史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

福岡 中央 Ⅲ

2016年06月17日 | 福岡県
(大通寺)


大通寺


今中家累代墓(祐十郎・作兵衛の墓)

 今中作兵衛は天保七年(1836)、福岡藩士今中仁左衛門守道の子に生まれた。祐十郎は実兄。文久三年(1863)の冬、脱藩して周防に赴き、三田尻滞在中の三条実美ら七卿に謁し、長州藩志士と交わったが、福岡藩庁より帰藩を命じられた。元治元年(1864)、藩命により月形洗蔵、早川勇、伊丹真一郎らとともに長州に入り、征長軍解兵と五卿西渡に努力した。このとき西郷隆盛とともに広島に赴いた。高杉晋作の筑前亡命にも意を注いだ。慶応元年(1865)、藩論が一変して乙丑の獄に連座。兄祐十郎とともに枡木屋の獄で処刑された。年三十。
 兄祐十郎は天保六年(1835)の生まれ。ペリー来航後、藩政改革を海津幸一、森安平らとともに唱えた。弟今中作兵衛が脱藩して周防の七卿のもとに走ったが、祐十郎は藩地にとどまって尊王運動に従事した。慶応元年(1865)の乙丑の獄では、藩議に抵抗して尊王派の挽回を計ったが、成功せずして捕えられ、枡木屋の獄で処刑された。年三十一。

(浄満寺)


浄満寺


江上武要(栄之進)墓

 江上栄之進は天保五年(1834)の生まれ。祖父は亀井南冥の高弟江上源蔵苓洲、父は福岡藩士江上善述。祖父は文学、父は射術を以って藩に仕えたが、栄之進は文武に通じ、同藩の志士万代十兵衛と特に親しかった。万延元年(1860)、浅香市作、中村円太らと脱藩して鹿児島に赴いた罪により、文久元年(1861)五月、姫島に流された。同年許されて家に帰り、元治元年(1864)には藩命により長州に赴き、三条実美に謁見した。帰藩後、藩論紛々として定まらず、兄の知行地である粕屋郡吉原村で密かに活動を続けたが、慶応元年(1865)再び幽閉され、同年九月、枡木屋の獄に下され、ついで獄中にて斬刑に処された。年三十二。


贈正五位佐座謙三郎之墓

 佐座謙三郎は、天保十一年(1840)、福岡藩士佐座与平の長男に生まれた。幼少より月形深蔵・洗蔵父子に就いて学び、長じて藩の有志と交わり、尊王活動に奔走することになった。文久三年(1863)には西肥筑後の諸国を遊歴して同志の結合に尽力した。元治元年(1864)三月には福岡桝屋の獄に投じられていた中村円太を同志とともに救出し、長州へ逃走させた。このことが発覚し、佐幕派の忌むところとなり、慶應元年(1865)の乙丑の変において斬刑に処された。年二十六。
 手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、佐座謙三郎の墓は、正福寺にあるとされている。ところが福岡市の観光案内ボランティアの調査では正福寺から「大正時代の市電開通時に南庄の檀家の土地へ、そこも区画整理で昭和四十二年から四十三年頃撤去され現在は存在せず」という回答で、佐座謙三郎の墓に出会うのは絶望的と思われたが、期せずして淨満寺の江上栄之進の墓の隣に残っていた。


正福寺
(福岡市早良区室見4)


亀井家の墓

 亀井南冥は、寛保三年(1743)の生まれである。名は魯。通称は主水。字は道載。筑前の町医者の家に生まれ、大阪で永富独嘯庵に徂徠学を学び、のちに福岡藩の儒医となって徂徠学復興に尽力した。子の昭陽が亀門学を大成したといわれる。亀井家の墓地には昭陽や昭陽の子で画家として名を成した亀井少栞の墓もある。

(埴安神社)


