史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

福岡 城南

2016年06月18日 | 福岡県
(天福寺)
 かつて福岡の中心部にあった天福寺であるが、現在城南区南片江という、博多から十キロメートル近く離れた場所に移転している。山門の前に加藤司書の歌碑が建てられている。刻まれている歌は、西公園の歌碑と同じものである。


天福寺


加藤司書歌碑

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福岡 南

2016年06月18日 | 福岡県
(平尾霊園)
 平尾霊園には番号の付いた区画のほかに「特別区」と名付けられた一角がある。そこが玄洋社墓地である。そこに福岡の変の慰霊碑や玄洋社社員の箱田六輔や松浦愚らの墓碑がある。


福岡の変慰霊碑「魂の碑」

 「魂の碑」は、明治十二年(1879)、頭山満らの手により、福岡の変の殉難者を慰霊するために、建立された石碑である。


福岡の変碑

 福岡の士族が蹶起すると、萩の乱に連座して獄に繋がれていた頭山満、箱田六輔、進藤喜平太ら、堅志社の若者たちに激しい拷問が加えられた。堅志社のほとんどが武部の門下生であったことから、これを知った武部小四郎は自ら名乗り出た。これにより、頭山満らは九死に一生を得た。
 福岡の変の首謀者、越智彦四郎と武部小四郎とは明治十年(1877)五月、処刑された。福岡の変による戦死者は五十四人、刑死五人、獄死四十三人、懲役囚は四百二十二人を数え、その多くが二十歳前後の若者だったという。


清水正次郎の碑

 清水正次郎は玄洋社の社員というわけではない。一介の鉄道員である。
 明治四十四年(1911)十一月十日、明治天皇が筑紫野で開かれた陸軍大演習統監のために西下。門司桟橋で休息した。その際、御召し列車を入れ替える最中に脱線する事故が起きた。このため当初、五分という予定であった明治天皇の休憩時間が一時間に及び、沿道の予定が全て変更となってしまった。鹿児島本線門司駅の構内主任清水正次郎は、鉄道員総裁に宛てて「お召し列車を脱線した責任をとる」という遺書を残して、翌日下関の幡生トンネル付近で列車に身を投じて自殺した。三十三歳。
 玄洋社系の日刊紙「九州日報」の社説で「清水氏の自殺は国民の精華なり」と絶賛され、顕彰碑建立計画を発表した。このことを当時の玄洋社社長進藤喜平太が知り、顕彰碑建立を買って出た。
 この顕彰碑は、戦後博多の東公園に破棄されかけていたものを、昭和五十二年(1977)、筥崎宮宮司田村克喜らの発起によって現在地に再建したものである。

(興宗寺)


興宗寺

 興宗寺(こうしゅうじ)は、別に穴観音と呼ばれる。この付近一帯には多くの古墳があったが、福岡城築城の際に石垣の石として抜かれ、古墳は壊滅したといわれる。興宗寺境内に残された古墳は横穴式の石室で、巨大な岩を用いた市内屈指の巨石墳である。石室内に阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩が彫られていることから、いつしか穴観音と呼ばれるようになった。
 明治十年(1877)三月十九日、「西郷発つ」の報を受けて武部小四郎や越智彦四郎らが密かに集まり、この穴の中で謀議を交わした。

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福岡 早良

2016年06月18日 | 福岡県
(修猷館高校)


修猷館高校

 県立修猷館高校は、言うまでもなく藩校修猷館(東学問所)の流れを汲む名門高校である。藩校修猷館が廃校となったのは、明治四年(1871)のことであるが、明治十八年(1885)、金子堅太郎の建言を容れて県立学校として修猷館が再興された。以来、政財界や官界・法曹界等、多分野に多くの人材を供給している。

(紅葉八幡宮)


