史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大村 Ⅰ

2015年07月18日 | 長崎県
(渡辺清誕生地)
 長崎へ空路で入ると、飛行機が着陸するのは大村市に所在する長崎空港である。空港は海上に造られている。
 長崎市内に入る前に大村の史跡を訪ねる。大村は古い歴史を持つ街で、幕末に関する史跡も数多い。事前に大村市観光協会に、主な史跡の場所は確認して情報を得ておいたので、快調に史跡を回ることができた。

 最初の訪問地が、玖島二丁目にある渡辺清・昇兄弟の誕生地である。残念ながら生家跡を思わせるものは何もない。


渡辺清誕生地

 渡辺清は、天保六年(1835)、大村城下に生まれた。つとに尊攘の説を奉じ、文久三年(1863)九月、大村藩勤王三十七士による義盟に加わり、国事に奔走。慶応三年(1867)、松林廉之助が佐幕派によって倒されると、藩主大村純熙に勧めて佐幕党二十七人を梟首した。同年、藩の二男以下の子弟をもって新成組を結成しその隊長に就き、明治元年(1868)、鳥羽伏見の戦争が起こるや、伏見・桑名に戦って功を立てた。ついで東征軍監・東征大総督参謀として偉功を立て、賞典禄四百五十石を下賜された。維新後は民部省権判事、民部権大丞兼三陸磐城両羽按察使判官として東北地方の民政に当たり、明治四年(1871)厳原県藩知事、大蔵大丞を経て、明治七年(1874)、福岡県令、明治十四年(1881)、元老院議官、明治二十一年(1888)、福島県知事に任じられ、貴族院議員に選ばれた。明治三十七年(1904)、七十歳にて没。
 渡辺昇は、清の実弟。天保九年(1838)に生まれた。江戸に出て安井息軒の門に入り、また剣を斎藤弥九郎の塾に学び、のち桂小五郎に代わりその塾頭となった。つとに尊皇攘夷の志を抱き、桂小五郎ら志士と交わり時事を談じた。文久三年(1863)の大村藩三十七士の義盟に参加。その領袖として活躍し、藩論を一定して薩長と志を通じ、その間を往来していく王政復古の大業を翼賛した。明治元年(1868)四月、長崎裁判所出仕以来、太政官権弁事兼刑法官権判事・待詔局主事・中弁・弾正大忠・盛岡県権知事・大阪府権知事を歴任。明治十年(1877)、大阪府知事、明治十三年(1880)、元老院議官を経て、明治十七年(1884)、会計検査院長となった。大正二年(1913)、七十六歳にて没。

(浜田家墓所)
 久原一丁目の浜田家墓所には、戊辰戦争で戦死した浜田謹吾やその父濱田彌兵衛らの墓がある。濱田家の先祖は、寛永五年(1618)、御朱印船長として台湾に赴き、貿易を妨害したオランダ総督と戦って勇名を馳せた濱田彌兵衛重武である。


濱田謹吾重俊神霊

 濱田謹吾の墓である。大村市内には二か所濱田謹吾の墓があるが、そのうちの一つ。個人手には角館の墓も既に掃苔済みなので、これで三つ目ということになる。
 濱田謹吾は大村隊の鼓手として秋田に出陣し、刈和野の戦いで戦死した。十五歳の少年の遺体の軍服から、母がおくった歌が発見され、涙を誘ったという。


濱田彌兵衛重義 同人妻チカ子 墓

 濱田謹吾の父、彌兵衛は三十七士の一人。妻チカ子は、戊辰戦争で出征する息子謹吾に歌を贈ったことで知られる。この縁で大村市と角館市は姉妹都市として締結している。

 ふた葉より 手くれ水くれ 持つ花は
 君がためにぞ 咲けやこのとき

(大村公園)
 玖島城(大村城)は、大村藩二万七千石の居城である。玖島城は、慶長四年(1599)に造られ、その後慶長十九年(1614)に大改修を行い、この時、虎口門、台所門、搦手門の三つの入口の形が定まった。本丸敷地の内、西半分には大村神社が建立されており、稲荷神社のある東半分には藩主の居館があった。現在、建造物は破却されて、一帯は公園として整備が進んでいる。特に桜と菖蒲が有名である。