埴安神社


金子堅太郎先生生誕地碑

 金子堅太郎は、嘉永六年(1853)、福岡生まれ。ハーバード大学で法学を修め、明治十三年(1880)、元老院に出仕。各国憲法の調査に当たり、明治十八年(1885)から伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治とともに大日本帝国憲法、皇室典範、その他の憲法付属法典の起草に従事し、特に貴族院令・衆議員議員選挙法の立案を担当した。明治二十三年(1890))、初代貴族院書記官長、第三次・第四次伊藤内閣の農商務相、司法相を歴任。その間、明治三十三年(1900)の政友会結成に参画した。日露戦争中には渡米して、米国内の対日世論工作を担当した。明治三十九年(1906)、枢密院顧問官。昭和五年(1930)にはロンドン海軍軍縮条約問題では政府を批判し、天皇機関説問題が起こると、機関説を批判した。また、臨時帝室編集局総裁として「明治天皇御記」、維新史料編纂会総裁として「維新史」の編纂に尽力した。昭和十七年(1942)、八十九歳にて死去。

(円徳寺)


円徳寺


贈従五位吉田正實墓

 吉田太郎は天保二年(1831)の生まれ。父は福岡藩士吉田勘内直寛。太郎は通称で、諱は正實。元治元年(1864)三月、松田五六郎(中原出羽守の変名)と謀り、老臣牧市内を斬殺して脱藩。姓名を河辺又太郎と変じ、下関を経て三田尻に赴き、七卿を護衛した。同年七月、真木和泉の忠勇隊に属して禁門の変に戦い、敗れて天王山に退き、ついで三田尻に帰って忠勇隊に復した。のち五卿の西渡、薩長の融和に尽力し、五卿西渡後は藩の大田太郎とともに薩摩に入り、同地で撃剣師範となった。のち病床に伏し、西郷隆盛の勧めにしたがって長崎で療養したが、慶応三年(1867)六月、同地で病死した。年三十七。

(甘棠館跡)


西学問所跡 甘棠館

 天明七年(1784)に福岡藩が設けた藩校西学問所、別称甘棠館の跡である。徂徠古学派の亀井南冥が館長となり、学生の自主的な学習を尊重する校風の下、江上苓州、原古処、廣瀬淡窓といった人材が育成された。しかし、幕府の学問統制や藩内儒者間の主導権争いの結果、寛政四年(1792)、南冥は罷免され、さらに寛政十年(1798)、学舎が火災焼失したことから廃止された。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福岡 中央 Ⅱ

2016年06月17日 | 福岡県
(東学問所藩校修猷館跡)
 福岡藩では、天明四年(1784)、藩の子弟教育のために二つの学問所を設けた。藩校東学問所(修猷館)と西学問所(甘棠館)である。そのうち一つの修悠館の跡が中央区赤坂一丁目にある。修猷館では、貝原益軒の流れを汲む竹田定良を館主に迎え、多くの人材を教育した。寛政十年(1798)西学問所が火災に遭って廃校となったため、その子弟をも収容し、その後は唯一の藩校として武芸なども教えた。


東学問所藩校修猷館跡

(福岡市西公園)
 西公園入口脇に平野國臣像がある。


平野國臣銅像

 平野國臣は文政十一年(1828)、福岡城下にて、福岡藩士平野吉三郎の二男に生まれた。一時、藩職を務めたが、安政二年(1855)、長崎出役時に異国船を目の当たりにして狂信的な日本主義者となり、半生を国事に捧げた。平野は同時に文人、国学者であり、総髪に烏帽子、直垂を着て、一昔前の太刀を佩いて町中を歩くなど、奇抜な格好を好んだほか、和歌や笛を嗜む風流人でもあった。尊王攘夷思想に傾倒して。安政五年(1858)脱藩し、京都で公卿や在京薩摩藩士と交流を深めるが、幕府の勤王家弾圧に危険を察し、筑後の真木和泉らと善後策を論じた。西郷隆盛が京都の勤王僧月照を連れて筑前から薩摩に入る際に、月照を庇護する役を担い、西郷らと南下。薩摩藩で追放されて筑前に戻り、危険を冒して再び上京した。万延元年(1860)より西国の尊攘派の結集を図るために、筑前、筑後、肥後、薩摩などを遊説して回り、倒幕計画を練った。寺田屋事変に連座して京都での挙兵に失敗し、福岡で獄に投じられた。ほどなく赦免されたが、尊王攘夷に対する平野の情熱は衰えることなく、文久三年(1863)、公卿澤宣嘉を擁して但馬生野で挙兵した。これが失敗すると捕らわれて京都六角獄舎に投獄された。元治元年(1864)、禁門の変の混乱のさなかに同志とともに斬首された。三十七歳。

