史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

揖斐川 Ⅱ

2017年09月24日 | 岐阜県
(長源寺)


天籟棚橋先生之墓

 前回見逃した棚橋衝平(天籟)の墓を訪ねた。本堂裏手の山裾の、棚橋家の墓域にある。写真にある赤と白のちょうちんは、この辺りの風習らしく、お盆に墓参りをした証拠である。

(竹中医院)
 竹中医院の横に揖斐陣屋跡石碑がある。揖斐陣屋は、江戸期を通じて旗本岡田将監家が代官を務め、明治維新まで続いた。現在、陣屋跡は揖斐小学校や宅地、農地となっており、遺構らしきものは見当たらない。
 天狗党を迎えた揖斐代官は一戦を交えることを覚悟したが、棚橋衝平(天籟)が仲介を買って出て、揖斐の街を戦火から救った。


史蹟揖斐陣屋趾

(揖斐川歴史民俗資料館)
 揖斐川町の町役所から一キロメートルほど北上すると、健康広場という施設があり、サッカー場やプール、体育館などを備える広大な設備となっている。私が訪れた日も、少年サッカー大会の真最中で、たくさんの家族連れが集まっていた。健康広場に隣接して揖斐川歴史民俗資料館が建っているが、こちらは訪れる人も少なく、閑散としていた。その駐車場に棚橋天籟の顕彰碑が建てられている。


揖斐川歴史民俗資料館

 この顕彰碑には、棚橋天籟が元治元年(1864)の天狗党接近に際して一泊の便を与える代わりに戦火を交えることなく通過させたことや、慶応四年(1868)、岩倉鎮撫使が江戸に向かう途中、揖斐陣屋の議論を勤王に統一し、鎮撫使に陣屋兵を参加させたことが記述されている。さらに明治四年(1871)、時の太政大臣三条実美の援助を受けて、北方村西平の荒地を開拓して茶畑を開拓したこと、明治十四年(1881)には大野池田郡長に就任し、明治二十三年(1890)には文部大臣森有礼の要請により、岐阜尋常師範学校の初代校長となったこと、明治四十年(1907)、天籟私塾を開設したことなどが詳述されている。


棚橋天籟翁顕彰碑

(大興寺)
 大興寺に近藤勇を斬首したことで知られる横倉喜三次の墓がある。


大興寺


横倉政忠(喜三次)墓

 横倉喜三次は、文政七年(1824)、旗本岡田家の臣横倉政能の嫡子として美濃国大野郡揖斐に生まれた。天保五年(1834)、父病死により十一歳で家督を相続。長じて吉田久兵衛に剣術を学んだ。天保十一年(1840)、十七歳の時、江戸勤番。神田小川町の小野派一刀流、酒井家に入門した。天保十四年(1843)、帰郷し、弘化二年(1845)、同門の梅田棒太郎光太に入門。剣術以外に柔術、砲術を学び、旗本岡田家の武術指南役となった。神道無念流は皆伝。慶応四年(1868)二月、美濃大垣に到着した東山道軍先鋒総督岩倉具定に勤王を誓った岡田家は家老柴山理太郎以下四十三名を従軍させることを決し、喜三次はその副隊長として従軍した。同年四月、板橋で近藤勇を斬首。明治二十七年(1894)、七十一歳で没。

(深坂陣屋跡)
 揖斐川町谷汲深坂集落に深坂陣屋跡がある。僅かに往時の石垣が残されているのみであるが、陣屋門が近くの円立寺に移築保存されている。
 深坂陣屋は、大垣藩主戸田氏の分家深坂戸田氏が治めた。幕末、この家から嘉永六年(1853)、ペリー来航時に浦賀奉行を務め、応接した戸田氏栄(うじよし)が出た。


深坂陣屋跡

(円立寺)
 円立寺は深坂戸田氏の菩提寺で、六代氏栄に至る領主の位牌が祀られている。氏栄はペリーとの接見の後、安政元年(1854)には西丸留守居番、同四年(1857)に大阪町奉行に抜擢され、順調に栄進したが、安政五年(1858)、任地大阪で病没した。年六十。


円立寺


旧陣屋門
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