史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「峠 最後のサムライ」 司馬遼太郎原作 小泉堯史監督・脚本

2022年07月30日 | 映画評

司馬遼太郎原作の長編小説「峠」が映画化された。滅多に映画を観ない私であるが、これは見逃すわけにいかない。封切りから一週間が経った週末、嫁さんと一緒に映画館に向かった。

映画館に入ると、私たちを含めても観客は十人もいない。いかにオールスター・キャストで、しかも原作が司馬遼太郎のベストセラーであっても、時代劇では観客は集まらないという現実を如実に表している。

小説「峠」の前半は、河井継之助が藩内で存在感を高め家老に昇り詰める様子を描く。高梁藩の山田方谷に学び、藩政改革に乗り出す。全巻の半分はその経緯を描くものである。

ところが、流石に二時間という制約のある映画で小説と同じように若き日の継之助の姿を丁寧に触れている時間はない。いきなり二条城を舞台とした大政奉還のシーンから始まる。そこからは小千谷会談、北越戦争、そして継之助の死まで一気呵成である。

客観的にみれば、官軍が会津に迫るあの情勢下で、長岡藩が会津藩を説いて官軍との間を調停するなどということが現実的に受け入れられただろうか。結果的に一藩を戦争に追い込み、多くの藩士が命を落とし、城下は焼き尽くされた。結果から見ても、彼のとった方針が正しかったとは到底いえない。今も長岡では継之助のことを恨んでいる人も多いという。政治的な批判は置いて、司馬遼太郎が描きたかったのは、政治家ではなく、一人のサムライの姿である。

おそらくこの映画を製作した監督も、原作を読んで継之助の最期に震えるほど感動したに違いない。かくいう私もその一人である。

映画のエンディングは、自らのからだを焼き尽くであろう火炎を眺めつつ死を迎える継之助の姿である。ラスト・シーンは決まっていて、そこから逆算して必要なシーンを積み上げていったというのがこの映画の構成である。

小説「峠」を読むと、継之助の最期のシーンを読むたびに涙が止まらない。これが映像化されたら、さぞかし感動的だろう。ひょっとしたら、もともと涙もろい私は、腰が立たないほど泣いてしまうのではないか、良い年をしたオジサンが映画館で泣き崩れてその場から立てないことになったら、これはちょっと恥ずかしい。

そのことが心配であったが、予想に反してそれほどの感動はなかった。横に嫁さんがいて、あまりみっともない姿をさらすわけにいかない、という自制が働いたのかもしれない。確かに映画のラスト・シーンは原作を忠実に再現していたが、それでも原作以上に継之助のかっこよさ、男らしさを表現はしきれていなかった。残念ながら原作を上回ることはできなかった。改めて小説「峠」の凄さを認識することになった。

 

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