 國臣の銅像の解説板には、國臣の漢詩の辞世が記されているが、私の知っている(自宅のトイレに飾っている)辞世と一文字異なっている。解説の横にさらに解説が加えられており、「従来、・・・成敗在天・・・とされてきたが、平成二十三年の冬、発見された平野家資料によると、「成否在天」と書き記されており、右解説板に追補する。」とある。マニアックな説明が嬉しい。


加藤司書公銅像(銅像の文字が消されている)

 戦前、ここには加藤司書の銅像があったが、戦時中の金属回収にため供出され、その後は台座だけが残った。台座には加藤司書の歌が刻まれており、現在は歌碑となっている。

 加藤司書は、天保元年(1830)、福岡藩士加藤徳裕の子として生まれ、幼くして家督を継ぎ、中老となった。その後、参政に任じられて藩の軍事を担当した。元治元年(1864)の禁門の変で隊長となったが、藩兵を率いて上洛のさなかに第一次長州征伐で派兵が中止となり、幕命に従って休戦に尽くした。翌年、三条実美ら五卿を大宰府に招くにあたり、藩論を尊王に導き、その保護に注力した。その直後に家老となり、福岡藩における勤王運動の中心人物として、薩摩藩の西郷隆盛と謀って征長軍の解兵を説くなど、その後の薩長連合の布石を打った。しかし、佐幕派が藩政を握るに至り、司書ら筑前勤王党に弾圧が加えられ、家老の職を退いた。慶応元年(1865)十月、藩主より切腹を命じられ、博多天福寺にて自刃した。


加藤司書歌碑

 皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は いかなる事をか務むべき
 只(ただ)身にもてる赤心(まごころ)を 君と親とに尽すまで


加藤司書銅像(古写真)

(正光寺)


正光寺

 この写真に写っている黒い軽自動車は、今回六日間使用したレンタカーである。福岡でも、柳川でも結構細い路地を通行することになったので、軽自動車で良かったとつくづく思う。


中村円太・用六 合祀墓

 中村円太は天保六年(1835)、福岡藩士中村兵助良英の二男に生まれた。長兄は中村用六。幼少より文学を好み、安政三年(1856)、藩校修猷館の訓導に補せられたが、安政六年(1859)、脱藩して江戸に赴き、菅兵輔と変名して大橋訥庵門下に入り、かつ天下の志士と交わりを結び、尊王攘夷論の影響を受けた。万延元年(1860)、藩地へ帰り、月形洗蔵らと藩主黒田長溥の参勤交代反対の建言を成したが受け入れられず、かえって脱藩の罪により謹慎を命じられようとしたので、その年の秋、同志浅香市作、江上栄之進らと薩摩へ逃れ、有志に謀った。のち帰藩して脱藩の罪を自訴して命を待った。翌文久元年(1861)五月、小呂島に流された。その後流刑を解かれ、文久三年(1863)七月、三たび脱藩して長州へ走り、野唯人と変名して京に出て、朝廷より学習院出仕を命じられた。同年八月十八日の政変後、下関に至り、ここで世子長知の東上を知り、それに扈従することを請うたが許されず、ひそかに尾行して入京したところを藩吏に捕えられ、福岡桝木屋の獄に投ぜられたが、福岡藩同志筑紫衛、森勤作、伊丹真一郎らに救出され、長州へ行き、ここで三条実美の執事となった。時に弟の恒次郎も兄と行動をともにして、長州に走った。翌元治元年(1864)、長州藩兵に従って東上したが、七月禁門の変に敗退し、長州藩内は俗論派の台頭するところとなり、よって高杉晋作の脱出を助けて博多に帰り、また月形洗蔵らと五卿を大宰府に迎えることに奔走した。しかし、脱藩の罪を犯した身の上に危難が及ぶことは必然であったので、同志は博多退去を忠告したが、円太はこれを聞かず、ついに同志の怒りを買い、奈良屋町報光寺にて自刃した。

