史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

姫島

2016年06月24日 | 福岡県
(姫島)


市営渡船「ひめじま」

 糸島市姫島には、岐志漁港から船で渡らなければならない。片道わずか十六分であるから、文字通りあっという間のことであるが、それでも船に人並み外れて弱い私は、酔い止め薬を服用して万全を期した。
 福岡市内から岐志まで四十分ほどのドライブである。ゴールデンウィークの最中のことだし、予約もしていなかったので、ひょっとして渡船場には行列ができているのではないか。下手をしたら七時五十分の始発に乗れないのではないかと、港が近づくにつれて不安になってきた。

 着いてみると、待合室は鍵がかけられているし、乗客らしい姿は一人も見えない。本当に予定の時間に船が出るのか心配になるほどであった。出発の二十分ほど前になってポツポツと人が集まり始めた。乗客の大半は釣を目的とした人たちであった。


野村望東尼之旧趾


野邨望東尼之旧趾

 姫島は周囲四キロメートルに満たない小さな島で、人口は二百人程度。そのほとんどは島の南部に住んでいる。島に到着すると、早速目的地である野村望東尼が幽閉されていた御堂を目指す。港から七~八分も歩くと行き着く。


望東尼歌碑

 慶応元年(1865)十一月、いわゆる乙丑の変により野村望東尼は姫島に流罪となり、そこで牢に投じられた。既に六十の老境にあった望東尼は、強靭な精神力で苛酷な生活に耐えた。日々の心境を「姫島日記」に書き留め、その中に詠んだ歌が残されている。御堂の横に獄中歌が十三首紹介されているほか、石碑にその一つが刻まれている。

 すみそむる 人やの闇に燈火も
 なみの音いかに 聞きあかさまし


望東尼胸像

 翌慶応二年(1866)九月十六日、姫島に筑前藩士藤四郎ら数名が小舟で乗りつけ、牢を破って望東尼を連れ去った。高杉晋作の依頼を受けた彼らは、下関から船で救出したのであった。こうして望東尼の姫島における幽閉生活は十か月ほどで終焉を迎えた。同じく流刑地とされていた東京の新島などと比べると、比較的都市に近く、その気になれば脱出・救出も可能なロケーションであることは間違いない。


御堂


監禁中の野村望東尼

 望東尼が投じられていた牢が再現されている。狭い小屋の中には牢内で端坐する望東尼の姿が再現されている。

 写真を撮ったり、展示されている資料を見て過ごしても精々十分もここにいれば足りる。あとは島の中を散歩して、約一時間半後に島を出る船を待つ。今回の福岡~大分旅行において、日の出ている時間で唯一のんびりとした時間を過ごすことができた。


姫島の風景

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玄界島

2016年06月24日 | 福岡県

(玄界島)
 福岡市内から玄界島へは、博多港第二ターミナルから定期船で片道三十五分である(片道八百六十円)。午前七時十分発の船に乗るために六時過ぎに博多港に着いたが、まだ切符売り場が開いていなかった。乗船場にいたオジサンに確認したところ、売り場が開くのは六時半だそうで、それまで付近をウロウロして時間をつぶすしかない。オジサンは
「玄界島には何もないから、向うでお昼を取るんだったらお弁当を持って行った方が良いよ。」
とアドバイスしてくれたが、もとより昼まで玄界島にいるつもりはない。



福岡ポートタワー


みどり丸

 船の乗客は十名前後であったが、いずれも釣が目的のようであった。左手に福岡ドームや福岡タワーなどを見ながら船に揺られていると、やがて玄界島南方の港に到着する。ここから徒歩五分。地蔵堂の近くにある「勤王志士の墓」に直行する。


贈正五位堀六郎墓・贈正五位斉田要七墓

 「勤王志士の墓」と呼ばれているのは、玄界島で処刑された堀六郎と斉田要七の墓である。

 堀六郎は天保五年(1834)、福岡藩士大野喜右衛門の子に生まれ、同藩士堀伊内の養子となった。変名として岡小六と名乗った。文久二年(1862)、職を辞して、翌年脱藩して長州に走り、奇兵隊に入隊した。ついで沢宣嘉の生野挙兵に参加したが、敗れて長州に逃れた。元治元年(1864)の長州藩兵東上に際し、六郎も真木和泉に従って上京し、禁門の変に敗れて真木とともに天王山に退いたが、その依頼により長州に戻った。同年十月、福岡の同志糾合のため、斉田要七、大神壱岐とともに帰藩したところを捕えられ、玄界島に流され、そこで処刑された。年三十三。
 斉田要七は天保十三年(1842)の生まれ。父は朝日村郷士平山孫七。福岡藩士斉田新九郎正一の養子となった。文久三年(1863)、藩命をもって京都福岡藩邸に祗候し、十月、同僚の西原守太郎と藩邸を脱して三田尻招賢閣に赴き、七卿を警護した。元治元年(1864)、招賢閣会議所の密旨を受け、藩の同志藤四郎、堀六郎らとともに入京、長州藩の河原町藩邸に潜匿した。同年七月の禁門の変において、忠勇隊に入り、鷹司邸外で戦ったが敗れ、周防に帰った。慶応元年(1865)十月、福岡藩同志糾合のため、大神壱岐、堀らと帰藩したところを捕えられ、玄界島に流され処刑された。年二十五。

 「勤王志士の墓」を見終わった私は、踵を返して港に戻った。玄界島滞在時間は十五分足らず。再び「みどり丸」に乗って福岡市内に戻った。

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