史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

四日市

2015年10月23日 | 三重県
(光明寺)


光明寺

 光明寺は近鉄霞ヶ浦駅から歩いて十分足らず。鳥羽伏見から帰還した田中新右衛門ら桑名藩兵十三名が幽閉された寺院である。このとき光明寺の隣の空き地には、獄門台が用意されたため、一同は斬首を覚悟したという。守衛の鳥取藩士に確認したところ、桑名で捕縛された偽勅使を処分するためのものであることが分かり、一同は一安心であった。その後、彼らの身柄は鳥取藩から尾張藩に引き渡され、慶応四年(1868)二月には桑名城下の浄土寺に入り、翌三月には捕縛も解かれ両刀も返還された。
 帰還兵の一人である瀧澤平右衛門という者が、斬首刑を恐れて脱走を図った。東海道府の記録によれば、瀧澤は焼身自殺したことになっている。実は、鳥取藩では瀧澤を捕えられず、代わりに犬の死骸を焼いて、その臓腑を瀧澤のものとして晒したとされる。(「「朝敵」から見た戊辰戦争」 水谷憲二著 洋泉社)。

(法泉寺)


法泉寺

 近鉄川原町駅から徒歩五~六分ほどで法泉寺に至る。桑名藩の嫡子松平万之助(当時十二歳。定敬の義弟)と重臣二人(三輪権右衛門、吉村又右衛門)が幽閉された寺院である。このとき伊勢亀山藩が守衛に当たった。万之助らの謹慎は、同年閏四月まで続いた。閏四月二十九日に帰国が許され、桑名本統寺に移ることになった。同時に謹慎していた桑名藩士の大半も寺院を出て、自宅での謹慎に切り替えられた。

(建福寺)


建福寺

 水戸浪士綿引富蔵が偽官軍として処刑され、最初に埋葬されたのが建福寺である。綿引富蔵の死体は、ひそかに建福寺墓地にはこばれ、小さいながら石碑を建て供養を怠らなかったと伝えられる。現在、建福寺には、綿引富蔵のもののみならず、一切の墓石は見当たらず、全て泊山霊園に集約されたものと思われる。
 境内には、安政元年(1854)の震災の被災者の慰霊塔が建立されている。


安政元年震災惨死者之碑

(信光寺)
 桑名城攻略の命令を受けた東海道鎮撫総督府は、慶応四年(1868)一月二十二日に四日市に到達し、本営を置いた。総督府が本営を置いたのが信光寺であったという。同年一月二十三日、重臣に付き添われた松平万之助は、上方からの帰還兵十三名とともに総督府本営に入った。これを迎えたのは、総督府の橋本実梁、柳原前光、参謀海江田信義であった。


信光寺

(泊山霊園)
 近鉄四日市市駅から四日市あすなろう鉄道というローカル線に乗り換える。あすなろう鉄道は、単線で路線バスのような作りの車両であるが、沿線の市民の足として機能しているようで、往きも帰りもほぼ満席であった。一時間に二本程度しか走っていないので、利用する場合は時刻表を予め調べておくことをお勧めする。
 泊という駅で降りて、西に向かって二十分ほどひらすら歩く。泊山バス停を左折すると、広大な泊山霊園が眼前に開ける。


四日市あすなろう鉄道

 名古屋市内の寺院の墓地が平和霊園に集約されたのと同様に、四日市市内の寺院の墓地はここに集められたのであろう。平和霊園ほどの規模ではないが、ここも、とてつもなく広い霊園である。当てもなく水戸浪士の墓を探すのは、最初から眩暈を催すほどの難作業であった。半時間ほど歩き回って、ようやく出会うことができた。


水戸藩士綿引富蔵墓(左)
水戸藩士小室左門墓


 参考までに記録しておくと、水戸浪士の墓は、信光寺墓地の中ほど大きな木の麓にある。信光墓地がどの辺りにあるか正確に記述するのは難しいが、霊園の一番奥の第二駐車場の手前になる。
 綿引富蔵、小室左門両名とも赤報隊士である。以下、長谷川伸「相楽総三とその同志」による。
 赤報隊の最初の犠牲者は、次の八人とされる。
 山本太宰(曼珠院宮家人)
 綿引富蔵徳隣
 小林雪遊斎(安藤岩見介)
 赤木小太郎(赤城小平太とも)
 川喜多真彦(川北真一郎 号は櫪園。国学者)
 佐々木可竹
 玉川熊彦
 小笠原大和

