史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大村 Ⅲ

2015年07月18日 | 長崎県
(長岡半太郎屋敷跡)


長岡半太郎屋敷跡

 久原二丁目の住宅街の中に長岡半太郎の屋敷跡碑がある。
 長岡半太郎は、明治から昭和にかけて活躍した世界的物理学者である。昭和六年(1931)、大阪帝国大学開設とともに初代総長に就任し、理学部を設立し、のちにノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎らの素粒子グループを育成したことで知られる。
 長岡半太郎の父治三郎は、大村藩の「三十七士」の一人である。彼らの密議の場所として、この屋敷が使われたため、今も門前の「長岡半太郎生誕之地碑」には、「三十七士会盟之跡」とやや小さい字で記されている。
 長岡治三郎は、明治四年(1871)には、藩主大村純熙とともに岩倉具視の欧米使節団に参加した。

(長崎医療センター)


長与専斎の旧宅

 長崎医療センターの敷地内に長与専斎の旧宅が保存されている。
 長与専斎は、種痘で有名な藩医長与俊達の孫で、天保九年(1838)に大村片町で生まれた。父・中庵も蘭学を学んだ医者であったが、専斎が四歳のときに亡くなったため、専斎は祖父俊達によって育てられ、祖父の影響で医学を志すようになった。藩校五教館で学んだ後、安政元年(1854)、大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、同六年(1859)、長崎のポンペの医学伝習所などで体系的に西洋医学を勉強した。その後、長崎医学校(長崎大学医学部の前身)の学頭となり医学教育の確立のために力を注いだ。
 明治四年(1871)、欧米の医事制度を視察した後、文部省の医務局初代局長となり、その後、東京医学校の校長も兼務した。医務局は内務省衛生局と変わり、専斎はその初代局長にもなった。「衛生」という用語は、この時専斎によって作られたことは有名で、近代医療制度の基礎を築いた人物として日本の近代化に大いに貢献した。その後、貴族院議員となり、男爵を授けられ、宮中顧問官となった。明治三十五年(1902)、六十五歳にて逝去。

 この旧宅は、天保初年(1830年前後)、祖父俊達が建てたもので、「宜雨宜晴亭(ぎうぎせいてい)」と呼ばれ、当時は片町の海岸沿いにあった。専斎は幼少の頃、この家で育った。昭和三十三年(1958)、現在地に移築されたもので、専斎の号をとって「松香館」と呼ばれている。


長与専斎旧宅


長与専斎先生

 旧宅横に置かれている長与専斎の胸像は、昭和三十一年(1956)、長与専斎先生顕彰胸像建設会により大村市民病院内に建立されたが、大村市民病院の建て替え等を機に当地に移設されることになった。ここには長男長与称吉の胸像も置かれている。

(吹上墓地)


飯山松林先生墓

 松林飯山(廉之助)は天保十年(1839)、医者松林杏哲の長男に生まれた。嘉永五年、藩主大村純熙に従って江戸に上り、安積艮斎に学び、安政四年、十九歳で昌平黌の詩文掛となる。万延元年(1860)より松本奎堂らと双松岡塾を開いて尊王攘夷を鼓吹した。幕府の圧迫により閉鎖して国に帰った。文久三年(1863)正月、藩命により京阪の間を奔走して天下の形勢を洞察して帰り、五教館教授に擢んでられ、また特旨をもって政務に参与せしめられた。これよりますます勤王の大義を唱えて藩の士気を鼓舞し、岩崎弥太郎、竹添進一郎(のちの中国公使)など全国から来り学ぶ者多かったが、一方同士三十七士と義盟を結んで佐幕派を排斥し、ついにその凶刃に斃れた。年二十九。明治十年(1877)、旧藩主は碑を京都東山に建てこれを祀った。

(松林飯山遭難の碑)


松林飯山遭難の碑

 慶応三年(1867)正月三日、城中の謡初め式に参列し、夜九時頃帰宅途中、この石碑のある付近で刺客に襲われ、わずか二十九歳の若さで倒れた。飯山の暗殺事件を機に下手人とされた多くの佐幕派が取り締まられ、藩論は勤王に統一され、大村藩は倒幕に大いに活躍することになった。この碑は、昭和七年(1932)に建立されたものである。

(本経寺)


本経寺

 本経寺は歴代大村家の菩提寺である。本堂左手の墓地に、藩主一族の墓七十三基が並ぶ。初代藩主喜前(よしあき)から十一代藩主純顕(すみあき)までの歴代藩主および筆頭家老松浦家の墓が整然と並ぶ様は壮観である。これまで各所の大名墓を訪ねてきたが、これほどの規模を誇る墓所は、本経寺が唯一無二ではないか。


大村家墓碑群


長井家累世之墓(長井兵庫の墓)

 墓地には、長井兵庫の墓がある。長井兵庫は、慶應三年(1867)、松林飯山(廉之助)の暗殺事件(大村騒動という)に関与した嫌疑で処刑された。大村騒動は、二万七千石の小藩が、藩の命運をかけて保守慎重派を一掃し、倒幕に踏み込む契機となった事件であるが、処刑された関係者には苦い事件となった。この墓碑は、息子岩雄が建てたもので、本経寺の過去帳には戒名が「諦観院實相日等居士」とある。この戒名には「真実を明らかにする」との意味が込められており、藩の命運に殉じた人々の想いが伝わってくる。


松林飯山碑

 本経寺門前の駐車場に松林飯山碑が建てられている。飯山自身の書簡の字を拡大して彫ったもので「斃れて復起つ」と記されている。昭和十一年(1922)、飯山七十年祭に飯山会にて建立されたもの。

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