(大通寺)
大通寺
今中家累代墓(祐十郎・作兵衛の墓)
今中作兵衛は天保七年(1836)、福岡藩士今中仁左衛門守道の子に生まれた。祐十郎は実兄。文久三年(1863)の冬、脱藩して周防に赴き、三田尻滞在中の三条実美ら七卿に謁し、長州藩志士と交わったが、福岡藩庁より帰藩を命じられた。元治元年(1864)、藩命により月形洗蔵、早川勇、伊丹真一郎らとともに長州に入り、征長軍解兵と五卿西渡に努力した。このとき西郷隆盛とともに広島に赴いた。高杉晋作の筑前亡命にも意を注いだ。慶応元年(1865)、藩論が一変して乙丑の獄に連座。兄祐十郎とともに枡木屋の獄で処刑された。年三十。
兄祐十郎は天保六年(1835)の生まれ。ペリー来航後、藩政改革を海津幸一、森安平らとともに唱えた。弟今中作兵衛が脱藩して周防の七卿のもとに走ったが、祐十郎は藩地にとどまって尊王運動に従事した。慶応元年(1865)の乙丑の獄では、藩議に抵抗して尊王派の挽回を計ったが、成功せずして捕えられ、枡木屋の獄で処刑された。年三十一。
(浄満寺)
浄満寺
江上武要(栄之進)墓
江上栄之進は天保五年(1834)の生まれ。祖父は亀井南冥の高弟江上源蔵苓洲、父は福岡藩士江上善述。祖父は文学、父は射術を以って藩に仕えたが、栄之進は文武に通じ、同藩の志士万代十兵衛と特に親しかった。万延元年(1860)、浅香市作、中村円太らと脱藩して鹿児島に赴いた罪により、文久元年(1861)五月、姫島に流された。同年許されて家に帰り、元治元年(1864)には藩命により長州に赴き、三条実美に謁見した。帰藩後、藩論紛々として定まらず、兄の知行地である粕屋郡吉原村で密かに活動を続けたが、慶応元年(1865)再び幽閉され、同年九月、枡木屋の獄に下され、ついで獄中にて斬刑に処された。年三十二。
贈正五位佐座謙三郎之墓
佐座謙三郎は、天保十一年(1840)、福岡藩士佐座与平の長男に生まれた。幼少より月形深蔵・洗蔵父子に就いて学び、長じて藩の有志と交わり、尊王活動に奔走することになった。文久三年(1863)には西肥筑後の諸国を遊歴して同志の結合に尽力した。元治元年(1864)三月には福岡桝屋の獄に投じられていた中村円太を同志とともに救出し、長州へ逃走させた。このことが発覚し、佐幕派の忌むところとなり、慶應元年(1865)の乙丑の変において斬刑に処された。年二十六。
手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、佐座謙三郎の墓は、正福寺にあるとされている。ところが福岡市の観光案内ボランティアの調査では正福寺から「大正時代の市電開通時に南庄の檀家の土地へ、そこも区画整理で昭和四十二年から四十三年頃撤去され現在は存在せず」という回答で、佐座謙三郎の墓に出会うのは絶望的と思われたが、期せずして淨満寺の江上栄之進の墓の隣に残っていた。
正福寺
(福岡市早良区室見4)
亀井家の墓
亀井南冥は、寛保三年(1743)の生まれである。名は魯。通称は主水。字は道載。筑前の町医者の家に生まれ、大阪で永富独嘯庵に徂徠学を学び、のちに福岡藩の儒医となって徂徠学復興に尽力した。子の昭陽が亀門学を大成したといわれる。亀井家の墓地には昭陽や昭陽の子で画家として名を成した亀井少栞の墓もある。
(埴安神社)
埴安神社
金子堅太郎先生生誕地碑