 長兄中村用六は文政八年(1825)の生まれ。万延元年(1860)弟の円太とともに「封事一冊」を藩主へ建白したが、藩庁に容れられず、禁固に処された。文久元年(1860)、許されて鞍手郡に退居した。維新の後、慶応四年(1868)三月、登用されて民政、財政、軍事等に携わり、明治三年(1870)には功をもって采地百石を賜り、公用人を兼ね、ついで福岡藩権大参事に任じ、司計局副総督を摂し、廃藩置県により職を辞した。明治六年(1873)六月、福岡に竹槍一揆が起こり、用六は鎮撫総宰として鎮撫に当たった。一揆が県庁に乱入するに至って、責を負って切腹した。年四十九。

(吉祥寺)
 吉祥寺には尾崎惣左衛門の墓がある。「尾嵜家累代之墓」の合葬。


吉祥寺


尾嵜家累代之墓

 尾崎惣左衛門は、文化九年(1812)の生まれ。幼少より藩校で儒学を学び、のち国学も修め、月形洗蔵らの「漢勤王」に対して「和勤王」と称された。安政二年(1855)、到来奉行、買物奉行などの諸歴を経て座敷奉行に進み、このとき江戸に祗役して造営のことを掌った。文久二年(1862)頃から藩政に関して種々建白するところがあり、元治元年(1864)、富国強兵の策を上書して藩主から賞され、周旋方に抜擢され、また諸藩を往来して志士と交わった。慶応元年(1865)、五卿の大宰府移居にも月形洗蔵らと周旋し、また対馬藩の勤王、佐幕の内訌に際して、対馬に渡ってその調停に尽力した。対馬より帰藩後、藩論が一変し、同年の乙丑の獄でその子逸蔵とともに捕えられて下獄。福岡正香寺にて自刃を命じられた。逸蔵もその日遠島に処された。

(平野神社)
 中央区今川一丁目の平野國臣の生誕地には、平野神社が創建されている。平野國臣がこの地に生まれたのは文政十一年(1828)のことで、父は福岡藩足軽で平野能栄といった。


平野神社


平野國臣誕生之地


平野國臣君追慕碑


歌碑

 本殿の横には、平野國臣が詠んだ、恐らく最も有名な和歌が記されている。

 我胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば
 烟はうすし 桜島山

 平野神社の近く、鳥飼恵比寿神社がある。この社務所で平野國臣の冊子を無料配付しているので、是非立ち寄っていただきたい。


鳥飼恵比寿神社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福岡 中央 Ⅰ

2016年06月17日 | 福岡県
(安国寺)


安国寺


建部武彦墓

 建部武彦は文政三年(1820)、福岡藩士建部孫左衛門自福の長男に生まれた。諱は自強。大組頭で、加藤司書とともに福岡藩尊王派藩士の領袖と称された。元治元年(1864)第一次征長軍の解兵に際し、征長総督徳川慶勝の旨を受け、浅香市作、喜多岡勇平ら三人の副使を伴い、正使として山口に使し、藩主黒田長溥の意のあるところを伝えた。帰藩するや藩論一変、佐幕派の台頭するところとなり、同志衣非茂記らとともに加藤司書ら尊王派藩士の救出を試みたが成功せず、かえって私曲をもって国法を犯すとの罪により自宅に禁固され、衣非とともに安国寺にて自刃を命じられた。年四十五。


衣非茂記墓

 衣非(いび)茂記は、天保二年(1831)の生まれ。諱は直正。初め三郎右衛門と称した。小姓頭、無足頭、徒士頭等を経て、文久三年(1863)九月、藩世子黒田長知の上京に際し、大監察として随行した。長知の帰途の長州藩世子との会見の際にはその機密に与った。元治元年(1864)の征長軍解兵、五卿西渡の時には納戸役として大いに尽力した。翌慶応元年(1865)六月、藩論一変して佐幕となり乙丑の獄に連座、屛居を命ぜられた。ついで安国寺において自刃を命じられた。年三十五。一説には藩論転換の際、大宰府の五卿を擁して兵を挙げよと説き、これが藩主の廃立問題に発展したという。

