(祇園寺)
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倶會一處
市川三左衛門の墓の傍らに、「倶會一處」と刻まれた合葬墓がある。ここに市川三左衛門の妻岸子、長男市川主計、息市川秀五郎、市川安三郎が合葬されている。
市川主計は、二百石五人扶持、小姓頭。明治元年(1868)九月、水戸で殺害された。秀五郎は、水戸赤沼にて獄死(弘道館戦争で戦死とも)。安三郎は弘道館戦争にて戦死。
眞性院圓融智徳道光大居士
(朝比奈弥太郎泰尚の墓)
朝比奈弥太郎泰然の子、泰尚の墓である。嘉永六年(1853)家督を継ぎ、大番頭を経て、万延元年(1860)、大寄合頭に進んだ。元治元年(1864)、田丸稲之衛門らが大平山に拠ると、市川三左衛門らと計り、諸生派を率いて大挙江戸に向かって江戸藩邸に至り、藩主に迫るところがあった。ために同年六月一日、執政に挙げられたが、執政榊原新左衛門らの運動により同月のうちに罷免され、下国の途次、市川勢と合流して水戸に入り、協力して反対党の排除に当り、悲惨な党争へと発展した。慶応四年(1868)、京都残留組が帰藩するに際して、脱藩して会津に走り、十月、下総八日市場に戦い、子の靱負とともに討ち死にした。
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太田政照之墓
太田源五郎政照は、十郎左衛門の長男。三十両二人扶持。小姓。明治元年(1868)十月一日、水戸にて戦死。
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倶會一處
市川三左衛門の墓の傍らに、「倶會一處」と刻まれた合葬墓がある。ここに市川三左衛門の妻岸子、長男市川主計、息市川秀五郎、市川安三郎が合葬されている。
市川主計は、二百石五人扶持、小姓頭。明治元年(1868)九月、水戸で殺害された。秀五郎は、水戸赤沼にて獄死(弘道館戦争で戦死とも)。安三郎は弘道館戦争にて戦死。
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眞性院圓融智徳道光大居士
(朝比奈弥太郎泰尚の墓)
朝比奈弥太郎泰然の子、泰尚の墓である。嘉永六年(1853)家督を継ぎ、大番頭を経て、万延元年(1860)、大寄合頭に進んだ。元治元年(1864)、田丸稲之衛門らが大平山に拠ると、市川三左衛門らと計り、諸生派を率いて大挙江戸に向かって江戸藩邸に至り、藩主に迫るところがあった。ために同年六月一日、執政に挙げられたが、執政榊原新左衛門らの運動により同月のうちに罷免され、下国の途次、市川勢と合流して水戸に入り、協力して反対党の排除に当り、悲惨な党争へと発展した。慶応四年(1868)、京都残留組が帰藩するに際して、脱藩して会津に走り、十月、下総八日市場に戦い、子の靱負とともに討ち死にした。
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太田政照之墓
太田源五郎政照は、十郎左衛門の長男。三十両二人扶持。小姓。明治元年(1868)十月一日、水戸にて戦死。
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