紅葉八幡宮

 明治十年(1877)薩摩の西郷隆盛が起ったとの知らせに九州諸藩は色めき立った。福岡でも当初薩軍蹶起と同時に立ちあがる予定であったが、征討総督有栖川宮熾仁親王が福岡入りし、征討本営を置いたことや、旧藩主黒田長知の説得工作などによって延期されていた。結局、福岡の武部小四郎や越智彦四郎らが立ちあがったのは、三月二十八日。午前一時、越智隊が早良郡宮の森に集結し、同時刻に武部隊が住吉神社の境内に集合した。また越智隊別動隊の村上彦十の小隊は、紅葉八幡に集合した。越智隊、武部隊合わせて四百人の予定であったが、実際には越智隊は百余人、武部隊に至っては十五六人しか集まらなかった。それでも越智隊は二方向から福岡城を攻撃したが、鎮台兵の防御は固く、多数の犠牲者を出して潰走した。結局、福岡から薩軍に合流できたのは、平岡浩太郎(のちに玄洋社初代社長)一人だけであった。福岡の変という。


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福岡 博多 Ⅱ

2016年06月18日 | 福岡県
(聖福寺)


聖福寺

 やはり福岡市観光案内ガイドの調査によれば、聖福寺に斎藤五六郎の墓があることが確認できたということであったが、実際に聖福寺に行ってみると墓地には立ち入りができなかった。諦めきれずに本堂の角に立って塀越しに墓地を見渡してみると、偶然にも斎藤五六郎の墓を発見することができた。望遠レンズにて撮影。執念の一枚である。


禅機院心應一腫居士(斉藤五六郎墓)

 斎藤五六郎は文政十二年(1829)、江戸福岡藩邸に生まれた。父は福岡藩士斎藤儀一郎定得。諱は定広。安政年間より加藤司書と協力して藩論の一致に努めた。元治元年(1864)の禁門の変に際して、福岡藩は禁裏守護のために加藤を長として派兵することになり、五六郎は大組頭助役としてこれに従い、加藤の補佐役に勤めた。第一次征長の役により派兵は中止となったが、征長軍の解兵のことに尽力し、また五卿保護の任に尽くした。のち大目付に進んだが、時に勤王・佐幕の二派に分れて争い、五六郎は尊王の藩論確立に努めたが、佐幕派の台頭により、翌慶応元年(1865)六月、職を追われて屛居させられ、博多天福寺にて自刃を命じられた。年三十七。

 聖福寺には、ほかに玄洋社の平岡浩太郎もあるが、残念ながらこちらは発見に至らず。

(節信院)
 節信院には加藤司書の墓がある。


節信院


見性院殿悟道宗心居士
(加藤司書の墓)


 加藤氏はもと摂津伊丹の豪族で、荒木村重によって幽閉されていた黒田孝高(如水)を救出した加藤重徳を祖とし、代々福岡藩の中老を務めた。司書は天保十一年(1840)に家督二千八百石を継いだ。嘉永六年(1853)、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した際、福岡藩では司書に命じて藩士五百とともに長崎を警備した。元治元年(1864)の第一次長州征討の際には、広島の征長総督本陣に出向いて内戦の不可を訴え、長州征討の中止に尽くした。戦後、家老に昇進したが、司書の率いる改革派と保守派の対立が深まることになった。政権を把握した改革は、藩政の拡張と他藩との連携強化を進めたが、幕府・朝廷の意向を重視する藩主長溥の怒りを買う結果になり、慶應元年(1865)家老を罷免された。さらに幕府が長州再征を決したことから、保守派が復権し、改革派、尊攘派は弾圧を受けた(乙丑の変)。司書は同年十月二十五日、天福寺にて自刃。


加藤大三郎墓

 加藤司書の墓の近くには、司書の子で玄洋社員として活動した加藤大三郎の墓もある。

(妙楽寺)


妙楽寺


鷹取養巴墓

 鷹取養巴は文政十年(1827)の生まれ。父は福岡藩医鷹取秀綽。安政五年(1858)、勤王僧月照が京都から福岡に逃れてくると、同志と謀って月照を薩摩に遁れさせた。万延元年(1860)、藩主黒田長溥の参勤交代に際し、尊王派とこの阻止を建言したため、幽囚された。文久三年(1863)、許されて、浅香市作らとともに周旋方に任じられ、隣藩を歴訪し、その見聞に基いてしばしば建白を行った。元治元年(1864)、第一次征長に際して藩命により長州に使して恭順を勧め、また福岡藩内屯営の薩摩、肥前、筑後の諸藩兵の解兵を説き、ついで五卿の大宰府移転を斡旋した。慶応元年(1865)の乙丑の獄に連座。月形洗蔵らとともに枡木屋の獄において斬られた。年三十九。


