史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「殿様は「明治」をどう生きたのか」 河合敦 洋泉社歴史新書

2014年04月27日 | 書評
江戸時代、ピラミッドの頂点にいた殿様は、明治を迎えるとまさに「過去の遺物」となった。これが建物や工芸品であれば朽ちて埋もれてしまえば済む。しかし、殿様は生身の人間である。彼らも明治という新しい時代を生きていかなければならなかった。
当然ながら、全国三百藩を治めていた殿様には、その数だけ生き様があった。うまく明治の世に適合できた人もいれば、不遇に終わった人もいる。
本書では十四人の殿様の後半生を取り上げている。勝ち組・負け組が明確に分けられるわけではないが、ざっと見た限り、過半は明治の世にうまく適合できなかったのではないか。本書で紹介されている人物で、成功例といえるのは徳川家達、蜂須賀茂韶、浅野長勲、岡部長職くらいのものだろうか。当事者には申し訳ないが、新しい世で必死にもがいている姿を俯瞰するのは大変興味深い。それが本書の面白味である。
松平容保、定敬、徳川慶勝兄弟や林忠崇、山内容堂、徳川家達、上杉茂憲などは、他書でも読むことができる比較的著名な例である。欲をいえば、もっと知られざる殿様を紹介して欲しかった。


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「西郷隆盛の首を発見した男」 大野敏明 文春新書

2014年04月27日 | 書評
明治十年(1877)九月二十四日、官軍の総攻撃の前に遂に薩軍は壊滅する。このとき西郷隆盛の生死は、政府にとって非常に重要な問題であった。もし、西郷の死が確認できなければ、西郷生存説が流れ、政府はいつまでも西郷の幻影におびえることになるだろう。実際、西郷の戦死が確認されたにもかかわらず、庶民の間では「西郷は生きている」「ロシアに渡った」「いや、インドにいる」といった噂が飛び交った。仮に西郷の首が見つからなければ、こういった噂はさらに信憑性を増して人々の話題に上ったことだろう。
西郷の首が発見された場面を、司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」で見てみる。
――― ほどなく首が発見され、千田という中尉が、首級を発見した前田恒光という兵卒をつれてそれを持参した。首は泥で汚れていた。山県がそれを付近の泉で洗わせた。

ここに登場する「千田という中尉」が本書における主人公である。「翔ぶが如く」には恐らく数千という人物が登場するが、千田登文中尉が登場するのはこの場面だけである。本書では千田が残した「履歴書」をもとに幕末から明治を生き抜いた一人の軍人の生涯を描いてみせた。
千田登文は、加賀藩士である。藩主の命を受けて戊辰戦争に従軍したのを皮切りに、西郷の首を発見するという大手柄を立てた西南戦争、さらに日清・日露戦争にも参戦した。代表的な明治軍人の履歴である。また四人の息子は全員が陸軍士官学校に入り、娘婿四人のうち三人までが陸軍士官学校、陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリートであった。
千田が残した「履歴書」は、陸軍が将校の経歴書を作成するために提出させたものらしく、事務的に事実を羅列しているに過ぎない。それでも長男登太郎が戦死、三男木村三郎は切腹するなど、波乱に富んだ生涯をうかがい知ることができる。
各方面から千田登文に送られた文書が掲載されるが、「人と為り謹厚瑞厳」「品行端正」「人格高潔識見高邁」「志操堅固」という文字が続く。この人の生き様が透けて見えるようである。
三男木村三郎は、皇太子(のちの昭和天皇)御行啓のもと大演習で敗北する失態を演じ、それを恥じて切腹して果てた。まだ三十三歳という若さで、あとには妻と幼い三人の子が残された。このことについて「履歴書」には「責任観念のため自刃」と事務的に記されているのみである。
木村家では、武家のしきたりそのままに食事の際は、当主、前当主、次期当主だけが膳を並べて食事したという。そのような精神風土だったからこそ、演習の失態という、我々からみれば「それくらいのことで」自分の命を差し出してしまうのである。既に大正の世を迎えていたが、まだ武士の精神が生きていた時代でもあった。


