史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

墨田 Ⅳ

2016年06月04日 | 東京都
(言問小学校)


依田學海旧居跡

 久しぶりに言問小学校を訪ねると、成島柳北旧居跡の隣に依田學海旧居跡を示す説明板が置かれていた。
 依田學海(1834~1909)は佐倉藩士。藩校成徳書院で漢学を学び教授となった。後に江戸藩邸留守居役などの重職を務め、維新後は東京会議所の書記官、文部省勤務に出仕し、漢文教科書の編集に携わった。五十三歳で退官し、その後は創作や文芸評論に力を注いだ。森鴎外の師としても知られ、「ヰタ・セクスアリス」の中では文淵先生として登場している。向島の隅田川の土手を臨む辺り(現・言問小学校辺り)に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたと書かれている(実際は妾宅であったが、若い鴎外は気づかなかった)。鴎外十五歳のことであったが、その後も二人の交流は続き、鴎外のドイツ留学に際しては送別の漢詩を贈っている。學海が五十年以上にわたって書き続けた日記「學海目録」には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料となっている。

(山本や)


山本や

 毎年、花見のシーズンになると賑わいを見せる隅田川の桜は、享保二年(1717)、八代将軍吉宗の命によって植樹が始められたのがその起源である。その後も多くの人の尽力によって植樹が続けられ、完成を見たのは明治十六年(1883)のことである。
 有名な長命寺の桜もちは、銚子出身の山本新六によって創業された。隅田川の花見に多くの人が集まるのをみた新六が考案したのが名物「桜もち」である。
 「山本や」(墨田区向島5‐1‐14)は美貌の看板娘を輩出することで有名で、特に二代・金五郎の娘おとよは、田安家当主徳川慶頼(松平春嶽の異母弟)と時の筆頭老中阿部正弘が争ったというほどの美貌であった。結局、軍配は容姿端麗な阿部正弘にあがった。阿部正弘は三十九歳の若さで亡くなったため、二人の生活は僅か二年で終止符を打ったが、当時から阿部の急死については、「若い妾を寵愛するあまり腎虚になった」との噂があった。維新後おとよは「山本や」に戻り、大正の世まで生きた。
 その後も「山本や」の姉妹がオランダ公使と書記官に見初められてその愛妾となったとか、維新後もオランダ公使が「山本や」の看板娘に一目惚れし、三条実美や岩倉具視らが説得してようやく承諾したとか、「山本や」には美人伝説が残る(「江戸東京幕末維新グルメ」三澤敏博著 竹書房)。
 ちょっと期待して店内に入ったが、二人の老女がせわしなく働いているだけであった。


長命寺の桜もち
ウマイ!


 向島界隈には維新後、森鴎外や正岡子規ら多くの文人が居住した。彼らの旧居跡を巡れば楽しい散策ルートになるだろう。最近になって向島町おこしの会が各所に観光案内板を設置し、まさにそのルートが整備されることになった。


三浦乾也旧居・窯跡

 「山本や」の隣接地は三浦乾也の旧居・窯跡である。
 三浦乾也(けんや)は、若くして乾山焼六代を襲名。陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川破笠が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手掛けた、多芸多才の士であった。嘉永六年(1853)の黒船来航に驚愕した乾也は、幕府に造艦を建白し、雄藩にもその必要性を説き回った。これが認められ、安政元年(1854)、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴いた。安政三年(1856)、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、洋式軍艦「開成丸」を進水させ、一躍名を知られるところとなった。この功業により厚遇され、同藩には万延元年(1860)まで滞在した。この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。明治に入って居を東京に移し、近県で創窯、焼物の復興に努めた。明治八年(1875)、五十四歳のとき向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、創作に励んだ。

(ライオンズマンション言問)


榎本武揚旧居跡

 ライオンズマンション言問(墨田区向島5‐12‐14)辺りは、明治三十八年(1905)から明治四十一年(1908)、七十三歳で亡くなるまでの最晩年、榎本武揚が住んでいた旧居の跡である。墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。この間、墨堤植桜之碑や牛嶋小学校の篆額に揮毫している。


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北千住 Ⅱ

2016年06月04日 | 東京都
(千住宮元町)


千葉灸治院跡

 千住宮元町の交差点の北東側の駐車場にNPO法人千住普及協会の設置した説明書がある(足立区千住仲町1‐1)。
 説明によれば、坂本龍馬の婚約者千葉佐那が千住中組(現・千住仲町)に明治十九年(1886)からこの地で過ごしたという。佐那はこの地で千葉灸治院を開業していた。同説明によれば、「龍馬の死を知った後も龍馬の事を想い続け、一生独身で過ごしたと伝えられている」とあるが、歴史研究家のあさくらゆう氏によれば、明治七年(1875)に元鳥取藩士山口菊次郎と結婚し、約十年後に離婚したという。


千葉灸治院古写真

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