史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

月島

2015年10月17日 | 東京都
(石川島公園)


日本初の民営洋式造船所発祥の地

 地下鉄月島駅を地上に出て、相生橋方面に向かう。相生橋のたもとから中央橋に至る隅田川沿いに公園になっており、その一角に「日本初の民営洋式造船所発祥の地」と書かれたモニュメントが置かれている。この辺りは石川島造船所(現・株式会社IHI)があった場所で、洋式帆走軍艦「旭日丸」や日本人によって設計・建造された最初の蒸気軍艦「千代田形」等多数の洋式軍艦が次々を建造された由緒ある場所である(中央区佃2‐2)。モニュメントには軍艦千代田形の写真が掲載されている。
 維新後の明治九年(1876)、平野富二によって我が国初の民営洋式造船所として再スタートし、明治二十二年(1889)には渋沢栄一らの後押しもあって会社組織となって、有限会社石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の名のもとに多くの軍艦・商船を世に送り出した。昭和十四年(1939)、この地における造船事業は、東京深川区豊洲への移転により幕を閉じた。その後もこの地では重機械類の製造が続けられたが、昭和五十四年(1979)の移転によりその歴史を終えた。
 本当をいうと、この後石川島資料館を見て行こうと考えていたのだが、日曜日と水曜日は休館日であった。休館日は事前に調べておきましょう。

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亀戸 Ⅳ

2015年10月17日 | 東京都
(船橋屋)
 暑い日であった。午前中、野球の練習で汗を流した後、亀戸天神近くの船橋屋(江東区亀戸3‐2‐14)に向かった。船橋屋は元祖くず餅が売りの甘味処である。暑い夏の日にはぴったりの店である。
 店まで行ってみると、店の前には行列ができており、これを見ただけですっかりくず餅への意欲は失せてしまった。幸い錦糸町の駅で船橋屋が店を出していたので、そこで白玉あんみつを購入できた。


白玉あんみつ


船橋屋

 船橋屋は文化二年(1805)の創業。西郷隆盛も船橋屋のくず餅を好み、足を運んだという。

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銀座 Ⅲ

2015年10月17日 | 東京都
(銀座八丁目)
 明治時代、日本には丸の内と銀座の二か所しか煉瓦街がなかった。明治五年(1872)から十年(1877)にかけて、当時の国家予算の四%弱を費やし、銀座に煉瓦街が築かれた。この石碑に使われている煉瓦は、銀座八丁目で発掘されたものである(中央区銀座8‐7‐11)。


煉瓦遺構の碑

(東京銀座平野園)
 この日も三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」を片手に、銀座を歩いた。少し見ぬまに銀座は中国人観光客だらけの街になってしまった。次々と大型観光バスが横付けされ、吐き出されるように中国人が銀座の街に繰り出す。彼らはそろって大きなスーツケースを転がして、銀座でも今や中国人の代名詞となった“爆買い”を平然とやってのける。何だか中国人に銀座を乗っ取られたようで、決して気持ちの良い光景ではない。
 この一か月で二回も上海に出張することになったが、最初の中国出張時には一元が13円~14円程度だった為替が、今や20円を超えている。非常に割高な感じを受けるが、今、日本を訪れている中国人は、その反対の割安感を謳歌しているのに違いない。


東京銀座 平野園

 平野園(中央区銀座7‐15‐11)の創業は明治十六年(1883)。銀座最古の茶屋である。明治四十五年(1912)の夏、明治天皇の病状が悪化すると、アイスクリームが献上されたという。そのとき平野園は抹茶のアイスクリームを用意した。今でも平野園では、皇室に献上された「御園の白」と名付けられた濃茶や、抹茶アイスクリームを楽しむことができる。ただし、予約が必要。

(資生堂パーラー)


資生堂パーラー

 資生堂といえば、化粧品のイメージが強いが、その起源は西洋の医薬品を取り扱う調剤薬局であった。創業者は福原有信。福原は嘉永元年(1848)、漢学者の家に生まれ、漢方医の祖父・有斎の影響を受けて、若い頃から薬剤に関心を示した。慶応元年(1865)、幕府医学所頭取の松本良順に認められて、医学所に出仕。明治二年(1869)、再び東京に出た福原は医学所を引き継いだ大学東校に学び、その二年後には海軍病院薬局長に任命された。さらにその翌年、矢野義徹、前田清則とともに西洋薬舗会社「三精社」を設立し、続いて銀座に民間薬局を開業した。これが資生堂の前身である。明治三十五年(1902)には、福原は資生堂薬局内にソーダファウンテンを開設。日本初のソーダ水のほか、アイスクリームなどが提供された。後には本格的フランス料理やデザートを提供する資生堂パーラー(中央区銀座8‐8‐3)へと発展していった。(以上、三澤敏博「江戸東京幕末維新グルメ」より)