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「ある幕臣の戊辰戦争」 中村彰彦 中公新書

2014年04月27日 | 書評
本書は「脱藩大名の戊辰戦争」の姉妹編である。副題に「剣士伊庭八郎の生涯」とある通り、本書の主役は伊庭八郎である。脱藩大名こと林忠崇の戊辰戦争は、常識破りの奇行であった。伊庭八郎のとった行動も、林忠崇ほどのインパクトはないにしろ、我々の心を捕えて放さないものがある。
箱根における戦闘で、伊庭八郎は左腕を失う。この負傷で戦闘意欲を失うどころか、益々戦闘的になっていく。美加保丸で榎本艦隊とともに北を目指した。しかし、美加保丸は銚子沖で遭難し、伊庭八郎らは、命からがら上陸した。八郎はこのアクシデントにもくじけず、箱館行きを切望する。隻腕となった彼が単身潜行するのは不可能であった。彼は「北走の望み全く絶え果てば、必ず自尽すべし」(尺振八が伊庭八郎を救いたる始末)と覚悟を決めていたらしい。周囲の知人友人が寄ってたかって八郎の箱館行きを支援した。尺振八、中根香亭、本山小太郎らの献身的な支援により、彼は榎本軍との合流を果たす。伊庭八郎は「眉目秀麗、俳優の如き美男子」だったといわれるが、女性だけでなく、同性からも慕われる好い男だったのだろう。
伊庭八郎は、明治二年(1869)五月、木古内における戦闘で被弾し、その傷がもとで戦死した。立ち会った田村銀之助の証言によれば、薬を飲み干して眠るが如く落命したという。命よりも名を惜しむという美的感覚はこの時代特有の価値観かもしれないが、現代人の心を揺さぶるものがあるのも事実である。


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「赤い人」 吉村昭 講談社文庫

2014年04月27日 | 書評
先月、北海道を旅し、月形町まで足を伸ばしたこともあり、吉村昭の「赤い人」を読んでみたいと思った。司馬遼太郎先生は、この本を読んで「数日茫然とした」と評している。
題名の「赤い人」というのは、当時の囚人が全身朱色の囚人服を身にまとっていたことに拠っている。佐賀の乱から西南戦争に至る内乱が続発し、明治十年代の我が国には、監獄が追いつかないくらい国事犯が多数牢に繋がれていた。そこで政府は、彼らを人民から隔離するため北海道に集治監を開くことを決定する。
札幌の街を出て、江別、当別、樺戸と北上すると、見渡す限り平原が広がる。ドライブするにはちょっと退屈な風景であるが、樺戸集治監が開かれた明治十年代、この辺りは手着かずの原生林であった。時の明治政府は、囚人を労働力としてこの未開の原野を開拓しようとしたのである。この単調に続く平野が、実は囚人の血で贖われたものだと知ってしまうと、この風景を見る目が変わってくるだろう。北海道に住む人、北海道を旅行しようという方には、是非読んでいただきたい一冊である。
現代の人権意識を、そのままこの時代に持ち込んで批判することは意味の無いことであるが、それにしても薄い毛布を与えられただけで、手袋も足袋もなく厳冬の地で労働に従事させられるのは、ほぼ死刑宣告を受けたに等しい。実際に、十分な食事も与えられない囚人たちは、凍傷により耳や手足を失い、次々と斃死する。ざっと二割の囚人が命を落としていった。
座して死を待つよりも、一か八か脱走して自由を手に入れようと考えるのも、人間として当然の成り行きであろう。雪解けを待っていたかのように、次から次へと脱走者が出るが、彼らは看守たちの執拗な追捕の網にかかって連れ戻される。その場で抵抗すれば斬殺されるだけである。彼らの命は、虫けらよりも軽い。
現代の刑務所事情は、明治の頃を思えば格段の改善である。暖房完備、栄養の行き届いた食事が供される環境に戻りたくて、出獄後、再び罪を犯す不届者までいるというから、余程居心地が良いのだろう。今さら明治の監獄に戻すというのはあり得ないが、服役を目的とするのであれば、「二度とあの場所に戻りたくない」と思わせるものでなければいけない。
月形町の町名は、初代典獄(署長)月形潔に因んだものである。彼がこの地を集治監の開設場所に選んだこと、そして彼の指導のもと囚人たちの手によりこの地が開拓されたことが、今日の月形町の出発点になったことは間違いない。月形潔はこの地に骨を埋める覚悟であった。典獄として着任する際、戸籍をここに移したという。月形自身も、この過酷な環境下での激務に耐えかね体調を崩し、遂には療養のため集治監を離れることになった。彼自身も樺戸集治監の犠牲者だったのかもしれない。しかし典獄として、あと少しの配慮と熱意があれば、もう少し囚人の命を救うことができたのではないか。虫けらのように死んでいった無名の囚人のことを考えると、手放しで月形潔のことを称揚するのもどうかという気がするのである。
囚人を道路工事や炭山や硫黄鉱山労働に従事させることは、国家の方針でもあった。金子堅太郎は欧米の滞在経験を持つ、当時としては見識のある人物であるが、彼をして「囚人は暴戻の悪徒ゆえに苦役に耐えず斃死すれば国の支出が軽減される」と言わしめているのである。これが当時の政府高官の大方の見解であった。
わずか百年余り前の我が国では、国会の開設や自由民権運動が華やかに展開される裏舞台で、目を覆いたくなるような人権無視の歴史が存在していた。しかも、それが国家の意思として行われていたのである。国家権力の恐ろしさを痛切に感じることができる一冊でもある。


