(光明寺)
光明寺
光明寺は近鉄霞ヶ浦駅から歩いて十分足らず。鳥羽伏見から帰還した田中新右衛門ら桑名藩兵十三名が幽閉された寺院である。このとき光明寺の隣の空き地には、獄門台が用意されたため、一同は斬首を覚悟したという。守衛の鳥取藩士に確認したところ、桑名で捕縛された偽勅使を処分するためのものであることが分かり、一同は一安心であった。その後、彼らの身柄は鳥取藩から尾張藩に引き渡され、慶応四年(1868)二月には桑名城下の浄土寺に入り、翌三月には捕縛も解かれ両刀も返還された。
帰還兵の一人である瀧澤平右衛門という者が、斬首刑を恐れて脱走を図った。東海道府の記録によれば、瀧澤は焼身自殺したことになっている。実は、鳥取藩では瀧澤を捕えられず、代わりに犬の死骸を焼いて、その臓腑を瀧澤のものとして晒したとされる。(「「朝敵」から見た戊辰戦争」 水谷憲二著 洋泉社)。
(法泉寺)
法泉寺
近鉄川原町駅から徒歩五~六分ほどで法泉寺に至る。桑名藩の嫡子松平万之助(当時十二歳。定敬の義弟)と重臣二人(三輪権右衛門、吉村又右衛門)が幽閉された寺院である。このとき伊勢亀山藩が守衛に当たった。万之助らの謹慎は、同年閏四月まで続いた。閏四月二十九日に帰国が許され、桑名本統寺に移ることになった。同時に謹慎していた桑名藩士の大半も寺院を出て、自宅での謹慎に切り替えられた。
(建福寺)
建福寺
水戸浪士綿引富蔵が偽官軍として処刑され、最初に埋葬されたのが建福寺である。綿引富蔵の死体は、ひそかに建福寺墓地にはこばれ、小さいながら石碑を建て供養を怠らなかったと伝えられる。現在、建福寺には、綿引富蔵のもののみならず、一切の墓石は見当たらず、全て泊山霊園に集約されたものと思われる。
境内には、安政元年(1854)の震災の被災者の慰霊塔が建立されている。
安政元年震災惨死者之碑
(信光寺)
桑名城攻略の命令を受けた東海道鎮撫総督府は、慶応四年(1868)一月二十二日に四日市に到達し、本営を置いた。総督府が本営を置いたのが信光寺であったという。同年一月二十三日、重臣に付き添われた松平万之助は、上方からの帰還兵十三名とともに総督府本営に入った。これを迎えたのは、総督府の橋本実梁、柳原前光、参謀海江田信義であった。
信光寺
(泊山霊園)
近鉄四日市市駅から四日市あすなろう鉄道というローカル線に乗り換える。あすなろう鉄道は、単線で路線バスのような作りの車両であるが、沿線の市民の足として機能しているようで、往きも帰りもほぼ満席であった。一時間に二本程度しか走っていないので、利用する場合は時刻表を予め調べておくことをお勧めする。
泊という駅で降りて、西に向かって二十分ほどひらすら歩く。泊山バス停を左折すると、広大な泊山霊園が眼前に開ける。
四日市あすなろう鉄道
名古屋市内の寺院の墓地が平和霊園に集約されたのと同様に、四日市市内の寺院の墓地はここに集められたのであろう。平和霊園ほどの規模ではないが、ここも、とてつもなく広い霊園である。当てもなく水戸浪士の墓を探すのは、最初から眩暈を催すほどの難作業であった。半時間ほど歩き回って、ようやく出会うことができた。
水戸藩士綿引富蔵墓(左)
水戸藩士小室左門墓
参考までに記録しておくと、水戸浪士の墓は、信光寺墓地の中ほど大きな木の麓にある。信光墓地がどの辺りにあるか正確に記述するのは難しいが、霊園の一番奥の第二駐車場の手前になる。
綿引富蔵、小室左門両名とも赤報隊士である。以下、長谷川伸「相楽総三とその同志」による。
赤報隊の最初の犠牲者は、次の八人とされる。
山本太宰(曼珠院宮家人)
綿引富蔵徳隣
小林雪遊斎(安藤岩見介)
赤木小太郎(赤城小平太とも)
川喜多真彦(川北真一郎 号は櫪園。国学者)
佐々木可竹
玉川熊彦
小笠原大和
彼らは滋野井公寿と綾小路俊実を擁して近江から伊勢に入り、慶応四年(1868)一月二十八日には桑名城下の晴雲寺に宿泊した。既に「赤報隊は偽官軍」との一報を受けていた亀山藩では晴雲寺を包囲し、滋野井侍従以下十数名を生け捕り四日市に引き立てた。このとき激しく抵抗したのは赤木小太郎のみであったという。八人のうち、川喜多真彦、赤木小太郎、綿引富蔵の三名は、三滝川(御嶽川)河原で首を刎ねられた。その他は晴雲寺を逃げ出したところを、近所界隈の者が棒や竹槍で追い回してなぶり殺した。
泊山霊園にある墓の主、水戸藩士小室左門が、この八人の誰かのことか、或はこの八人とは別人かも不明である。
