佐倉市の国立歴史民俗博物館で、「大久保利通とその時代」展が開かれている(平成二十七年(2015)十月六日~十二月六日)。八王子の自宅からJR中央線にて御茶ノ水に出て総武線に乗り換え、千葉駅経由佐倉で下車して、そこからバスで博物館の前に降りた時、ちょうど自宅を出て三時間が経過していた。いやはや佐倉は遠い。
展示されている史料は、当博物館が所蔵していた三千点に加え、今般新たに大久保家から三千五百点が寄贈され、その中から選りすぐった約百六十点である。これを見れば、幕末から明治初期にかけて、あらゆる場面に大久保利通が関与していたことが見てとれるであろう。
ついでにいえば、展示されている流麗な崩し文字は、ほとんど解読できなかった。やはり入門書を一冊読んだだけではまだまだ十分ではないということである。
当日、十三時から二時間にわたって、当館研究部歴史研究系教授樋口雄彦氏の講演があった。少しは早めに会場に行ったつもりであったが、入場無料ということもあり、ほとんど空席がないほどの盛況であった。
樋口先生のご専門は日本近代史であるが、どちらかというと興味の対象は幕府・幕臣である。たとえば、私がかつて読んだ本の中に、樋口先生の「第十六代徳川家達」(祥伝社新書)がある。壇上の先生は、随分お若く見えたが、あとで調べたら私と同い年であった。
本日の講演は大久保の書簡を通じて、勝海舟と薩摩藩の関係、内務省への旧幕臣の登用などにフォーカスしたものであった。講演の中で何度も、
「大久保利通その人に関心のある方には期待外れかもしれませんが…」
と申し訳なさそうにおっしゃっていたが、個人的には非常に興味深い内容で、あっという間の二時間であった。
冒頭紹介された史料はいずれも薩摩藩士折田要蔵が大久保に宛てた書簡である。一点目の史料の日付は元治元年(1864)三月となっている。この時期、薩摩藩と幕府の関係は、表向きは敵対しておらず、島津久光の建議により、幕府と共同で摂海防備のために砲台の築造が実行に移されている時期であった。折田要蔵は摂海砲台築造掛となってその実現に尽力していた。
私はあまりこの折田要蔵(維新後は年秀)という人物のことは知らなかったが、当日配布されたコピーに拠れば、当時薩摩藩の内情を探るために渋沢栄一(一橋家家来)が折田の門人となっていたそうである。渋沢は折田について「さまでの兵学者でもない。大言を吐くことが上手で、その上弁舌が巧みであることから、完全な築城学者と見做されていた。さまで非凡の人才と思われぬ。西郷隆盛とは時々文通することもあるが、その言が十分に信ぜられようとは思われぬ。外面の形容ほどには実力のない人」と、辛辣な評を与えている。折田は、明治三年(1870)に官を辞した後、京都で鉄砲商などを営み、明治六年(1873)には湊川神社の神官となった。講演で紹介された元治元年(1864)五月二十二日付の書簡では、幕府閣老に対して、摂海における防備の強化とともに楠公社の建設を献策したことを自慢気に報じている。この時節、楠正成を顕彰する神社を開くことは幕府の神経を逆なでするもので、政治的には意味を持つものであるが、維新後創建された湊川神社にさほど政治的価値はない。その宮司に就くことができて本人は本望だったかもしれないが、渋沢が評したようにさまでの人材ではなかったらしい。
樋口先生が紹介した慶応四年(1868)九月十八日付の脱走旧幕臣についての密偵の報告や大久保利通による「敬天愛人」の書(現存せず。やや眉唾)の話も面白かったが、一番興味を引いたのが、最後に紹介された第一回内国博覧会の集合写真であった。今回の「大久保利通とその時代」のパンフレットにも用いられたこの写真は、内務卿大久保利通を中心に、大勢の内務官僚や博覧会の審査官、或は地方官で埋め尽くされている。樋口先生によれば、この中で薩摩藩出身者は松方正義のみという。大久保は出身藩に関わらず、実力本位で人材を登用した。その結果がこの写真に如実に現れているのである。名前が分かっているだけでも、河瀬秀治(宮津藩)、渡辺洪基(越前藩)、宇都宮三郎(尾張藩)、山高信離(幕臣)、前島密(幕臣)、楠本正隆(大村藩)、大鳥圭介(幕臣)、田中芳男(飯田藩)、鈴木利亨(幕臣)、武田昌次(幕臣)、多田元吉(幕臣)、近藤真琴(鳥羽藩)、伊藤圭介(尾張藩)らが確認されている。
この中に名前の上った武田昌次という人物。実は維新前は塚原重五郎昌義といった。塚原は幕臣で、外国貿易取調掛を始め、外国奉行支配取調役など外交面で活躍し、万延元年(1860)、三十六歳のとき、遣米使節団にも選ばれた。鳥羽伏見の戦いにあっては副総督として全軍を率い大敗した。小栗忠順とともに親仏強硬派であったために、免職・登営禁止処分を受けた。塚原は国内にいたたまれなくなったためか、一時米国に亡命し、このあと塚原昌義の消息は絶えてしまう。
樋口先生の調査によれば、塚原は日本に戻って、武田昌次と姓名を変え、内務官僚として維新政府に仕えたという。あたかも二度の人生を歩んだかのような人物である。時間があればもっと武田昌次のことを聞きたかったが、既に所定の時間を過ぎていた。
展示されている史料は、当博物館が所蔵していた三千点に加え、今般新たに大久保家から三千五百点が寄贈され、その中から選りすぐった約百六十点である。これを見れば、幕末から明治初期にかけて、あらゆる場面に大久保利通が関与していたことが見てとれるであろう。