 彼らは滋野井公寿と綾小路俊実を擁して近江から伊勢に入り、慶応四年(1868)一月二十八日には桑名城下の晴雲寺に宿泊した。既に「赤報隊は偽官軍」との一報を受けていた亀山藩では晴雲寺を包囲し、滋野井侍従以下十数名を生け捕り四日市に引き立てた。このとき激しく抵抗したのは赤木小太郎のみであったという。八人のうち、川喜多真彦、赤木小太郎、綿引富蔵の三名は、三滝川(御嶽川)河原で首を刎ねられた。その他は晴雲寺を逃げ出したところを、近所界隈の者が棒や竹槍で追い回してなぶり殺した。
 泊山霊園にある墓の主、水戸藩士小室左門が、この八人の誰かのことか、或はこの八人とは別人かも不明である。

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熊谷 Ⅴ

2015年10月23日 | 埼玉県
(熊谷宿)


本陣跡

 熊谷宿は中山道の江戸から数えて八番目の宿場町である。熊谷宿は、二つの本陣を有していたが、そのうちの一つ、竹井本陣がこの場所にあったが、明治期の火災と第二次大戦の空襲によりほとんど焼失してしまった。
 文久元年(1861)十一月十二日、皇女和宮も熊谷宿に宿泊している。

(八木橋百貨店)


旧中山道跡

 八木橋百貨店の東西の入口に、それぞれ旧中山道の石碑がある。つまりデパートの中を旧中山道が通じているということかな?

(星渓園)
 八木橋百貨店から上熊谷駅に向かう途中に、星渓園(せいけいえん)という庭園がある。本陣竹井家の別邸跡である。十四代当主竹井澹如(たんじょ)は、中央政界の大隈重信、板垣退助、陸奥宗光らとも親交があった人物である。澹如は慶応年間にこの地に別邸を築き、池亭や回遊式庭園を設けた。明治に入って、昭憲皇太后、大隈重信、徳富蘇峰らがここを訪れている。


星渓園

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川越 Ⅲ

2015年10月23日 | 埼玉県
(川越城跡)


川越城本丸御殿(武徳殿)

 五年振りに川越城本丸御殿を訪問した。前回は補修工事中で拝観を断念せざるを得なかった。
 川越城は、扇谷上杉氏の命により、長禄元年(1457)、太田道真、道灌父子により築城された城である。その後、後北条氏により攻め落とされ、後北条氏の北武蔵における拠点となった。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、前田利家らに攻められて降伏した。徳川家康が江戸城に入ると、以後、江戸に近い川越城には有力な大名が配置されるようになった。寛永十六年(1639)、松平信綱が川越城の拡張整備を行った。往時は総面積九万九千坪余りの巨大な城郭を誇った。


江戸湾警備について相談する家臣

 家老詰所では、江戸湾警備について相談する家臣の様子が再現されている。川越藩では相模の三浦半島沿岸に領地を持っていたため、幕府は沿岸の警備を命じた。これを受けて、川越藩では天保十四年(1843)九月から嘉永六年(1853)十二月まで大津陣屋を拠点として警備に当たった。ペリー来航後、川越藩は新たに築造された品川台場(第一・二・五台場)へ警備変更を命じられた。


川越城本丸門跡

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新富町 Ⅲ

2015年10月23日 | 東京都
(蛇の目鮨本店)


蛇の目鮨本店

 有名な勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城の折、蛇の目鮨が寿司を届けたという逸話が伝わる(中央区新富1‐7‐9)。「江戸東京幕末維新グルメ」の著者三澤敏博氏は、このときの寿司は巻き寿司ではないかと推測している。

(割烹 躍金楼)


割烹 躍金楼

 蛇の目寿司から歩いて数分の場所に割烹躍金楼がある(中央区新富1‐10‐4)。明治の初め、この辺りには新島原遊郭と呼ばれる花街があった。しかし、なかなか客足は伸びず、明治四年(1871)には閉鎖されてしまった。その後、芝居小屋新富座が開かれ、付近は再び活気を取り戻した。躍金楼は、その当時から営業を続ける老舗(創業は明治六年)で、命名はこの店を贔屓にしていた山岡鉄舟という。

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