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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「島燃ゆ 隠岐騒動」 松本侑子著 光文社文庫

2017年05月27日 | 書評
慶応四年(1868)の隠岐騒動を題材とした小説である。ゴールデンウィークに隠岐の島(島後)に渡り、帰りのフェリーを待つ間、西郷港の売店でこの本を見つけた(帰宅してから、いつも行っている東京駅近くの書店で見たら、普通に売っていた)。
江戸からも京都からも遠く離れたこの島で、ちょうど官軍が江戸城総攻撃を実行に移そうという緊迫した政情の折、一足先に封建政府が倒され、自治政権が成立した。この事変は必ずしも世に知られていない。武家ではなく、庄屋や神官らが中心になって起こしたこの無血革命のことは、もう少し知られても良い。
隠岐騒動の経緯はざっと次のとおりである。
隠岐出身の儒者中沼了三によって十津川郷に開設された「文武館」と同名の学校を隠岐の島にも開きたいと、尊王志向の強い庄屋や神官が集まり、松江藩の派遣した郡代山郡宇右衛門に願い出たが却下された。そこで有志らは幕府に直訴するために島を脱して京都に向かおうとするが、そこで長州藩士につかまり、王政復古が成ったことを聞かされる。長州藩士の示唆により、彼らは島に戻って、郡代を追放する算段を練った。同じ頃、山陰道鎮撫総督西園寺公望が隠岐の庄屋に宛てた文書を、山郡が開封したという事実が判明し、彼らの怒りは爆発した。慶應四年(1868)三月、隠岐の住民およそ三千人が西郷の陣屋に押し寄せ、山郡を追放した。この時、島民は米や味噌を山郡に送り、一滴の血も流さずこのクーデターを実現させた。以降、住民らによる合議制の自治政府が成立した。同年五月、松江藩が武力で陣屋を奪還したものの、長州藩、鳥取藩が介入し、たちどころに松江藩は撤退を余儀なくされ、再び住民による自治が回復した。しかし、同年十一月、隠岐が鳥取藩の管理下に置かれることになると、住民による自治は終焉した。パリコミューンにならって隠岐コミューンとも呼ばれる。
本書を読むと、この騒動が徳川幕府から明治新政府が確立するまでの「隙間」の時期に偶発的に起こったことが理解できる。また、この時期に攘夷を旗印とした自治政権が樹立したのも、中央での政情が全く見えない地方だったという地理的な要因も見逃せない。積もり積もった松江藩に対する不平不満が背景にあるが、正確に中央の情報が隠岐に届いていれば、リスクを背負って郡代追放に動かなくても、もう少しの辛抱で藩の支配から解放される運命にはあったのである。
騒動の経緯はほぼこのとおりであるが、その間の関係者の心理描写については、小説家の想像力を待たなくてはいけない。筆者は、隠岐の島に渡り、関係者の末裔にまで取材し、綿密な取材に基づいて小説を構築している。心理描写は、もちろん筆者の想像の所産ではあるが、読んでいて違和感はない。
この小説は、平成二十四年(2012)に「小説宝石」に連載されたものに、十八章以下を「書き下ろし」たものである。十八章以下は、言わば後日譚であるが、ここに筆者の取材の成果が集約されている。
恐らく筆者は、今も島に残る井上甃助(香彦)や中西毅男(はたお)らの墓を詣でたのであろう。今回の隠岐の島旅行で、隠岐騒動の関係史蹟はひと通り回ったつもりであったが、本書を読んでまだ取りこぼしがあったことを痛感した。でも、隠岐の島は非常に遠い。次回の隠岐渡島はいつになるやら…。

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