ついでにいえば、展示されている流麗な崩し文字は、ほとんど解読できなかった。やはり入門書を一冊読んだだけではまだまだ十分ではないということである。
当日、十三時から二時間にわたって、当館研究部歴史研究系教授樋口雄彦氏の講演があった。少しは早めに会場に行ったつもりであったが、入場無料ということもあり、ほとんど空席がないほどの盛況であった。
樋口先生のご専門は日本近代史であるが、どちらかというと興味の対象は幕府・幕臣である。たとえば、私がかつて読んだ本の中に、樋口先生の「第十六代徳川家達」(祥伝社新書)がある。壇上の先生は、随分お若く見えたが、あとで調べたら私と同い年であった。
本日の講演は大久保の書簡を通じて、勝海舟と薩摩藩の関係、内務省への旧幕臣の登用などにフォーカスしたものであった。講演の中で何度も、
「大久保利通その人に関心のある方には期待外れかもしれませんが…」
と申し訳なさそうにおっしゃっていたが、個人的には非常に興味深い内容で、あっという間の二時間であった。
冒頭紹介された史料はいずれも薩摩藩士折田要蔵が大久保に宛てた書簡である。一点目の史料の日付は元治元年(1864)三月となっている。この時期、薩摩藩と幕府の関係は、表向きは敵対しておらず、島津久光の建議により、幕府と共同で摂海防備のために砲台の築造が実行に移されている時期であった。折田要蔵は摂海砲台築造掛となってその実現に尽力していた。
私はあまりこの折田要蔵(維新後は年秀)という人物のことは知らなかったが、当日配布されたコピーに拠れば、当時薩摩藩の内情を探るために渋沢栄一(一橋家家来)が折田の門人となっていたそうである。渋沢は折田について「さまでの兵学者でもない。大言を吐くことが上手で、その上弁舌が巧みであることから、完全な築城学者と見做されていた。さまで非凡の人才と思われぬ。西郷隆盛とは時々文通することもあるが、その言が十分に信ぜられようとは思われぬ。外面の形容ほどには実力のない人」と、辛辣な評を与えている。折田は、明治三年(1870)に官を辞した後、京都で鉄砲商などを営み、明治六年(1873)には湊川神社の神官となった。講演で紹介された元治元年(1864)五月二十二日付の書簡では、幕府閣老に対して、摂海における防備の強化とともに楠公社の建設を献策したことを自慢気に報じている。この時節、楠正成を顕彰する神社を開くことは幕府の神経を逆なでするもので、政治的には意味を持つものであるが、維新後創建された湊川神社にさほど政治的価値はない。その宮司に就くことができて本人は本望だったかもしれないが、渋沢が評したようにさまでの人材ではなかったらしい。
樋口先生が紹介した慶応四年(1868)九月十八日付の脱走旧幕臣についての密偵の報告や大久保利通による「敬天愛人」の書(現存せず。やや眉唾)の話も面白かったが、一番興味を引いたのが、最後に紹介された第一回内国博覧会の集合写真であった。今回の「大久保利通とその時代」のパンフレットにも用いられたこの写真は、内務卿大久保利通を中心に、大勢の内務官僚や博覧会の審査官、或は地方官で埋め尽くされている。樋口先生によれば、この中で薩摩藩出身者は松方正義のみという。大久保は出身藩に関わらず、実力本位で人材を登用した。その結果がこの写真に如実に現れているのである。名前が分かっているだけでも、河瀬秀治(宮津藩)、渡辺洪基(越前藩)、宇都宮三郎(尾張藩)、山高信離(幕臣)、前島密(幕臣)、楠本正隆(大村藩)、大鳥圭介(幕臣)、田中芳男(飯田藩)、鈴木利亨(幕臣)、武田昌次(幕臣)、多田元吉(幕臣)、近藤真琴(鳥羽藩)、伊藤圭介(尾張藩)らが確認されている。
この中に名前の上った武田昌次という人物。実は維新前は塚原重五郎昌義といった。塚原は幕臣で、外国貿易取調掛を始め、外国奉行支配取調役など外交面で活躍し、万延元年(1860)、三十六歳のとき、遣米使節団にも選ばれた。鳥羽伏見の戦いにあっては副総督として全軍を率い大敗した。小栗忠順とともに親仏強硬派であったために、免職・登営禁止処分を受けた。塚原は国内にいたたまれなくなったためか、一時米国に亡命し、このあと塚原昌義の消息は絶えてしまう。
樋口先生の調査によれば、塚原は日本に戻って、武田昌次と姓名を変え、内務官僚として維新政府に仕えたという。あたかも二度の人生を歩んだかのような人物である。時間があればもっと武田昌次のことを聞きたかったが、既に所定の時間を過ぎていた。
私も先日行って参りました。
さすが”国立”と名のつく博物館が開催する
企画展の資料の充実ぶりに大変満足しました。
特に、王政復古クーデター前日の書簡と
パリ滞在中の薩摩出身者の集合写真に感銘を受けました。
(上記写真の村田新八の写真は本当に素晴らしいです)
大久保さんは革命家と実務家の両方の顔を
持っている事を改めて認識し、常に幕末明治史の
最重要人物であった事を実感しました。
西郷贔屓の世間の中でこの企画展は非常に
意義のあるものだと思った次第です。
これから寒くなりますね、ご自愛ください。
今後も本ブログ楽しく拝見させてもらいます。
御無沙汰しております。コメント有り難うございます。
遠方でしたが、一見の価値のある企画展でした。
王政復古のクーデター前日の書簡というのは、岩倉具視が大久保に宛てたものですね。クーデター前日の緊張感がびんびん伝わってくる一品です。
引き続きよろしくお願いします。