金子堅太郎は、嘉永六年(1853)、福岡生まれ。ハーバード大学で法学を修め、明治十三年(1880)、元老院に出仕。各国憲法の調査に当たり、明治十八年(1885)から伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治とともに大日本帝国憲法、皇室典範、その他の憲法付属法典の起草に従事し、特に貴族院令・衆議員議員選挙法の立案を担当した。明治二十三年(1890))、初代貴族院書記官長、第三次・第四次伊藤内閣の農商務相、司法相を歴任。その間、明治三十三年(1900)の政友会結成に参画した。日露戦争中には渡米して、米国内の対日世論工作を担当した。明治三十九年(1906)、枢密院顧問官。昭和五年(1930)にはロンドン海軍軍縮条約問題では政府を批判し、天皇機関説問題が起こると、機関説を批判した。また、臨時帝室編集局総裁として「明治天皇御記」、維新史料編纂会総裁として「維新史」の編纂に尽力した。昭和十七年(1942)、八十九歳にて死去。
(円徳寺)
円徳寺
贈従五位吉田正實墓
吉田太郎は天保二年(1831)の生まれ。父は福岡藩士吉田勘内直寛。太郎は通称で、諱は正實。元治元年(1864)三月、松田五六郎(中原出羽守の変名)と謀り、老臣牧市内を斬殺して脱藩。姓名を河辺又太郎と変じ、下関を経て三田尻に赴き、七卿を護衛した。同年七月、真木和泉の忠勇隊に属して禁門の変に戦い、敗れて天王山に退き、ついで三田尻に帰って忠勇隊に復した。のち五卿の西渡、薩長の融和に尽力し、五卿西渡後は藩の大田太郎とともに薩摩に入り、同地で撃剣師範となった。のち病床に伏し、西郷隆盛の勧めにしたがって長崎で療養したが、慶応三年(1867)六月、同地で病死した。年三十七。
(甘棠館跡)
西学問所跡 甘棠館
天明七年(1784)に福岡藩が設けた藩校西学問所、別称甘棠館の跡である。徂徠古学派の亀井南冥が館長となり、学生の自主的な学習を尊重する校風の下、江上苓州、原古処、廣瀬淡窓といった人材が育成された。しかし、幕府の学問統制や藩内儒者間の主導権争いの結果、寛政四年(1792)、南冥は罷免され、さらに寛政十年(1798)、学舎が火災焼失したことから廃止された。
大通寺
今中家累代墓(祐十郎・作兵衛の墓)
今中作兵衛は天保七年(1836)、福岡藩士今中仁左衛門守道の子に生まれた。祐十郎は実兄。文久三年(1863)の冬、脱藩して周防に赴き、三田尻滞在中の三条実美ら七卿に謁し、長州藩志士と交わったが、福岡藩庁より帰藩を命じられた。元治元年(1864)、藩命により月形洗蔵、早川勇、伊丹真一郎らとともに長州に入り、征長軍解兵と五卿西渡に努力した。このとき西郷隆盛とともに広島に赴いた。高杉晋作の筑前亡命にも意を注いだ。慶応元年(1865)、藩論が一変して乙丑の獄に連座。兄祐十郎とともに枡木屋の獄で処刑された。年三十。
兄祐十郎は天保六年(1835)の生まれ。ペリー来航後、藩政改革を海津幸一、森安平らとともに唱えた。弟今中作兵衛が脱藩して周防の七卿のもとに走ったが、祐十郎は藩地にとどまって尊王運動に従事した。慶応元年(1865)の乙丑の獄では、藩議に抵抗して尊王派の挽回を計ったが、成功せずして捕えられ、枡木屋の獄で処刑された。年三十一。
(浄満寺)
浄満寺
江上武要(栄之進)墓
江上栄之進は天保五年(1834)の生まれ。祖父は亀井南冥の高弟江上源蔵苓洲、父は福岡藩士江上善述。祖父は文学、父は射術を以って藩に仕えたが、栄之進は文武に通じ、同藩の志士万代十兵衛と特に親しかった。万延元年(1860)、浅香市作、中村円太らと脱藩して鹿児島に赴いた罪により、文久元年(1861)五月、姫島に流された。同年許されて家に帰り、元治元年(1864)には藩命により長州に赴き、三条実美に謁見した。帰藩後、藩論紛々として定まらず、兄の知行地である粕屋郡吉原村で密かに活動を続けたが、慶応元年(1865)再び幽閉され、同年九月、枡木屋の獄に下され、ついで獄中にて斬刑に処された。年三十二。
贈正五位佐座謙三郎之墓