伊丹真一郎墓

 伊丹真一郎は天保四年(1833)、福岡藩士伊丹三十郎重遠の長男に生まれた。諱は重本、字は子信、雅号として信堂とも称した。万延元年(1860)、家督を継いで、藩政改革と尊王攘夷を唱えたため、文久元年(1861)五月、隠退、閉門を命じられた。文久三年(1863)、許されて、元治元年(1864)幕府が征長の軍を起すと、同志と解兵のために斡旋し、長州に赴いて意思の疎通に努め、五卿の西渡、薩長和解、高杉晋作の筑前亡命等に尽力した。ことに五卿を大宰府に迎えるに当たり、その中心的役割を果たし、以後五卿の警衛として大宰府に駐留した。ときに喜多岡勇平らが陰に幕府に通ずるを疑い、翌慶応元年(1865)六月、同志とともに暗殺した。同月、藩論が一変し禁固に処せられ、九月下獄、ついで死刑に処された。年三十三。


八代家累代之墓(八代主馬墓)

 八代主馬は天保三年(1832)の生まれ。親族吉田岩見利尚の養子となったため、一時吉田主馬とも称した。諱は利征。家督を継いで中老に班し、用人に進んだ。万延元年(1860)、藩主の東上に扈従し、文久元年(1861)、世子に従い、帰国以来国事に奔走した。文久三年(1863)、遠賀郡在住の命を受け、東郡領端守衛を委任された。芦屋、山鹿、若松に砲台を築き、また農閑期に装丁の者を選抜し郷兵を組織し、外国軍艦の下関砲撃時には長州藩を援助した。慶応元年(1865)、己丑の獄に連座して用人を免ぜられたが、四月には長州再征の役に復職。京都出向を命じられた。時に中村到とともに藩論の回復を謀ったが、再び佐幕派に排斥されて、帰藩の命を受け、放役の上、逼塞謹慎に処された。慶応三年(1867)十月、許されて前職に復し、慶応四年(1868)三月、参政に進んだ。明治二年(1869)六月、版籍奉還ののち執政となり、福岡藩政を主導した。このとき初めて八代を姓とした。明治三年(1870)正月、権大参事、明治四年(1871)の廃藩に当たり士族授産の法を講じ、区長に任じられた。しかし、明治六年(1873)県下に竹槍一揆が起こると、責任を負って切腹した。年四十二。


大野氏累代之墓(大野仁平墓)

 大野家の墓に大野仁平が合葬されているそうである。戊辰戦争では博徒や神官、僧兵、農民から成る勇敢隊を結成して、奥羽を転戦した。維新後は玄洋社に加わり、平岡浩太郎の炭鉱業をサポートした。


森勤作墓

 森勤作は天保二年(1831)の生まれ。諱は通寧。字は子静。初め耕之助、のちに主一、升などと称した。父は福岡藩士吉田兵太夫生秀。福岡藩士森専蔵通知の養子となった。一時江戸納戸役として江戸藩邸に住み、水戸藩の尊王志士と交わり、藤田東湖と海防、軍備のことを論じた。元治元年(1864)、第一次征長に際し、藩命により諸藩征長軍の隊長に解兵を説いてまわった。慶応元年(1865)、対馬藩で勤王・佐幕の内訌が起こると、藩命により尾崎惣左衛門、尾上四郎左衛門らとともに対馬に渡り、朝廷に尽力した。その頃、福岡藩内の藩論が一変し、本国の同志はみな罪を蒙り、勤作もまた召還の命を受けた。薩長の同志は帰国に反対したが、勤作はこれを斥けて帰藩し、捕えられて処刑された。年三十五。

(天福寺跡)


天福寺跡碑

 祇園の第一生命ビルの前に天福寺跡を示す石碑が置かれている。石碑には、この場所で切腹して果てた加藤司書の歌と辞世も刻まれている。

 君が為 盡す赤心今よりは
 尚いやまさる 武士の一念

(万行寺)