 福岡市観光案内ガイドの調査結果によれば、「建部、衣斐の二名は寺の記録に残らず不明。五十年前に墓地を整理し、納骨堂に祀りなおしたが、現在の記録にない」という回答であったが、何故だかこの二人については簡単に墓石を見付けることができた。一方、喜多岡勇平については戒名「自得悟宗居士」とまで説明があり、今も安国寺にあるはずだが、いくら探しても見付けられなかった。残念…。

 喜多岡勇平は文政四年(1831)筑前那珂郡下警固村に生まれた。平野國臣や野村望東尼らと親交があり、文久二年(1862)四月、抜擢されて祐筆御用掛頭取となった。文久三年(1863)、福岡藩世子黒田長知の参府に随行し、帰途長州小郡での世子と長州藩主との会見実現に尽力した。ついで元治元年(1864)、第一次征長戦では建部武彦とともに加藤司書に従い、解兵、五卿西渡に努力した。慶応元年(1865)、福岡藩論の転換に際して、黒田播磨一葦、矢野相模幸賢と謀って浦上数馬ら佐幕派の排斥の建議書を提出したが容れられなかった。同年六月、尊王過激派の伊丹真一郎、藤四郎らによって暗殺された。年四十五。

(少林寺)


少林寺

 少林寺の入口付近に月形家の墓がある。


格葊月形先生墓(月形洗蔵墓)


漪嵐月形先生墓(月形深蔵墓)

 月形深蔵は寛政十年(1798)の生まれ。父は藩儒月形鶴窠。十七歳のとき、父に従い江戸に出て、古賀精里に学び、文政二年(1819)、藩地に帰り、学校加勢小役となり、累進して赤間駅町奉行に転じた。嘉永三年(1850)致仕し、子洗蔵に跡を譲って家居した。早くより勤王憂国の志あり、外国人が幕府に迫って通商貿易の許可を求めると、「辺防之策」を草して、海防の重要なることを説き、また尊王を唱えて藩風の振起を期し、洗蔵とともに密かに同志とかたらい、藩論の転換を試みたが果たせず、文久元年(1861)には父子とも藩政を乱すとの罪名を得て、秩禄を奪われて自宅に禁固され、孫の恒にわずかな扶持が与えられた。蟄居中病死。年六十五。

 月形洗蔵は文政十一年(1828)、藩儒月形深蔵の子に生まれた。嘉永三年(1850)、家督を継ぎ、馬廻組に加わり、のち大島の定番となったが、まもなくこれを辞した。万延元年(1860)五月、藩主黒田長溥の参勤交代に際し、尊王的立場から参勤交代の非を説き、さらに八月には藩政の腐敗を批判した建言を提出した。このため同年十一月捕えられ、翌文久元年(1861)、家禄没収の上、御笠郡古賀村に幽閉された。文久三年(1863)六月、加藤司書らの建言により帰宅するが、なお門外に出ることを禁止され、元治元年(1864)五月、ようやく罪を許されて家禄を復し、町方詮議掛および吟味役を命じられ、爾来薩長二藩の宥和に奔走し、長州征伐軍の解兵に努め、慶応元年(1865)正月、五卿が筑前大宰府に移る時、早川勇と下関に迎えてこれを案内した。しかし、幕府の長州再征が決定されると藩論は一変し、佐幕派の専制に帰した。加藤司書ら勤王派藩士とともに捕えられて処刑された。年三十八。


鷦窠月形先生墓

 月形深蔵、洗蔵父子の墓に並べられて、もう一つ月形姓の墓がある。深蔵の父で儒者の月形鷦窠のものである。

(西郷南洲翁隠家の跡)


