史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

杵築 Ⅱ

2022年07月09日 | 大分県

(萬力屋)

 今年(令和四年(2022))のGWは、半年も前から大分・宮崎の旅を計画していた。その時点では、新型コロナ・ウイルスの感染状況が不透明であったが、取り敢えず往復のフライト、レンタカー、宿泊先は早々に予約を済ませた。幸いにして、感染者は減少傾向にあり、三年振りに行動制限のない五月連休となった。

 以前、大分県を旅したのは、六年前のことである。思い起こせば福岡県から大分県に入ったところで、日田から杵築にかけて大雨に見舞われた。今回の五泊六日の旅は、比較的天気には恵まれたが、初日だけは天気予報とおりずっと雨であった。六年前の杵築、日田もひどい雨だったので、その続きを見ているようであった。

 六日間のレンタカーの走行距離は千五百七十キロメートル、万歩計の歩数は十三万四千歩を越えた。撮影した写真は、千二百五十枚を数えた。おかげで非常に充実した旅となったが、例によって朝食は前日にコンビニで購入した菓子パン、昼食もコンビニのおにぎりを車内で詰め込み、夕食はチェーン店で済ませた。日の出から日没まで、史蹟三昧の日々であった。客観的には日の出から日の入りまで休みのない過酷な旅であったが、個人的には大満足であった。

 

 大分空港でレンタカーを調達すると、一直線に杵築を目指した。最初の訪問地は、杵築の萬力屋である。萬力屋は、杵築の一角で明治十年(1877)より五代続くという老舗で、履物や木製品を作って販売している。

 

萬力屋

 

 伊能忠敬の測量日記によれば文化七年(1816)二月七日に本陣を中町佐伯屋小助、別宿を谷町伊予屋兵右衛門にして分泊した。伊予屋は萬力屋として現在も存続しており、店の前に「伊能忠敬測量隊別宿跡」と刻んだ石碑が建てられている。

 

伊能忠敬測量隊別宿跡

 

(高橋草坪邸跡)

 高橋草坪(そうへい)は、杵築出身の画家である。文化元年(1804)の生まれで、実家は商家であった。幼にして画を能くしたが、十九歳のとき、田能村竹田が杵築を訪れた際に師事して、竹田荘の人となった。竹田に従って京摂、尾道の間を遊歴し、山水・花鳥画とも大いに名声を得た。この間、古名籍に学ぶことも忘れなかった。篠崎小竹は、草坪の才を愛し、姪を嫁がせた。画風について、竹田が「予敢えて及ばざる也」と評し、浦上春琴は草坪の絵を清の乾隆以前の名画家の作に違いないといい、竹田の弟子と知って驚いたという。天保六年(1835)、三十二という若さで亡くなり、その夭折を惜しまれた。帆足杏雨、後藤碩田、田能村直入とともに竹田四天王の一人と称される。

 

高橋草坪邸跡

 

(元田塾跡)

 この辺りは南台武家屋敷と呼ばれ、昔ながらの白い壁をもつ屋敷が軒を連ねている。その中に儒学者元田竹渓の開いた元田塾があった。以前は民家の前に「元田塾跡」と書かれた木柱が建っていたようだが、残念ながらその場所は更地になっており雑草が生い茂るばかりであった。

 

元田塾跡

 

 元田竹渓は、杵築藩の儒者。寛政十二年(1800)の生まれ。藩校時習館の教授などを務めた。幕長戦争に反対して処分され,維新後に復職した。帆足万里の門下十哲の一人で、門人に物集高世らがいる。明治十三年(1880)、八十一歳にて死去。代言人、法律家として活躍した元田直の父である。

 

(長昌寺)

 

長昌寺

 

 長昌寺墓地の中ほどに高橋草坪の顕彰碑と墓がある。「高橋草坪先生遺愛之碑」と刻まれた顕彰碑は、昭和十二年(1937)の建立というから比較的新しいものである。顕彰碑の横に置かれた小さな墓は、五名の法名が刻まれた連名墓であるが、そのうち一番に右手にある「哲真画工信士」が草坪のものである。

 

長昌寺庭園

 

 長昌寺の本堂裏手には、美しい庭園がある。入口に設けられた杵築市教育委員会の説明によれば「江戸時代初期の作庭。九州における枯山水庭園の白眉であり、水前寺成趣園と並び称される名園である」という。審美眼に劣る私の目にはさほどの名園には見えなかった。

 

高橋草坪先生遺愛の碑

 

哲真画工信士(高橋草坪の墓)

 

(養徳寺)

 長昌寺や養徳寺のある一角は、南台の西側にあって、寺院がならぶ寺町である。養徳寺は、杵築藩主能見松平家の菩提寺である。松平家墓所の中央には、六代藩主松平親貞(寛政十二年(1800)没)、七代藩主親賢(享和二年(1802)没)の墓が鎮座している。

 

養徳寺

 

 杵築藩の藩主は、江戸時代初頭は小笠原氏であったが、正保二年(1645)小笠原氏が三河に転封となり、代わって能見松平氏が引き継いで明治維新まで続いた。小藩であったが、譜代意識の強い家で、元治元年(1864)の第一次長州征伐で、長州藩江戸屋敷受け取りを拝命した杵築藩は、長州藩邸内にあった祖霊廟(歴代藩主の霊を祀る社)を焼いたといわれる。慶應二年(1866)の第二次征討では、小倉に出兵している。幕府軍は総崩れとなり、杵築藩も退却したが、祖霊廟を焼いたことの仕返しのために杵築城下を襲撃するとの流言に怯えた藩は、士分で十五歳以上の男子が籠城して防御にあたった。その後も杵築藩は佐幕か勤王か態度を決めかねていた。王政復古の大号令が発せられても態度を決められず、業を煮やして脱藩した藩士も多く、花山院隊に加わった者もでた。