佐座謙三郎は、天保十一年(1840)、福岡藩士佐座与平の長男に生まれた。幼少より月形深蔵・洗蔵父子に就いて学び、長じて藩の有志と交わり、尊王活動に奔走することになった。文久三年(1863)には西肥筑後の諸国を遊歴して同志の結合に尽力した。元治元年(1864)三月には福岡桝屋の獄に投じられていた中村円太を同志とともに救出し、長州へ逃走させた。このことが発覚し、佐幕派の忌むところとなり、慶應元年(1865)の乙丑の変において斬刑に処された。年二十六。
手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、佐座謙三郎の墓は、正福寺にあるとされている。ところが福岡市の観光案内ボランティアの調査では正福寺から「大正時代の市電開通時に南庄の檀家の土地へ、そこも区画整理で昭和四十二年から四十三年頃撤去され現在は存在せず」という回答で、佐座謙三郎の墓に出会うのは絶望的と思われたが、期せずして淨満寺の江上栄之進の墓の隣に残っていた。
正福寺
(福岡市早良区室見4)
亀井家の墓
亀井南冥は、寛保三年(1743)の生まれである。名は魯。通称は主水。字は道載。筑前の町医者の家に生まれ、大阪で永富独嘯庵に徂徠学を学び、のちに福岡藩の儒医となって徂徠学復興に尽力した。子の昭陽が亀門学を大成したといわれる。亀井家の墓地には昭陽や昭陽の子で画家として名を成した亀井少栞の墓もある。
(埴安神社)
埴安神社
金子堅太郎先生生誕地碑
金子堅太郎は、嘉永六年(1853)、福岡生まれ。ハーバード大学で法学を修め、明治十三年(1880)、元老院に出仕。各国憲法の調査に当たり、明治十八年(1885)から伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治とともに大日本帝国憲法、皇室典範、その他の憲法付属法典の起草に従事し、特に貴族院令・衆議員議員選挙法の立案を担当した。明治二十三年(1890))、初代貴族院書記官長、第三次・第四次伊藤内閣の農商務相、司法相を歴任。その間、明治三十三年(1900)の政友会結成に参画した。日露戦争中には渡米して、米国内の対日世論工作を担当した。明治三十九年(1906)、枢密院顧問官。昭和五年(1930)にはロンドン海軍軍縮条約問題では政府を批判し、天皇機関説問題が起こると、機関説を批判した。また、臨時帝室編集局総裁として「明治天皇御記」、維新史料編纂会総裁として「維新史」の編纂に尽力した。昭和十七年(1942)、八十九歳にて死去。
(円徳寺)
円徳寺
贈従五位吉田正實墓
吉田太郎は天保二年(1831)の生まれ。父は福岡藩士吉田勘内直寛。太郎は通称で、諱は正實。元治元年(1864)三月、松田五六郎(中原出羽守の変名)と謀り、老臣牧市内を斬殺して脱藩。姓名を河辺又太郎と変じ、下関を経て三田尻に赴き、七卿を護衛した。同年七月、真木和泉の忠勇隊に属して禁門の変に戦い、敗れて天王山に退き、ついで三田尻に帰って忠勇隊に復した。のち五卿の西渡、薩長の融和に尽力し、五卿西渡後は藩の大田太郎とともに薩摩に入り、同地で撃剣師範となった。のち病床に伏し、西郷隆盛の勧めにしたがって長崎で療養したが、慶応三年(1867)六月、同地で病死した。年三十七。
(甘棠館跡)
西学問所跡 甘棠館
天明七年(1784)に福岡藩が設けた藩校西学問所、別称甘棠館の跡である。徂徠古学派の亀井南冥が館長となり、学生の自主的な学習を尊重する校風の下、江上苓州、原古処、廣瀬淡窓といった人材が育成された。しかし、幕府の学問統制や藩内儒者間の主導権争いの結果、寛政四年(1792)、南冥は罷免され、さらに寛政十年(1798)、学舎が火災焼失したことから廃止された。