史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

神戸 Ⅱ

2016年06月03日 | 兵庫県
(鎮守稲荷神社)


鎮守稲荷神社

 鎮守稲荷の前にある石灯篭は、文政七年(1824)、高田屋嘉兵衛が海上安全を願って献上したものである。このとき既に嘉兵衛は淡路に引退していたが、自分を育ててくれた兵庫の地を忘れることはなかった。嘉兵衛はその三年後の文政十年(1827)、五十九歳で死去している。
 鎮守稲荷神社の社殿にはビリケンさんが安置されている。何故、ここにビリケンさんがいるのだろうか。


高田屋嘉兵衛の献上灯籠

(高田屋嘉兵衛本店の地)
 寛政二年(1790)、淡路島から移住した高田屋嘉兵衛は、引退する文政五年(1822)までこの西出町に本店を置いていた。かつてこの場所は「佐比江の入り江」が深く入り込んだ浜辺であったが、江戸前期に兵庫津の出町として町場が形成された。北前船などの廻船が盛んに兵庫津に奇港するようになると、「佐比江の入り江」は船入り江として整備され、西出町は東出町とともに問屋・船大工などの町として活況を呈した。かつて船入り江をのぞんで高田屋の本店・倉庫などが立ち並んでいた。


高田屋嘉兵衛 本店の地

(竹尾稲荷神社)


竹尾稲荷神社


高田屋嘉兵衛顕彰碑

 高田屋嘉兵衛本店跡地から道路をはさんで向い側に竹尾稲荷神社があり、その境内に高田屋嘉兵衛顕彰碑が建てられている。この顕彰碑は、昭和二十八年(1953)入江小学校門脇に建立されたもので、平成五年(1993)、現在地に移された。


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須磨

2016年06月03日 | 兵庫県
(一の谷公園)


安徳帝内裡趾傳説地

 山陽須磨駅を降りて、目の前の国道を西に進む。住宅街に至る急な坂を昇ると、小さな公園に出会う。一の谷公園と呼ばれるこの公園は、安徳帝内裏跡といわれる場所で、ここに皇女和宮像がある。


皇女和宮像

 この和宮像は、兵庫県議などを務めた中村寅吉氏が「日本女性の伝統ある美徳保持」を願って和宮像を造り、昭和初期に神戸の三つの高等女学校に寄贈したという記録が残る。一の谷公園の像は、その中の一つとみられるが、戦後神戸市の山中に放置されているのが見つかり、平成十二年(2000)に現在地に移された。

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淀屋橋 Ⅳ

2016年06月03日 | 大阪府
(美々卯本店別館)


除痘館発祥の地碑

 美々卯本店別館の前に除痘館発祥の地碑と記された小さな石碑が建てられている。江戸時代もっとも恐れられていた疫病の一つ天然痘が、ジェンナーの発明した牛痘をもって防ぐことができるということが伝わると、嘉永二年(1849)、緒方洪庵は大阪で種痘を行った。それがこの石碑のある西隣の地である。洪庵はこの種痘所を除痘館と名付け、この場所を中心として同志とともに種痘を拡大していった。万延元年(1860)、除痘館は適塾の南側に移転した。

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土佐堀 Ⅱ

2016年06月03日 | 大阪府
(高野寺)


高野寺

 元治元年(1864)の禁門の変に敗れた長州藩の大阪蔵屋敷は幕府に没収された。毛利家がこの地を買い戻したのは、明治元年(1868)二月のことであった。明治二年(1869)、毛利家はこの地を高野山に寄進した。高野山では、三蔵院という塔頭を蔵屋敷跡に移し、以降「長州大師」と呼ばれることとなった。現在「長州大師」は高野寺として存続しており、本堂の前には「三蔵院境内」と刻まれた石碑も立っている。本堂奥の仏壇には長州藩の歴代藩主の位牌が安置されているそうである。


三蔵院境内

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