史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「長崎製鉄所」 楠本寿一著 中公新書

2022年07月30日 | 書評

長崎市飽の浦の三菱重工長崎造船所の飽の浦門の前に「長崎製鉄所」と刻まれた石碑がある。その横に長崎国際観光コンベンション協会「長崎さるく」が付した説明板が添えられている。

「安政二年(1855)海軍伝習所が開設されると、蒸気船の修理を行う施設も必要となった。そこで安政四年(1857) 、飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手され、機関士官ハルデス以下の指導のもと整備が進められた。敷地内には鍛冶場、鋳物場、工作場などの諸施設が建てられ、工作機関類の動力には蒸気機関が用いられた。万延元年(1860)に上棟式が行われ、その時、長崎製鉄所と改称された。文久元年(1861)落成。維新後は官営となり、長崎造船所などいくつかの改称を経て、明治二十年(1887) 、三菱社に払い下げられ、翌年、三菱造船所(現・三菱重工㈱長崎造船所の前身)と改称された。」

たったこれだけの記述であるが、長崎市生まれで、三菱長崎造船所に入社し、そこで造船所の社史編纂にも関わった筆者は、並々ならぬ執念で一つひとつの史実を確認していく。

たとえば、先ほどの「長崎さるく」の解説にあった「安政四年(1857) 、飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手」という記載について、それまで会社でまとめた所史や工場案内ではいずれも安政三年(1856)起工とするものが多く、巷間の資料でもこれを引用したものが多かったという。

筆者は日本側の史料にとどまらずオランダの史料まで渉猟し、数ページを割いて長崎製錬所の起工の経緯を明らかにする。詳細の事情は不詳ながら、なかなか前向きに進捗せず、漸く安政四年(1857)の十月十日、起工の運びとなった。「長崎さるく」の解説は、本書の検討結果を踏まえたものになっているのである。

一方、長崎製鉄所の呼称については、当初は長崎鎔鉄所と呼ばれていたが、万延元年(1860)に挙行された上棟式を機に製鉄所と改称されたというのが、「通説」となっているという。「長崎さるく」の記述はまさにその通説を採用している。筆者は、改称の時期について長崎奉行所文書、長崎代官所御用留、志賀御用留などの記述を網羅・比較し、その結果、「万延元年(1860)十二月の上棟式を機に改称云々の件は、奉行、代官、そして庄屋三者の文書を見ても、既にそれ以前から製鉄所と呼称している事実にもとづき、これは明らかにフィクション」と断定している。筆者の執念に脱帽である。

この本も新橋駅前の古本市で、わずか二百二十円で入手したものである。極めてコスパの高い買い物であった。

 

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