万行寺

 福岡旅行の二日目、夕刻に万行寺を訪れたら、正門が閉ざされ中に入ることができなかった。翌朝、改めて訪問して入ることができた。墓地入口付近に石蔵卯平の墓がある。


贈従五位石蔵卯平忠明之墓

 石蔵卯平は天保七年(1836)、屋号を石蔵屋という対馬藩御用を務める博多鰯町の商家に生まれた。尊王の志士と交わり、対馬、福岡両藩士のために金銭を供給し、あるいは自分の家に尊王の志士を庇ったり、また志士の依頼を受けて各地の情況を偵察した。対馬藩内訌では平田一族救出に尽くすところ大であった。慶応元年(1865)の夏、福岡尊王藩士月形洗蔵の書を携えて京都に上り、西郷隆盛の返書を得て帰る途中、形勢一変、月形らの刑死を聞き、下関にとどまって奇兵隊に入った。以後、高杉晋作に従い、野村望東尼に姫島脱出にも協力した。慶応四年(1868)、王政復古が宣言されたが、未だ諸藩の向背定まらず、ために九州の同志糾合に活躍中、天草で暗殺された。年三十三。

(立花寺)
 福岡空港に到着してレンタカーを手に入れると、最初の訪問地は立花寺の白垣亦吉の墓である。接取寺の墓地の一角にあるが、墓地のブロック塀の外側にある。


御地蔵様 白垣亦吉の墓

 白垣亦吉は、西南戦争に出役し、植木町辺田野山にて戦死。二十四歳と伝わる。

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福岡 博多 Ⅰ

2016年06月18日 | 福岡県
(明光寺)


明光寺

 黒田家がこの地に城を築き、城下町を整備すると、城下町の名を黒田家ゆかりの備前国福岡に因んで福岡と名付けた。古から商人の街として発展し、博多という地名が定着していた。明治二十二年(1889)、市制発足のとき市名決定を巡って博多と福岡が対立。博多の町人は「博多独立論」までとなえて博多市を主張したが、結局福岡市に決定した。これを不服とした博多側は、翌年の市会に市名改称を建議したが、票決で同点となり、議長の意見で変更は葬られた。同年十二月、九州鉄道が開通したが、駅名は博多となり、全国でも珍しい市名と駅名の異なる都市となった。

 明光寺本堂裏に野村望東尼の墓がある。野村望東尼は、二十四歳のとき、和歌の同門で福岡藩士の野村貞貫と結婚。五十四歳のときに夫に先立たれて受戒剃髪した、望東尼が本格的に活動を始めたのは、寡婦となって以降である。月照や平野國臣ら、行き場を失った多くの志士が望東尼の平尾山荘に匿われたといわれる。


向陵院招月望東禅尼(野村望東尼墓)

(福岡藩精錬所跡)


福岡藩精錬所跡

 博多の中洲といえば、福岡市の中でももっとも繁華な場所である。私がここを訪ねたのは午前五時半であったが、前夜から飲み続けた若者が何人も所在なげにたむろして、どんよりとした空気が流れていた。松居壱番館というビルの前に、柱に挟まれるようにして「福岡藩精錬所跡」という石碑が立っている。
 福岡藩精錬所は、弘化四年(1847)、藩主黒田長溥の命により創設された理化学研究所であり、長崎で習得させた西洋の科学技術をここで実験させ、あるいは製造させた。

(グリーンビル)
 福岡宿泊の初日のホテルは、人参畑塾跡の直ぐ近くだったので、夕食の後歩いて撮影に行ってきた。


人参畑塾趾(興志塾跡)

 興志塾は高場乱が主催した私塾である。この門下から、頭山満、来島恒喜、平岡浩太郎、箱田六輔、進藤喜平太ら玄洋社の中枢となった人物を多数輩出している。

(東公園)
 東公園には元寇に因んで日蓮上人像と亀山上皇の二体の銅像がある。亀山上皇銅像台座の「敵国降伏」の文字は有栖川熾仁親王の筆である。日露戦争前後の緊迫した空気の所産であろう。
 亀山上皇は、十三世紀後半の元(モンゴル)軍の襲来の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願した。このことを記念し、当時の福岡県警務部長(今でいう警察署長)だった湯地丈雄等の十七年にわたる尽力により明治三十七年(1904)に建立された。高さ六メートルという堂々たる銅像である。