西郷南洲翁隠家の跡

 福岡市中央区鶴舞一丁目の「兼平鮮魚」店の前に西郷南洲翁隠家の跡と記された石碑が建てられている。西郷が何時、どういう事情でここに逗留したのか詳細は不明。

(玄洋社跡)
 中央区舞鶴のNTTドコモ舞鶴ビルの前に「玄洋社跡」碑が建てられている。


玄洋社跡

(長円寺)
 今回、乙丑(いっちゅう)の変で犠牲となった二十四名の墓を訪ねるにあたって、それが現存しているのかどうか心許なかったので、福岡市の観光案内ボランティアに事前に確認のメールを送らせていただいた。先方では寺院に直接問い合わせていただいたりして、結果かなり明確になった。事前に回答をいただいた中で、長円寺の万代十兵衛の墓については「住職いわく 当寺の檀家にはいない」とのことであった。諦めきれずに長円寺の墓地を歩いてみたが、かなりの墓が新しいものになっており、古い墓石は相当数が整理されたものと思われる。


長円寺

 万代(ばんだい)十兵衛は天保六年(1835)、福岡藩士の家に生まれた。諱は常徳。武術に長じ、ことに射芸を好み、弓馬の故実を江上善述(江上栄之進の父)に受けた。文久三年(1863)、藩世子黒田長知に扈従して上京、禁闕を守護した。たまたま八月十八日の政変に遭い、森安平、尾崎惣左衛門らと長州藩に投じた。その後、帰藩し、森および喜多岡勇平と藩命をもって再び長州に使し、三条実美に謁見して知遇を得た。慶応元年(1865)正月、五卿が筑前大宰府に移るに際し、これを周旋したが、藩論一変により同年六月の乙丑の獄に連座して禁固に処され、福岡香正寺にて自刃を命じられた。

(香正寺)
 乙丑の変で万代十兵衛が自刃した香正寺には、大隈言道の墓がある。


香正寺


大隈言道墓

 大隈言道は寛政十年(1798)、福岡城下、薬院(現・福岡市中央区)にあった安学橋の側で商家を営んでいた大隈言朝の第四子に生まれた。文化二年(1805)に父言朝、翌三年に兄言愛が相次いで亡くなったため、わずか九歳で家業を継ぐことになった。一方、父が亡くなった頃には、福岡藩の歌人でもあった二川相近(ふたがわすけちか)について書や和歌などを学んだ。家業の傍ら三十五歳頃から従来とは異なる独自の歌風を模索するようになり、天保七年(1836)、家業を弟言則に譲り、歌道に専念した。この時、隠棲した今泉の居宅を「池萍堂」「ささのや」と名付けた。言道は多くの弟子をとり、福岡に限らず芦屋や飯塚、久留米、鳥栖、田代などに赴き、歌の指導にあたった。幕末の女流歌人として知られる野村望東尼も言道の門下である。天保十年(1839)には日田の咸宜園に入門し、廣瀬淡窓に師事した。わずか数か月のことであったが、淡窓とは後年も交流を深めた。安政四年(1857)、歌集を出版するために大阪に上った。大阪では歌集出版に奔走する一方で適塾の緒方洪庵とも交流をもった。大阪滞在の七年目の文久三年(1863)、歌集「草径集」を上梓。慶応三年(1867)、福岡に戻ったが、体調を崩し翌年七月に亡くなった。年七十一。

(今泉公園)


大隈言道翁舊宅

 大隈言道の隠棲地は、現在「ささのやの園」として整備され、歌碑や文学碑が建てられている。大隈言道翁舊宅碑は金子堅太郎の書。


大隈言道大人舊宅の碑

 大隈言道大人舊宅の碑は、昭和四年(1929)建立。佐々木信綱の書によるもの。佐々木信綱は、言道の「草径集」を古書屋で買い求め、その和歌にうたれ世に紹介したことで知られる。


淡窓詩碑

 言道と交流のあった廣瀬淡窓の漢詩を刻んだ碑である。やはり昭和四年(1929)建立。咸宜園の同門となる清浦奎吾の書。碑の下部は特に摩耗が激しく読み取れない文字も多い。


大隈言道文学碑


大隈言道歌碑

 植ゑおきて 旅には行かん櫻花
 帰らん時に咲きてあるやと

 なにをする暇もなしと年ごとに
 日の短さを侘ぶるころかな

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする