史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「頭山満」 嵯峨隆著 ちくま新書

2021年11月27日 | 書評

頭山満は、安政二年(1855)に生まれ、終戦直前の昭和十九年(1944)に八十九歳の天寿をまっとうした。言わば、明治維新から敗戦までの歴史を繋いだ人物の一人である。

この人物には「右翼の巨頭」という形容がつきまとう。彼は一貫して反英米を主張し、太平洋戦争が始まると「今度こそ息の根が止まるほど手厳しくやっつけて、将来二度と斯様な事態を引き起こさぬやう、禍根を徹底的に絶滅せねばならぬ」といった好戦的な発言を発信し続けた。

頭山は国権主義者であると同時に、強烈な皇国意識の持ち主であった。「右翼の巨頭」というイメージは決して誤ってはいないが、しかしそれだけではこの人物の一面を表しているに過ぎない。

本書の副題は、「アジア主義者の実像」である。頭山のアジア主義の原点はなんと西郷隆盛にあるという。彼は、西郷没後の明治十二年(1879)に西郷の旧宅を訪ねている。そこで出迎えたのは、川口雪蓬であった。川口が来意を尋ねると「西郷先生に会いに来た」と答えた。彼がいうには「西郷先生の身体は死んでも、その精神は死なないはずだ。私はその精神に会いに来たのだ」というのである。

「征韓」を唱えた西郷隆盛とアジア主義は、結びつかないかもしれない。しかし、西郷が終生信奉した斉彬は、アジアが連携して西欧に対抗すべきという考え方を持っていたというし、西郷がその思想を受け継いでいても不思議はない。西郷は、自身の政治思想をまったく書き残していないが、「西郷南洲翁遺訓」の次の一節がそのよすがになるかもしれない。

――― 実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢゃと申せし。

頭山満がどうやって西郷のアジア主義思想を感得したのかはっきりしないが、彼のアジア主義の起点を西郷に求めることは、今日有力な説になっているという。頭山の国家像は、西郷のいうような「強国にして正義」、即ち弱小国を哀れみ、文明化を手助けするというのが理想であった。弱小国を略奪し苛斂誅求してその国を苦しめる帝国主義は最も卑しむべきことであった。

頭山のアジア主義は、極めて実践的であった。彼が支援したアジアの活動家・革命家は、朝鮮の金玉均、中国の孫文、インドのラース・ビハーリー・ボースらである。本書ではあまり触れられていないが、無位無官の頭山が、これだけ外国の革命家を支援できた背景には、圧倒的な経済力があった。彼の収入源は鉱山経営などだったという。

歴史が物語っているように、金玉均も、孫文もボースも、自国の革命の主役にはなれなかった。孫文は明治四十五年(1912)、中華民国臨時政府を樹立し、臨時大総統に就いた。しかし袁世凱にその地位を奪われ、武力で中国を追われ、日本に二度目の亡命を果たす。孫文は大正十三年(1924)、死去するが、遂に政権を奪回することはできなかった。頭山の支援した革命家が自国で政権を獲れなかったことは、彼の大きな誤算だったであろう。

 

黄君克強之碑

 

右は鶴見總持寺にある黄君克強(黄興)之碑である。克強とは黄興の字である。孫文とともに辛亥革命を主導した革命派のリーダーである。黄興は、大正五年(1916)、滞在中のアメリカから日本経由で帰国しようとしていた。この時、總持寺では革命派の陳其美の追悼会が開かれ、頭山も同席している。しかし、黄興と頭山が面談をした記録は残っていないという。

帰国した黄興は疲労が重なり吐血し、そのまま帰らぬ人となった。その二年後、頭山、犬養毅、寺尾亨らが発起人となって、犬養毅の筆によってこの石碑が建てられた。今は森の中に埋もれるように建っており、そばの小径を通っても、近くに石碑があることに気が付くことすら難しい。

 

日本同志援助中國革命追念碑

 

もう一つ、鶴見の總持寺境内にたつ碑を紹介したい。日本同志援助中國革命追念碑は汪精衛(兆銘)の書。汪は孫文の側近として辛亥革命を推進した人物である。昭和十四年(1939)、日本では中国で親日政権の樹立を画策しており、汪精衛の担ぎ出し工作が進められた。汪は昭和十五年(1940)、南京国民政府の成立を宣言した。汪は頭山を「慈父の如し」と慕っていた。昭和十六年(1941)に汪が日本を公式訪問した際には、天皇に謁見した後、頭山にも面会している。頭山は蒋介石が日本に背いたことを不快に思っていた。一方で、反蒋・親日を掲げる汪精衛には大いに期待したであろう。

蒋介石の重慶政府との和平も画策され、一時頭山を中国に派遣する計画もあったが、その計画も幻と消え、戦争終結の芽は摘まれた。歴史が物語るとおり、太平洋戦争が始まり、戦争は泥沼化するのであった。

頭山にとって英米を撃滅する戦争は、待ちに待ったものであった。「皇国日本」が英米に負けるわけがないと信じて疑わなかった。昭和十九年(1944)十月、頭山は我が国の敗戦を見ることなく、御殿場の別荘で永眠。享年八十九。

彼が終生願っていた打倒英米も果たすことができず、日中の和平も提携も夢と消えた。あの戦争から七十年以上が経過したが、日中の間には深い溝ができたままである。恐らく共産党独裁が続く限り、この溝は永遠に埋まらないのではないか。この現実を見たら頭山は怒り狂うかもしれない。

 

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