 

六代藩主松平親貞 七代藩主親賢の墓

 

 幕末の藩主松平親良は、元治元年(1864)から慶應二年(1866)まで寺社奉行を務める等、幕府の要職を歴任していた。杵築藩が朝廷に従う決定をしたのは、慶応四年(1868)一月末のことであった。藩主親良に代わり、当時国許にいた嫡子親貫(ちかつら)を上京させ、朝廷に伺候させた。

 

物集高見墓

 

 物集高見(もずめたかみ)は、弘化四年(1847)の生まれ。父は物集高世。幼くして杵築藩医辻玄洋、藩儒元田竹渓、南豊山に漢学を学んだ。文久二年(1862)、家塾で国語・国書を、さらに慶應元年(1865)、長崎で蘭学を学んだ。慶應二年(1866)には京都に出て、玉松操に国学を学んだ。明治二年(1869)、上京して平田銕胤に国学、東条琴台に漢学を学び、のち洋学、英学も学んだ。明治三年(1870)以降、神祇官・教部省などに出仕し、明治十九年(1886)、東京帝国大学文科大学教授、のち学習院教授となった。国語の研究を続け、明治二十一年(1888)、「ことばのはやし」を、明治二十七年(1894)には「日本大辞林」を刊行。明治三十二年(1899)には文学博士の学位を授けられた。教員学力試験委員、教科書編纂審査委員等も兼ねた。昭和三年(1928)、年八十二で没。

 

物集高世墓

 

 物集高世(たかよ)は、文化十四年(1817)の生まれ。杵築城下の商家金屋に生まれたが、幼時から学を志し、杵築藩儒元田百平に儒学を、豊前企救郡の定村直好に国学を学び、のち平田篤胤の門に入った。神祇、和歌に通じ、明治元年(1868)、豊前国宇佐学館にて神典を講義、ついで藩の神官教授方兼国学教授となり、士族にとりたてられた。明治二年(1869)には神祇官宣教師に任じられ、翌年宣教権少博士に進んだ。神道の研究に力を注ぎ、歌学、とくに辞格の研究では「辞格考」等の優れた業績を残した。明治十六年(1883)、年六十七で没。

 

(南台西駐車場)

 養徳寺の北側、南台西駐車場の前には、いくつかの興味深い石碑が建てられている。

 

麻田剛立生誕の地

 

 麻田剛立は、享保十九年(1734)の生まれ。医者であり天文暦学者である。父は杵築藩儒綾部絅斎。天文学、医学を独修して、明和四年(1767)、藩の侍医となった。しかし、安永元年(1772)、脱藩して大阪に出、麻田と改姓した。寛政七年(1895)、幕府の改暦に招かれたが、門人の高橋至時、間重富を推薦。実測に基づき、中国式暦法からの転換を進めた。寛政十一年(1799)、没。

 

跡部先生邸之跡

 

 もう一つの石碑には「綾部先生邸之跡」とある。綾部道弘(1635~1700)は、杵築藩主に仕えて豊後教学の祖と呼ばれる人物である。その子孫はいずれも学問に秀で、道弘の長男安正(絅斎)(1676~1750)は、学問と政務に名をあげ、三浦梅園の弟子にあたる。安正の長男采胤(冨坂)(1719~1782)も学者として高名で、彼ら綾部教学者により杵築文教の基礎が築かれた。安正の四男が剛立(1734~1799)である。安正は藩主の侍医を務めながら脱藩し、大阪で先祖の住地にちなんで麻田と姓を変えた。「先事館」を開き、天文学、暦学を極めた。伊能忠敬は彼の孫弟子にあたる。南台駐車場の場所は、子孫であり、運輸大臣や衆議院議長を歴任し、杵築市名誉市民となった綾部健太郎(1890~1972)から寄贈されたものである。

 

(千光寺)

 

千光寺

 

 杵築市の西郊、本庄地区に所在する千光寺は、杵築藩の村上藤右衛門、三浦多一郎らが、花山院党の天野四郎、池田小次郎(花山院党)と会談した寺である。

 

千光寺

 

 花山院党が御許山で挙兵すると、杵築藩では城下から一里というところまで出兵し防御を固めた。同時に竹田津(現・国東市)、山香(現・杵築市山香)方面も厳重に警備させた。

 その杵築藩に対し、御許山から天野四郎と池田小次郎と名乗る使者が、檄文を携えて談判に現れた(慶應四年(1868)一月十九日頃と推定される)。

 杵築藩では、村上藤右衛門、三浦多一郎らが、千光寺で両名と会見した。同席した杵築藩士須田蔵之丞は「彼らは真の奇兵隊にあらず。軍資を提供するのは見合わせるべし」と主張した。

 この時、杵築藩では勤王派の元田直を御許山に派遣し、花山院党の幹部と会見させていた。元田は御許山の僧坊に一泊して状況を確認したが、一月二十三日、下山途中に銃声が聞こえ、その日のうちに一党は鎮圧された。元田は危ういところで虎口を脱した。杵築藩では、事態が鎮静化するまで動静を注意深く見守ることになった(「花山院隊「偽官軍」事件」長野浩典著 弦書房より)。

 

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