史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

花巻

2022年04月09日 | 岩手県

 花巻といえば、メジャーリーガー菊池雄星や大谷翔平を輩出した花巻東高校で有名である(ただし、二人とも岩手県出身ではあるが、花巻の出身ではない)。地方の高校から現役のメジャーリーガーが二人も出ているというのは、奇跡と呼んで良いだろう。来てみれば実感できることだが、ここに立ってみてもスーパースターを生んだ街とは到底思えない。どこにでもある静かな地方都市である。

 

(石鳥谷町江曽)

 江曽の一里塚は、盛岡藩領内の奥州道中の一部路線の変更に伴い、明暦四年(1658)頃に築造されたものといわれる。現在は東側の一基だけが残っている。この塚は、東西径九メートル、南北径十メートル、高さ三メートル弱というもので、隣には明治天皇の行幸を記念した石碑もある。

 

江曽一理塚

 

明治天皇江曾御小休所

 

(瑞興寺)

 「明治維新人名辞典」によれば、坂本町の瑞興寺に島忠之の墓があると載っていたので、瑞光寺墓地を歩いた。島家の墓は複数見つかったのだが、忠之の墓を特定することはできなかった。

 

瑞興寺

 

 島忠之(ただゆき)は、文政七年(1824)の生まれ。壮年の頃、江戸に遊学。芳野金陵、東条一堂につき経学を修め、また諸国の志士とも交わった。奥羽列藩同盟に反対し、京都の藩邸を脱し、長州藩邸にかくれ桂小五郎を通じて藩主南部利剛に異志なきを訴えた。明治元年(1868)十月、盛岡藩帰順開城にあたっては、城中御用掛として収納藩政に尽くした。明治二年(1869)七月、民部省史生、八月監督司大令史、明治三年(1870)、には庶務司少佑となった。さらに明治四年(1871)二月、山形県大属、その後茨城県九等出仕。また愛媛県に転じたが、明治十五年(1882)、退官して郷里に隠棲した。明治三十四年(1901)、年七十八歳にて没。

 

(花北地区コミュニティ交流センター)

 

明治天皇御聖蹟

 

 明治九年(1876)、明治天皇東北巡幸の際、四日町に宿泊したことを記念した聖蹟碑である。

 

花巻城下町発祥の地

四日町・一日市町

 

 花巻市は、花巻城の築城とともに四日町を中心に町が開かれることになり、周辺の村々から住民が呼び集められた。現在、市役所のある辺りが花巻の中心街であるが、往時は四日町、一日市町が城下町の中心であったことを示す石碑である。

 

(昌歓寺)

 

昌歓寺

 

佐藤昌蔵墓

 

 佐藤昌蔵は、天保四年(1833)の生まれ。花巻出身の盛岡藩士である花巻の松岡円平について修学。十四~五歳のときには、既に師の代講を務めた。慶應四年(1868)の奥羽列藩同盟の結成に当たっては、同盟の不可を主張して、勤王を唱えた。善後策として東次郎が起用されると、抜擢されて城中勤番の士に挙げられた。戊辰戦争では盛岡藩奮武隊隊長。明治二年(1869)、盛岡藩権少参事兼公用人。明治四年(1871)、廃藩置県により盛岡県が置かれると、盛岡県権典事に任用された。明治十四年(1881)、東西磐井郡長、明治十八年(1885)からは茨城県庁に転じたが、明治二十二年(1889)、退官して郷里に戻った。明治二十三年(1890)、国会が開設されると初代の衆議院議員に選出された。以後、十年にわたって衆議院議員として尽力した。大正四年(1915)、年八十三で没。

 

 

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