史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

毛呂山

2009年12月13日 | 埼玉県
(権田直助誕生地)


贈正五位権田直助翁誕生地遺蹟

 権田直助は、文化六年(1809)毛呂本郷に生まれた。生家権田家は、代々この地で医師を業としていた。勉学のため頻繁に江戸と往復する傍ら、名越舎という家塾を開いて郷土の子弟を教育した。江戸では幕府の侍医野間広春院に師事して医学を学ぶと同時に、神田駿河台の安積艮斎の私塾で漢学を修めた。直助は、古医道の研究に熱心な余り、治療を怠り家業も衰微して家族を苦境に陥らせる始末であった。文久二年(1862)直助は、家業を門人に任せて上洛し、京都市内でも名越舎という塾を開いた。ここで諸藩の志士と交わり、国事に奔走した。しかし、八一八の政変で朝廷が公武合体派の手中に帰すると、直助も帰郷せざるを得なくなった。慶応三年(1867)薩摩藩からの檄に応じて、家業を擲って薩邸に入る。このとき刈田穂積という変名を用いている。直助は、薩摩藩邸が焼き打ちされる直前に薩邸を脱出し、その後は鎮撫使に従って四国、中国まで遠征している。
 維新後は、相模の大山阿夫利神社の祠官となり没するまで大山に住んだ。明治十二年(1879)、権大教正、以降、皇典講究所教授、神道事務局顧問、大教正を歴任するなど、神道界、教育界で重きを成した。明治二十年(1887)七十九歳にて死去。

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8 コメント

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Unknown (斉藤勢吾)
2010-08-06 14:11:30
伊勢原市歴史解説アドバイザーをしています。
権田直助について調べています。直助は、当地ではあまり知られていません。
直助が江戸遊学に向かった時の道筋、江戸での遊学生活、野間広春院の居所、平田篤胤の居所等について知りたいが調査方法が分かりません。
また、直助が「個人の病より、国の病」と言わしめるのに影響を与えた書物もしくは人の名等も知りたい。
これらに関することで何かお分かりでしたら、教えて下さい。
毛呂山町の郷土博物館にも問い合わせようかと思っています。
HP「維新史」は素晴らしい。尊敬します。
現在の私のブログも覗いてみてください。http://saiseigo1.blogspot.com/
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Unknown (植村)
2010-08-07 11:57:54
斉藤様
コメント有り難うございます。
ブログも拝見しました。
権田直助のことは、「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)と「幕末維新埼玉人物列伝」(さきたま出版会)で調べた程度で、当方も詳細は分かりません。
「幕末維新埼玉人物列伝」には、江戸遊学のことなど触れていますので、一読されては如何でしょうか。野間広春院も登場していますが、居所までは記載ありません。
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Unknown (斉藤勢吾)
2011-02-10 21:43:07
ご回答ありがとうございます。
気がつかずに、済みませんでした。
直助が「国文句読考」と言う、日本では最初の句読点の本を刊行しています。明治20年、亡くなった年、伊勢原の大山から発信されています。
一度、HPを覗いて下さい。
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Unknown (斉藤勢吾)
2013-06-08 21:00:01
ご無沙汰いたしております。
このHPに質問を投稿したお蔭で、昨日、東京の郷土史家の青木さんと言う方から連絡があり、野間広春院の居所が分かりました。
ありがとうございました。
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Unknown (植村)
2013-06-09 09:30:01
斉藤様

ご連絡有り難うございます。私自身は何もしておりませんが、少しお役に立てたようで嬉しく思います。
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Unknown (斉藤勢吾)
2013-06-09 10:40:21
植村さんへ
小生の6月8日のコメントの内、メールのやり取り部分を削除願いたいのですが当方からは削除できないようです。
すみませんが植村さん方で削除願いたい。
よろしくお願いいたします。

斉藤勢吾
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Unknown (植村)
2013-06-09 20:16:12
斉藤様

ご連絡いただきましたとおり、一部削除しました。
ご確認ください。
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Unknown (斉藤勢吾)
2013-06-09 21:22:17
ありがとうございます。
お手を煩わしてすみませんでした。
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