史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

熊本 坪井

2014年02月01日 | 熊本県
(熊本中央高校)


横井小楠先生生誕の地

 熊本中央高校周辺には、史跡が集中している。まず熊本中央高校の敷地が横井小楠生誕の地である。横井小楠が生まれたのは、文化六年(1801)のことである。

(佐々友房生誕地)


佐々友房生誕地

 横井小楠生誕の地碑のある向い側(壺渓塾側)が佐々友房生誕の地である。石碑らしいものはないが、熊本市の史跡案内板が建てられている。
 佐々友房がこの地に生まれたのは安政元年(1854)のことであった。明治十年(1877)の西南戦争では池辺吉十郎とともに熊本隊を率いて薩軍に加わったため、戦後十年の懲役に処された。明治十二年(1879)保釈。さらに翌明治十三年(1880)に自宅謹慎中に赦免された。出獄後、私立学校の設立に奔走し、同心学舎(のちの濟々黌)を開設した。明治二十三年(1890)以降、熊本国権党を率いて国政に参加し、衆議員議員として活躍した。

(夏目漱石記念館)


夏目漱石記念館

 熊本中央高校のある内坪井町内に、夏目漱石の旧宅が保存されている。夏目漱石は、明治二十九年(1896)に第五高等学校(現・熊本大学)の教員として熊本に赴任した。漱石の熊本での生活は四年三か月であったが、その間に六回も転居を繰り返した。転居には、それぞれ「家賃が高かった」とか理由はあるようだが、客観的に見て多すぎる。おかげで熊本市内には夏目漱石旧宅跡が複数残されることになった。坪井の夏目漱石記念館は、そのうち五番目の家で、漱石一家がこの家で暮らしたのは一年八ヵ月と最長となった。敷地内には寺田寅彦が泊まった馬丁小屋なども再建展示されている。

(宮部鼎蔵先生邸)


贈正四位宮部鼎蔵先生邸址

 同じ内坪井町内に宮部鼎蔵旧居跡石碑がある。宮部鼎蔵は、文政三年(1820)に生まれた。父は七瀧村(現・御船町)の医師であった。嘉永三年(1850)、叔父丈左衛門の跡を継いで藩の兵法師範役に就いた。この場所は宮部鼎蔵が兵法師範役時代の旧居跡で、交流のあった吉田松陰もこの地を訪ねている。

(必由館高校)


必由館高校

 熊本市立必由館高校は、この場所に米田家の家塾必由堂があったことから名付けられた。正門前に必由堂跡の石碑が建てられている。
 米田(こめだ)家は藤孝時代からの細川家の重臣の家系である。幕末の肥後藩の家老を務めた長岡監物は米田家の出身である。父米田是睦の長男として文化十年(1813)に生まれ、初め源三郎、監物と称した。のちに長岡是容(かれかた)と改めた。横井小楠と並ぶ熊本実学党を代表する人物であったが、徳川斉昭が蟄居を命じられると罷免された。安政二年(1855)には長年の盟友横井小楠と絶交し、以来実学党坪井派(上・中士)と小楠の沼山津派(下士・郷士)とは和解することはなかった。斉昭のほか、藤田東湖、佐久間象山、吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通らと交わり、幕末の肥後藩を代表する存在であった。安政六年(1859)四十七歳で死去。


井上毅先生誕生地碑

 必由館高校の正門を入るとすぐ左手に井上毅先生誕生地碑が立っている。井上毅は、米田家の家臣飯田五兵衛の三男に生まれ、必由堂に学んだ。さらに藩校時習館に学び、慶応三年(1867)江戸昌平黌に留学した。明治三年(1870)司法省に入ったのちは、フランス、ドイツに留学して主に法制度を学んだ。明治七年(1874)の台湾出兵の後、大久保利通の清国との談判にも随行し、岩倉具視や伊藤博文の厚い信頼を受けた。帝国憲法や教育勅語の起草にあたったことは有名である。法制局長官を経て、明治二十三年(1890)以降は枢密院顧問官、文部大臣にも就任した。明治二十八年(1895)五十三歳にて世を去った。


必由堂趾


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