史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大村 Ⅱ

2015年07月18日 | 長崎県
(五教館御成門)


五教館御成門

 五教館は大村藩が設立した藩校である。その起源は四代藩主大村純長が寛文十年(1670)に、大村城内に創設した藩校集義館に溯る。その特徴は、武士の子弟だけでなく、広く一般にも聴講を許した点にあった。元禄七年(1694)には静寿園と改められ、桜田(現・大村公園桜田の堀附近)に移された後、学寮としての五教館と武芸場としての治振軒とが整備された。五教館の名称は、「孟子」の教えにある「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あらしむ」との、対人関係において守るべき五つの秩序を教育の基本としたことから名付けられたものである。その後、入学者が増加し、従来の施設では対応できなくなったので、天保二年(1831)、現在の大村小学校の地に移転した。明治六年(1873)、廃校となった。


五教館之跡

 御成門は、通称「黒門」と呼ばれ、藩主が来校した時の専用門として使用された。現在、大村小学校の入学式と卒業式の時だけこの門が開かれ、生徒が通ることになっているという。


石井筆子胸像

 五教館御成門の横に石井筆子の胸像が置かれている。石井筆子は、大村藩士渡辺清の娘で、若くしてフランス留学を経験し、津田梅子らと華族女学校の外国語教師を務めた。子供が知的障害児だったことから、その福祉と教育に生涯を捧げた。昭和十九年(1944)没。

(大村護国神社)


大村護国神社

 円融寺は、江戸時代初期の承応元年(1652)、四代藩主大村純長によって、三代将軍徳川家光以下歴代将軍の位牌を祀るために創建された寺である。順長は幕府の勘定奉行伊丹勝長の四男で、先代純信の養子となった。しかし、幕府の正式の許可が下りる前に純信が亡くなり、藩の存続が危ぶまれたが、三代将軍家光の裁可で跡目相続が許されたため、その恩義に報いるためにこの寺が建てられた。円融寺は明治維新後に廃寺となり、戊辰戦争の戦死者を祭るための旌忠瑩(せいちゅうえい)が建てられ、のち招魂社と改称し、ついで護国神社と改められて今日に至っている。境内には戊辰戦争の戦死者の墓碑のほか、維新で活躍した大村藩の三十七士の石碑が残されている。


三十七士顕彰碑

 幕末の大村藩では、渡辺清、昇兄弟、針尾九左衛門、松林飯山、長岡治三郎、楠本正隆らを中心として勤王の動きがあった。彼らは同志で血盟を結び、密かに会合を重ね、諸藩の志士と交わり、時の藩主大村純熙に幾多の建言を行うなど、その活躍は目覚ましいものであった。この同志がのちに三十七士と呼ばれ、幕末の大村藩を率いた集団となった。慶応三年(1867)、中心人物の一人であった松林飯山が暗殺された事件を契機に佐幕派の多くが処刑され、藩論が勤王倒幕に統一されることになった。護国神社にある三十七士の碑は、三十七士の功績を讃えるために、三十七士の死没の順に並べて建てられたものである。明治三十六年(1903)に建設が始まり、大正六年(1917)に三十七基が完成した。


松林廉之助漸神霊


浜田謹吾墓


戊辰戦役記念碑

 戊辰戦争で明治新政府側に立って参戦した大村藩は、とりわけ東北地方での奥羽越列藩同盟軍との戦いで活躍し、激戦となった刈和野の戦いでは多くの戦死者を出した。円融寺跡地には戦没者二十三基の墓碑が立っており、彼らの遺髪が納められたといわれている。この中には少年鼓手として従軍し、十五歳の若さで戦死した浜田謹吾の墓もある。


旧円融寺庭園

 護国神社の一番奥の斜面には、円融寺の石庭が残されている。巨石を多く使用し、三尊方式による石組は桃山時代の様式を色濃く残したものである。

(旧楠本正隆屋敷跡)


旧楠本正隆屋敷跡

 この屋敷は楠本正隆によって明治三年(1870)に建てられたもので、寄棟造り、桟瓦葺き、平屋建て一部二階の母屋と、渡り廊下で結ばれた別棟の離れからできている。建物の様式から近世武家住宅の系譜をひくもので、建物だけでなく石垣、庭園などを含めた屋敷地の全体がほぼそのまま残っており、旧大村藩内に残る武家屋敷の遺構としては、最も形式の整ったもの一つである。


楠本正隆肖像画

 楠本正隆は、長崎府判事、新潟県令、東京府知事、元老院副議長を務めた後、明治二十三年(1890)七月一日に行われた第一回衆議院議員総選挙に、東京麹町区から出馬して当選した。その後、同副議長を経て、明治二十六年(1893)十二月に第三代衆議員議長となり、引き続いて第五代まで議長を務めた。この肖像画は議長を務めたことを称えて描かれたものである。


楠本正隆の書


楠本正隆生誕之邸

 駐車場横には、壁面にはめ込まれるように楠本正隆記念碑が置かれている。この記念碑は、衆議員議長、男爵楠本正隆を顕彰するため、明治三十七年(1904)八月、貴族院議員伯爵大村純雄らによって、現・東京芝公園に建てられたものである。高さ六メートル三十六センチ、幅二メートル七十二センチという巨大な石碑であったが、その後、まっ二つに折れてしまったため、大村市が東京都より譲り受け、現在地に展示したものである。


楠本正隆記念碑
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