史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

篠山 Ⅱ

2019年12月14日 | 兵庫県

(上板井)

 

                       

伊能忠敬笹山領測量の道④

 

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は早朝より百三十一人の労役村民を従えて北野新村から京都街道を測量して宮田村に入り、国料村へ通じる分岐点に杭を打ち込んだ。ここから北上して、丹後の成相寺に向かう巡礼道の街道筋にあたる板井村、左に川内多々奴比神社、小坂村まで測量し、二月朔日、国料村で杭を打ち込んで佐仲峠につなげた。京都街道に戻って笹山城下に向かった。

 

(追入)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑤

 

 篠山市の誓願寺門前で加賀尾会長と落ち合い、最初に向かったのが追入(おいれ)の石碑である。

 道すがら十二もの石碑を建てたご苦労を伺った。石碑を一つ建てるだけでも大変なことだが、まず古い絵図から場所を特定し、土地の持ち主と交渉する手間まで、気の遠くなるような作業である。土地には国有地、市有地、私有地があって、国有地に建てるのは絶望的に難しいらしい。私有地の場合は、土地の持ち主が快諾してくれれば比較的話は早い。追入の石碑も私有地であったが、隣接する土地の持ち主が了解してくれたためこの場所に建てることができたという。追入は丹波から峠を越えて笹山に入ったときに最初に出会う宿場である。

 伊能忠敬測量隊が栢原から金ヶ坂峠まで測量して追入村に入ったのは、文化十一年(1814)二月三日。昼食後、ここから二月朔日、国領村で杭を打ち込んだ追入峠まで測量。同村にて止宿して夜は展開観測。

 翌日は早朝百三十一人の労役村民を従えて出発。神田神社、北野新村に入り、大阪・京都街道の分岐点に杭を打ち込んだ。引き続き大阪街道を南下して測量。止宿は北野新村。夜は天体観測。

 

(大沢)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑥

 

 大沢一丁目のガソリン・スタンドの北側の空き地の一画にこの石碑が建てられている。

 伊能忠敬測量隊が大沢に至ったのは、文化十一年(1814)二月四日のこと。百三十一人の労役村民を従えて、北野新村から大阪街道を南下し、一ノ瀬川に架けられた仮橋二十一間を渡り、古佐村に入った。

 一ノ瀬川の向こうに丹波少将屋敷跡を認めた。味間村の皆川を渡り、新村の立場、大沢村に入り、大阪・笹山街道の分岐点に杭を打ち込み、その日の測量を終えた。同所で昼食後、測量することなく北野新村まで引き帰り止宿した。夜は天体観測。

 

(今田)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑦

 

 今田(こんだ)小学校の正門西側に石碑がある。文化八年(1811)三月八日、伊能忠敬測量隊は上鴨川から笹山領に入り、青山下野守木津村、立杭村を測量して昼食をとった。

 文化十一年(1814)二月七日、早朝より百三十一人の労役村民を従えて、古市の清水寺街道の杭から測量を開始し、不来坂峠、小野原村、市原村枝今田、木津川の土橋六間を渡り、市原村の宿舎まで測量した。それより播州との国境を越えて清水寺まで測量した。その夜は天体観測。

 

(草野)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑧

 

 武庫川にかかる草野大橋西詰北側に石碑がある。加賀尾会長によると、この石碑の位置は実際に伊能忠敬一行が通った場所からかなり離れているらしいが、あまりに往来から離れているため、JR草野駅に近いこの場所に石碑を建てることになったそうである。

 笹山城下から大沢村を測量した伊能忠敬測量隊十名が犬飼村に入ったのは文化十一年(1804)二月六日。昼食後、大阪街道を測量し南下、右に二村神社、古市の街道分岐点に杭を打ち込んで止宿。翌七日は杭の地点から清水寺街道を播州との境まで測量した。八日は同じ杭から大阪街道を測量し、日出坂峠を越え藍本に止宿した。

 

(宇土)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑨

 

 この石碑は宇土観音に向かう途中に建てられている。

 伊能忠敬測量隊十名が宇土村に入ったのは文化十一年(1814)二月六日。笹山城下から百三十一名の労役村民を従え、渡瀬をわたり、東吹村、城山の西裾を通過した。槇ヶ峰の北裾に沿って杉村を測り、前々日に北野新村から測量して打ち込んだ大沢村の大阪・笹山街道の分岐点の杭につなげた。測量は毎日百三十一人がその役に当たり、岩崎組では六日は五十一人、七日は三十人が出役している。

 

(糯ヶ坪)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑩

 

 糯ヶ坪(もちがつぼ)の八上小学校の向かい側、高城会館の前に石碑が建てられている。文化十一年(1814)二月十一日、伊能忠敬測量隊一行は、大芋川の京橋二十間を渡り、京都街道に沿って池上村、八上下村、八上内村立場、八上上村、右に高城山古城跡、波多野右衛門太夫秀治の居城を経て、八上新村に向かった。当日の測量には、八上組から五十一人が協力し、うち二十一人が梵天持ち、小多田組からは四十人が出役した。

 

(日置)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑪

 

 文化十一年(1814)二月十一日、伊能忠敬測量隊十名は、早朝より百三十一人の労役村民を従えて笹山城下二階町から京都街道を八上新村まで測量。大庄屋波部六兵衛宅で昼食をとった。五十宮八幡宮、磯宮寺まで測量し参拝。境内では足利尊氏立願による名樹の裸框を見聞。ここから街道筋を六本柳、波々伯部八ヶ村鎮守の祇園社・祇園寺と京都街道を測量し、飛曾山坂を越えた。

 

(福住)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑫

 

 篠山に入って最初に訪ねたのが福住である。福住は昔の街道上の街で、今も伝統的建造物保存地区に指定されており、風情ある昔の建物が軒を並べている。

 伊能忠敬が福住を訪れたのは文化十一年(1814)二月十一日のこと。測量隊十名は、早朝より百三十一人もの労役村民従えて城下二階町を出発、京都街道を測量した。飛曾山坂を越え、小野奥谷村、安田村、福住村駅場測定所前に杭を打ち止め、八つ時頃同村に到着し、本陣庄屋山田嘉右衛門宅に宿泊した。翌日も同じく百三十一人を従えて出発し、川原村、亀山領安口村、西野々村、岩坂峠郡界を測量して上天引村へ向かった。

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