光明寺
光明寺は近鉄霞ヶ浦駅から歩いて十分足らず。鳥羽伏見から帰還した田中新右衛門ら桑名藩兵十三名が幽閉された寺院である。このとき光明寺の隣の空き地には、獄門台が用意されたため、一同は斬首を覚悟したという。守衛の鳥取藩士に確認したところ、桑名で捕縛された偽勅使を処分するためのものであることが分かり、一同は一安心であった。その後、彼らの身柄は鳥取藩から尾張藩に引き渡され、慶応四年(1868)二月には桑名城下の浄土寺に入り、翌三月には捕縛も解かれ両刀も返還された。
帰還兵の一人である瀧澤平右衛門という者が、斬首刑を恐れて脱走を図った。東海道府の記録によれば、瀧澤は焼身自殺したことになっている。実は、鳥取藩では瀧澤を捕えられず、代わりに犬の死骸を焼いて、その臓腑を瀧澤のものとして晒したとされる。(「「朝敵」から見た戊辰戦争」 水谷憲二著 洋泉社)。
(法泉寺)
法泉寺
近鉄川原町駅から徒歩五~六分ほどで法泉寺に至る。桑名藩の嫡子松平万之助(当時十二歳。定敬の義弟)と重臣二人(三輪権右衛門、吉村又右衛門)が幽閉された寺院である。このとき伊勢亀山藩が守衛に当たった。万之助らの謹慎は、同年閏四月まで続いた。閏四月二十九日に帰国が許され、桑名本統寺に移ることになった。同時に謹慎していた桑名藩士の大半も寺院を出て、自宅での謹慎に切り替えられた。
(建福寺)
建福寺
水戸浪士綿引富蔵が偽官軍として処刑され、最初に埋葬されたのが建福寺である。綿引富蔵の死体は、ひそかに建福寺墓地にはこばれ、小さいながら石碑を建て供養を怠らなかったと伝えられる。現在、建福寺には、綿引富蔵のもののみならず、一切の墓石は見当たらず、全て泊山霊園に集約されたものと思われる。
境内には、安政元年(1854)の震災の被災者の慰霊塔が建立されている。
安政元年震災惨死者之碑
(信光寺)
桑名城攻略の命令を受けた東海道鎮撫総督府は、慶応四年(1868)一月二十二日に四日市に到達し、本営を置いた。総督府が本営を置いたのが信光寺であったという。同年一月二十三日、重臣に付き添われた松平万之助は、上方からの帰還兵十三名とともに総督府本営に入った。これを迎えたのは、総督府の橋本実梁、柳原前光、参謀海江田信義であった。
信光寺
(泊山霊園)
近鉄四日市市駅から四日市あすなろう鉄道というローカル線に乗り換える。あすなろう鉄道は、単線で路線バスのような作りの車両であるが、沿線の市民の足として機能しているようで、往きも帰りもほぼ満席であった。一時間に二本程度しか走っていないので、利用する場合は時刻表を予め調べておくことをお勧めする。
泊という駅で降りて、西に向かって二十分ほどひらすら歩く。泊山バス停を左折すると、広大な泊山霊園が眼前に開ける。
四日市あすなろう鉄道
名古屋市内の寺院の墓地が平和霊園に集約されたのと同様に、四日市市内の寺院の墓地はここに集められたのであろう。平和霊園ほどの規模ではないが、ここも、とてつもなく広い霊園である。当てもなく水戸浪士の墓を探すのは、最初から眩暈を催すほどの難作業であった。半時間ほど歩き回って、ようやく出会うことができた。
水戸藩士綿引富蔵墓(左)
水戸藩士小室左門墓
参考までに記録しておくと、水戸浪士の墓は、信光寺墓地の中ほど大きな木の麓にある。信光墓地がどの辺りにあるか正確に記述するのは難しいが、霊園の一番奥の第二駐車場の手前になる。
綿引富蔵、小室左門両名とも赤報隊士である。以下、長谷川伸「相楽総三とその同志」による。
赤報隊の最初の犠牲者は、次の八人とされる。
山本太宰(曼珠院宮家人)
綿引富蔵徳隣
小林雪遊斎(安藤岩見介)
赤木小太郎(赤城小平太とも)
川喜多真彦(川北真一郎 号は櫪園。国学者)
佐々木可竹
玉川熊彦
小笠原大和
彼らは滋野井公寿と綾小路俊実を擁して近江から伊勢に入り、慶応四年(1868)一月二十八日には桑名城下の晴雲寺に宿泊した。既に「赤報隊は偽官軍」との一報を受けていた亀山藩では晴雲寺を包囲し、滋野井侍従以下十数名を生け捕り四日市に引き立てた。このとき激しく抵抗したのは赤木小太郎のみであったという。八人のうち、川喜多真彦、赤木小太郎、綿引富蔵の三名は、三滝川(御嶽川)河原で首を刎ねられた。その他は晴雲寺を逃げ出したところを、近所界隈の者が棒や竹槍で追い回してなぶり殺した。
泊山霊園にある墓の主、水戸藩士小室左門が、この八人の誰かのことか、或はこの八人とは別人かも不明である。