史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高萩

2019年04月06日 | 茨城県
(高萩駅)
 JR高萩駅前に長久保赤水の銅像が建てられている(高萩市高萩1928)。建立は平成二十四年(2012)。甲府駅前の武田信玄像や佐原駅前の伊能忠敬像と比べると、かなり知名度は劣るかもしれないが、郷土が生んだ偉人であることに違いはない。


長久保赤水像

 長久保赤水は、地元松岡の鈴木玄洋や佐渡の柴田収蔵、水戸の名越南渓などの良き師友に恵まれ、学問に励んだ。安永六年(1777)には水戸藩第六代藩主徳川治保の侍講に抜擢され、江戸小石川の水戸藩邸に住まい、儒学、地理学、天文学などを教授した。東北や長崎への旅の経験をもとに、渋川春海、森幸安らの日本地図を参考にして、さらに奥州道を行き交う旅人や高山彦九郎、木村蒹葭堂、古川古松軒らから得た情報を整合させ、経線緯線を付した新しい日本地図を完成させた。測量することなく情報のみで作成されたこの日本地図は、大阪から発刊され、後世「赤水図」と呼ばれ、旅人や幕末の志士たちの大いなる道標となった。
 長久保赤水像の隣に赤水図が設置されているが、現代人の目から見てもかなり正確である。赤水没後のことになるが、かのシーボルトも赤水図を持ち出し、今も欧米の博物館や大学に大切に収蔵されている。


改正日本輿地路程全圖

 赤水が侍講として江戸に赴いた翌年、農民生活の窮乏を水戸藩主に命がけで上奏し、農政や藩政の改善にも尽くした。退官後も八十歳まで藩主の特命を受け、大日本史地理志編纂に専念した後、生まれ故郷である赤浜に隠居した。享和元年(1801)、八十五歳にて没。

(松岡小学校)


松岡小学校

 現在、高萩市立松岡小学校のある辺りが、松岡城(別名龍子山城)の三の丸跡、藩校就将館跡にあたる(高萩市下手綱43)。学校の裏側(北)に二の丸、本丸が連なっていたが、現在城郭と呼べるような遺構は残っていない。辛うじて土塁や堀切や井戸の跡が確認できる程度で、城は自然に帰ろうとしているかのようである。


松岡城古井戸跡

 正保三年(1646)、松岡城は水戸藩付家老中山信政に与えられたが、宝永四年(1707)、中山氏が常陸太田に移った後、約百年、空城となった。享和三年(1803)、中山信敬が再び松岡に戻され、以来明治維新まで中山氏が続いた。維新後、独立して松岡藩が成立したが、廃藩置県により茨城県に統合され、松岡城も廃された。


松岡城跡

 松岡城も松岡藩も、今やすっかり忘れられた存在になってしまったが、江戸中期には、長久保赤水や鈴木松江(玄淳)、柴田平蔵(愿恭)、大塚(重々院)祐謙、大塚玄説、福地東園(充宣)、朝日祐誠といった優れた学者を輩出した。彼らは「松岡七賢人」あるいは「松岡七友」と称された。彼らの名を慕って多くの塾生が集まり、この地方の教育の中心となっていた。


お屋敷通り

 松岡小学校の校門前は、「お屋敷通り」と命名され、雰囲気のある家並が続く。
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