でも同盟軍の主力として各地を転戦した桑名藩の処分はどうだっただろうか。桑名藩は東征軍が進攻してくると、恭順して城を明け渡した。会津藩には恭順が認められず、桑名藩には認められた。この対応の差にも疑問が残る。藩主と佐幕派は分領柏崎に集合して、抵抗を続けた。その結果、桑名藩は五万石に半減されたものの、旧領地に戻され存続が認められている。やはり会津藩と比べれば、随分軽い処分である。
概ね寛大な処分にあって、何故か会津藩だけが厳罰に処された(勿論、各藩とも重臣の切腹や多額の献金など過酷な処分を受けている)。最終的な結論に至るまで、様々な議論とそれなりの理屈があったとは思うが、それにしても出された結論は、とても公平とは言えないものであった。
会津の処分には鳥羽伏見以前の経緯も反映されているのであろう。会津は幕末の政局において重要な役割を果たしたが、庄内藩あるいは東北諸藩はほとんど登場していない。その差が戦後処分にも反映されたのだろうか。
本書では、鳥羽伏見戦争から箱館戦争に至るまで戊辰戦争の全体像をバランスよく描いており、戊辰戦争の入門書としては格好の書であろう。
新政府は、鳥羽伏見の戦争で勝利を収めると、早々に朝敵処分案を固めた。罪状の軽重によって五等に区分するものであった。第一等、第二等は、鳥羽伏見で敵対した主力、即ち徳川慶喜と松平容保、松平定敬である。第三等は藩主が滞坂し、政府軍に発砲、その上慶喜に従って東帰したもので、松平定昭(松山)、酒井忠惇(姫路)、板倉勝静(備中松山)である。第四等が本荘宗武(宮津)、第五等が戸田氏共(大垣)、松平頼聰(高松)であった。
この時点における処分は、飽くまで鳥羽伏見における戦争での責任の軽重を問うものであったが、会津藩に厳しい処分は、戦争の最初からその原型があったことが分かる。
慶應四年(1868)二月、東征大総督に対し、「会津藩松平容保、庄内藩酒井忠篤から助命嘆願があった場合、どう処置するか」という伺いが出された。その際、容保は「死謝」と決定された。佐々木克氏によると、この重大な決定を下したのは林通顕だという。通顕は諱で、通称は玖十郎。宇和島藩士で、藩主伊達宗城の信任が厚かった人物である。維新後の名前は、得能亜斯登(とくのうあすと)といった。一般にはほとんど知られていないこの人物がこの断を下し、その後、その方針は変更されることはなかった。奥羽鎮撫総督もその方針を踏襲し、会津藩や列藩同盟の謝罪嘆願は一切顧みられることはなかった。
戦後、明治二年(1869)十二月、明治新政府が発表した最終処分は、やはり会津藩にもっとも厳しかったが、その一方で会津と並んで「乱賊の巨魁」といわれた庄内藩は十七万石のうち、五万石を削減されただけであった。盛岡藩は七万石を削減されて十三万石に、二本松藩も五万七百石を削減されて五万石とされている。
では、会津藩と同様、幕末の政局でも「一会桑」の一角として終始薩長に抵抗し、戊辰戦争でも同盟軍の主力として各地を転戦した桑名藩の処分はどうだっただろうか。桑名藩は東征軍が進攻してくると、恭順して城を明け渡した。会津藩には恭順が認められず、桑名藩には認められた。この対応の差にも疑問が残る。藩主と佐幕派は分領柏崎に集合して、抵抗を続けた。その結果、桑名藩は五万石に半減されたものの、旧領地に戻され存続が認められている。やはり会津藩と比べれば、随分軽い処分である。
概ね寛大な処分にあって、何故か会津藩だけが厳罰に処された(勿論、各藩とも重臣の切腹や多額の献金など過酷な処分を受けている)。最終的な結論に至るまで、様々な議論とそれなりの理屈があったとは思うが、それにしても出された結論は、とても公平とは言えないものであった。
会津の処分には鳥羽伏見以前の経緯も反映されているのであろう。会津は幕末の政局において重要な役割を果たしたが、庄内藩あるいは東北諸藩はほとんど登場していない。その差が戦後処分にも反映されたのだろうか。
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