(カフェ・パウリスタ)
 カフェ・パウリスタは土佐藩士水野龍が創業した老舗カフェである(中央区銀座8‐9)。


カフェ・パウリスタ

 水野龍は、九歳で戊辰戦争に参加後、維新後は教師となったが、同郷の板垣退助らが中心となった自由民権運動に参加し、後藤象二郎を頼って上京を果たした。明治三十八年(1905)、ブラジル移民政策に同調し、この実現に尽力した。この功績により、ブラジル政府から年間一千俵の珈琲豆の無償供与と東洋での宣伝販売権が与えられ、日本におけるブラジル珈琲の普及事業を委託されることになった。しかし、珈琲の輸入がなかなか認められず、開業まで時間を要したが、明治四十四年(1911)に至って、ようやくカフェ・パウリスタが開業されたのである。

(竹葉亭)


竹葉亭

 竹葉亭(中央区銀座8‐14‐7)は、かつて京橋の浅蜊河岸にあり、桃井春蔵の士学館の刀預かり所として創業された留守居茶屋であった。恐らく当時は、中岡慎太郎や武市瑞山ら、土佐勤王党の連中が出入したことであろう。しかし、竹葉亭は早々に刀預かり業から鰻屋に転じ、慶応二年(1866)には現在の屋号を定めている。維新後には山岡鉄舟も常連客の一人だったという。日曜日は定休日で評判の鰻を食べることはできなかったが、次回には是非試してみたい。

(空也)


空也

 「空也もなか」で有名な和菓子店空也は、明治十七年(1878)の創業。当時は上野池ノ端にあったが、昭和二十四年(1935)に銀座に移転してきた(中央区銀座6‐7‐19)。福地源一郎らとともに演劇改良運動に尽力した市川團十郎が、空也もなかの誕生に一役買っているという。
 人気の空也もなかは、毎日売り切れるほどで、予約を入れないと購入は困難。そう言われると、一度食べないわけにはいかない(後日、再度訪れたが、やはり正午前に売り切れていた)。

(狩野画塾跡)


狩野画塾跡

 銀座東五丁目交差点の東辺りが、狩野画塾跡である(中央区銀座5‐13‐11)。
 江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とした。木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召し出され、竹川町(現・銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師となった。のち、六代典信の時に、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移り、画塾を開いた。狩野奥絵師四家の中でもっとも繁栄したといわれる。
 この狩野画塾からは、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出している。

(佐久間象山塾跡)


佐久間象山塾跡

 嘉永六年(1853)の古地図によれば、狩野勝川の画塾に向い合う場所に佐久間象山の名が見られる(中央区銀座6‐15)。
 象山は初め儒学を修め、天保十年(1839)、神田お玉が池付近に塾を開き、のちに海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永四年(1851)この地に塾を開いた。象山は、兵学および砲術を教授し、海防方策の講義を行った。二十坪ほどの塾に、常時三十~四十人が学んでいたという。
 門下には、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助など多くの有能な人材が集まった。土佐の坂本龍馬も嘉永六年(1853)に最初の剣術修行に出て、その年の十二月一日に入門している。
 この塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が集まったが、嘉永七年(1854)門人の一人吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連坐して、象山も国許での蟄居を命じられ、塾も閉鎖された。

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東京 Ⅴ

2015年10月17日 | 東京都
(割烹 嶋村)


割烹 嶋村

 三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」によれば、割烹嶋村は創業嘉永三年(1850)。桜田門外の変の当日には、二代嶋村善吉と板場を預かる加藤(のちの三代目善吉)と小僧の延太郎(四代目善吉)は、桜田門外の変に出合わせたという。維新後、嶋村は徳川家の駿府移住とともに駿府に移ったが、江戸の店は加藤が譲り受けた。新政府の要人となった伊藤博文や山県有朋、井上馨らがしばしば嶋村を訪れた。
 明治九年(1876)の神風連の乱では、嶋村で密議が交わされたという。嶋村が日本橋から現在地に移ったのは関東大震災以降というが、現代に幕末維新の味を伝える生きた史跡と呼ぶに相応しい。

(千葉定吉道場跡)


千葉定吉道場跡

 先日、京橋で接待があり、そこから歩いて東京駅に戻る途中、中央区教育委員会が設置した千葉道場跡の説明板を発見した。この時は客人も一緒だったし、夜中だったのでそのままやり過ごしたが、早速、その週末ここを訪ねた(中央区八重洲2‐8‐5付近)。都内には、まだ個人的に未発見の史跡があることを思い知らされた。

 千葉定吉は、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟であり、自身も北辰一刀流の使い手として知られている。周作が神田お玉が池に開いた玄武館は、江戸三大道場の一つに数えられるほどの隆盛を極めた。弟定吉は、兄の道場を助けた後、自らもこの地付近に道場を開いた。「小千葉道場」と称された。嘉永六年(1853)、剣術修行のために江戸へ出てきた土佐藩士坂本龍馬は、定吉の門に入った。この時、定吉は、鳥取藩池田家に仕官していたため、龍馬は定吉の息子千葉重太郎のもとで修行に励んだとされる。安政三年(1856)、再び江戸に出府した際にも、定吉の道場で剣術修行を行い、安政五年(1858)正月には北辰一刀流長刀法の目録を伝授された。

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