玖島城板敷櫓

 城郭らしいものとしては、板敷櫓が再建されて、美しい姿を見せている。


新蔵波止跡

 玖島城は海に面した城である。海岸には新蔵波止跡が残されている。貞享三年(1686)、幕府が官米三千石を筑前から運んで預けた時、二棟の新蔵を建て、この波止場を築いた。それ以降も藩船などの発着に利用された。


浜田謹吾像

 玖島城内に浜田謹吾の銅像が建つ。全く同じ型の像が、秋田県の角館宇津巻天神にもある。


戊辰戦役記念碑

 大村藩は戊辰戦役に当たり、京都で禁裏守護にあたり、その後大津に進出、東海道征討軍先鋒として江戸に進軍した。江戸では上野の彰義隊討伐にも参加した。慶応四年(1868)六月、奥羽の賊軍討伐令が下ると大村藩東征軍総督土屋善右衛門以下百十八名は、藩地からの応援隊総司令大村弥門以下百十名を加えて一隊を成し、会津戦争で戦功があった。また北伐軍である吾往隊は、久保田藩領を転戦し殊勲があった。この間、戦死者二十二名、戦傷者五十七名の犠牲を出している。戦後、勲功により三万石の賞典禄を下賜された。これは薩長土に継ぐものである。


斉藤歓之助の碑

 斉藤歓之助は、幕末江戸の三大道場の一つ練兵館を主宰する神道無念流斉藤弥九郎の三男として、天保三年(1832)、江戸で生まれた。歓之助は、嘉永七年(1854)、大村藩主純熙に招かれて、剣術師範役となった。厳しい稽古から「鬼歓」と仇名されるほどで、得意の突きは天下無双と恐れられた。幕末において、大村藩では一刀流、新陰流などが採用されていたが、実戦に強い剣術を採用することになり、神道無念流の歓之助が招かれることになったという。以後、藩内では神道無念流への入門が相継ぎ、歓之助の門弟は千人以上に達したといわれる。上小路の屋敷にあった道場は微神堂と称され、ここで学んだ者が数多く戊辰戦争で活躍したといわれる。歓之助は、若くして病気を患い、廃藩置県後、東京に移住し、明治三十一年(1898)、六十六歳で亡くなった。玖島城址のこの石碑は、柴江運八郎らの門弟が師の功績を顕彰して建立したものである。

(大村神社)
 本丸跡の大村神社は、藩祖大村遠江守直澄以来歴代の神霊を奉祀したもの。現在地に社殿が遷座したのは明治十七年(1884)のことである。社殿と並んで、最後の藩主大村純熙の銅像が立つ。


大村神社


大村純煕像

 大村純熙は肥前大村藩の最後の藩主。大村藩の藩是は必ずしも固定せず、他藩の例に漏れず、勤王派と佐幕派が争っていたが、藩主純熙自身は一貫して勤王派であった。慶應三年(1867)に至ってようやく藩内の佐幕勢力を一掃し、鳥羽伏見の戦いにも藩兵を出兵させた。大村藩兵は大津警護、桑名征討に加わり、更に江戸に進んで彰義隊、振武隊掃討に参加した。明治十五年(1882)五十三歳で死去。


御居間跡

 稲荷神社横の御居間跡の碑は明治初期に、濱田謹吾の父、弥兵衛重義が建立したものである。

(斎藤道場跡)


斉藤道場跡

 上小路の武家屋敷の手前に斉藤道場跡の標柱が建てられている。この自宅内に道場を設け、微神堂と称した。

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