史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八街

2022年03月05日 | 千葉県

 コロナ感染拡大を受けて、ずっと野球の練習ができなかったが、このところ急速に感染者数が減少したため、二年振りに市川のグラウンドで練習を行うことになった。

 当方も半年前に還暦を迎えたが、この二年の間にチームメイトの中には、十キロ以上のダイエットに成功した者、大型バイクを乗り始めた者、外車を手放して軽自動車に乗り換えた者など、それぞれそれなりに変化があったらしい。

 久しぶりにバットを握ったが、若者の速球にも振り負けずに打ち返すことができて「まだ行けるんじゃないか」という自信を得ることができた。

 せっかくなので、この機会に午前中の練習の後、千葉県下の八街、多古、佐原(香取市)の史跡を回ることにした。天候にも恵まれ、充実した史跡の旅を楽しむことができた。

 

(新勝寺八街分院)

 

新勝寺八街分院

 

 八街市の新勝寺八街分院の駐車場に西村郡司の顕彰碑が建てられている(八街市ほ1046)。渋沢栄一の篆額。小牧昌業撰文、齋藤利恆(芳洲)の書。大正七年(1918)九月の建碑。

 

贈従五位西村郡司翁碑

 

 西村郡司は文化十一年(1814)の生まれ。生地は北足立郡門前村(現埼玉県さいたま市見沼区)。初め江戸深川で商業を営んだ。安政六年(1859)、神奈川開港の直後、同地に赴き貿易に従事した。この頃、渋沢栄一と交友があった。奥羽征討の師起こると、軍資として一万両を献じ、五口俸を給され、称氏帯刀を許された。維新後明治政府は東京府の流民救済のため、下総の旧幕府の牧野(佐倉七牧)を開放し、開墾会社をつくり、明治二年(1869)四月、窮民を募って帰農させた。この時、郡司は三井八郎右衛門らとともに会社の頭取にあげられた。郡司は翌明治三年(1870)、現・八街市の北半を占める旧柳沢牧の開墾に当たった。明治五年(1872)五月、会社は解散したが、郡司はその後も現地に住み、地主として開墾を続けた。無住の原野が今日の八街市となるに至った町づくりの功労者である。明治二十八年(1895)、年八十二で没。

 

(けやきの森公園)

 

けやきの森公園

 

 けやきの森公園の用地は、明治二年(1869)、西村郡司が開墾会社事務所を開設した際に確保された場所である。その後、昭和二十六年(1951)から平成二年(1990)まで、八街農林保育園として使用された。(八街市ほ239‐6)

 

けやきの森公園

 

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