亀山上皇像


亀山上皇銅像台座文字 有栖川熾仁親王筆

(崇福寺)


崇福寺

 崇福寺は、仁治元年(1210)に大宰府横岳に建立されたという古刹で、その後、天正十四年(1586)、兵火により焼失した。慶長五年(1600)、黒田長政により現在地に移され、黒田家の菩提寺となった。本堂裏の黒田家墓地には黒田如水、長政を始め黒田家一門の墓がある。また、一般墓地には玄洋社の頭山満、来島恒喜らの墓がある。


黒田家墓所

 黒田家墓所は現在福岡市経済観光文化局文化財保護課が管轄しており、開門時間は毎週土・日曜日の午前十時から午後四時まで。その時間帯であれば自由に見学が可能である。見学して立ち去ろうとすると、そこを警備していた方からアンケート回答を求められた。特に注文はないが、できれば駐車場を整備してもらいたいものである。
 ここには藩祖黒田如水、初代長政のほか、彼らの子女、夫人の墓や四代から七代および九代と十代藩主の墓が並ぶ。なお、二代、三代および八代藩主の墓は市内東長寺にあり、十一代以降の墓は東京青山霊園にある。


玄洋社墓地

 玄洋社は、かつて西郷隆盛の挙兵に呼応し、薩軍に投じた平岡浩太郎が、戦後投獄された市ヶ谷の監獄で知り合った古松簡二の感化を受け、出獄後頭山満らとともに結成した向陽社がその前身である。向陽社は、明治十二年(1879)、玄洋社と改称した。玄洋社は自由民権活動と不平等条約改正に挺身するとともに、中国の孫文、インドのラシュ・ビハリ・ボース、フィリピンのアルテミオ・リカルテら、アジアの国々の独立革命運動に命を賭した志士たちを支援した。


頭山満墓

 頭山満は、明治から昭和初期にかけて活躍した右翼の巨頭。玄洋社を首催した。


高場先生之墓(高場乱の墓)

 高場乱(おさむ)は天保二年(1831)、福岡城下の眼科医高場正山の娘に生まれた。幼少期より男児として育てられ、十一歳にして藩から帯刀を許された。漢学をはじめとする各種学問に明るく、眼科医院を継いだ後、幕末には若者の教育に力を入れた。維新後、四十歳のとき、興志塾を開いた。福岡の変を主導した武部小四郎や越智彦四郎も興志塾で学んだ門下生であった。高場乱も関与を疑われて尋問を受けたが、潔白を主張して釈放された。教え子の一人、来島恒喜の死の報を聞いて倒れ、その二年後の明治二十一年(1888)、世を去った。


来島恒喜之墓

 来島恒喜は、安政六年(1859)、福岡城下薬院薬研町に生まれた。少年時代から青年時代にかけて、高場乱の主宰する興志塾(通称人参畑塾)に学んだ。「慷慨義を好み、忠勇君に尽くすの精神、私を忘れて公に奉じ、身を捨てて国に殉ずる」という思想と精神は、興志塾での影響が大きいといわれる。明治十九年(1886)には同志の的野半助とともに小笠原諸島に渡り、そこで朝鮮からの亡命者金玉均と知り合った。来島は朝鮮の独立と近代化への支援を約束した。明治二十二年(1889)、大隈重信外相のすすめる条約改正案は外国人判事の任用を認めたものであったため、玄洋社はじめとする世論の反対を集めた。その年の十月十八日、愛宕神社に参拝した来島は、霞が関の外務省正門を出たところで大隈の乗る馬車に爆裂弾を投ずると、その場で自決した。大隈重信は、右足を切断する重傷を負ったものの、一命はとりとめた。この事件により外国人判事の任用は見送られることになった。

(百年蔵)


百年蔵

 百年蔵の歴史は、福岡藩主黒田家の播州播磨時代の御用商人であった石蔵屋まで遡るという。関ヶ原戦後、黒田家が筑前に移されると、石蔵屋もこれに従って博多に入った。「百年蔵」のホームページによれば、幕末には、福岡藩の加藤司書、長州藩の高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛との密約の場として奥座敷を提供したといわれる。

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