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登別

2014年04月20日 | 北海道
 苫小牧から登別に向かう途中、雪は激しくなり、登別温泉周辺でも、あっという間に数センチの積雪があった。この分では翌日は雪に埋もれて自動車が動かせないのではないかと心配になったが、宿の人によればこの時期の雪はすぐに溶けるから心配は要らないという。確かに翌朝、道路にほとんど新雪はなく、自動車の走行にはまったく支障はなかった。

(湯沢神社)


湯沢神社

 翌日はチェックアウトぎりぎりまで部屋でくつろぎ、その後、温泉街を散歩した。
 登別温泉の歴史は古いが、本格的に温泉として開発されたのは、武蔵国の大工、滝本金蔵が登別に移住し、駅逓と漁場を経営していたことに始まる。滝本夫婦が皮膚病にかかり困ったとき、アイヌから温泉の効能を聞いて入浴したところ全快したため、出願して湯守となった。明治になって交通の便もよくなり、湯治客も増えたため、滝本は私財を投じて道路を開削し、宿を増改築し、今日の登別温泉の基礎を築いた。湯沢神社には、滝本金蔵を顕彰する石碑が建立されている。


滝本金蔵翁 栗林五朔翁 頌徳碑

(泉源公園)
 湯沢神社の向い側に、泉源公園がある。泉源公園内には間欠泉があり、約三時間おきに勢いよく熱湯が噴き出す。


泉源公園

 登別温泉街では至るところで鬼とか金棒を見ることができる。どうして鬼が温泉のキャラクターになったのか、その謂われは不明であるが、泉源公園で煮えたぎる泉源を見ていて、何となく鬼を連想するのは、おそらく私だけではあるまい。

(地獄谷)
 登別温泉を訪れた人が必ず観光するという地獄谷を歩いた。周囲は雪で覆われているが、地熱で温められている地獄谷は地肌がむき出しになっている。


地獄谷


薬師如来堂

地獄谷の薬師如来堂は、文久元年(1861)、地獄谷で火薬の原料である硫黄を採取していた南部藩士が、御堂の下から湧いている温泉で眼を洗ったところ、長年患っていた眼病が治ったことから、その御礼に寄進した石碑が祀られている。


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白老

2014年04月20日 | 北海道
(白老元陣屋資料館)
登別から千歳空港へ家族を送る途中、白老に寄り道した。白老にある陣屋跡は、安政三年(1856)蝦夷地の警備を命じられた仙台藩が築いたものである。
安政元年(1854)、アメリカ、ロシアと和親条約を結んだ幕府は、箱館を開港することになった。これを受けて蝦夷地を直轄地とし、翌年、仙台藩を始め、津軽、秋田、南部の東北諸藩と松前藩に警備を命じた。翌年には会津藩、庄内藩も同じように北方警備を命じられた。仙台藩の守備範囲は、白老から襟裳岬を経て、国後・択捉に及ぶ広範な地域であったため、仙台藩では白老に元陣屋を、広尾、厚岸、根室、国後、択捉に出張(でばり)陣屋を築いた。
白老の旧陣屋の広さは、六.六ヘクタールで、周囲に堀と土塁を巡らせ内曲輪と外曲輪を構成した。本陣、勘定所、穀蔵、兵具蔵、長屋といった建物のほか、少し離れた東西の丘陵に愛宕神社と塩竈神社を祀った。
元陣屋には百二十名程度の人が常駐し警備にあたっていたが、戊辰戦争が起こると撤収してその使命を終えた。この付近には仙台藩士の墓地などもあるらしいが、雪に覆われていたため断念した。
また、白老町の社台小学校には、慶応四年(1868)七月、最後の陣屋代官となった草刈運太郎の墓がある。草刈運太郎は、陣屋を新政府軍に手渡すために当地に残っていたが、箱館府より派遣されてきた官軍兵士の横暴を諌めようとして負傷し、社台の番屋に逃れてそこで自刃した。心残りであるが、草刈運太郎の墓の取材は、次の機会に持ち越しとなった。


白老元陣屋資料館


仙台藩白老陣屋跡


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苫小牧

2014年04月20日 | 北海道
(開拓史跡公園)
 北海道二泊目は登別温泉だったので、大倉山展望台を三時過ぎに出発すると、一路苫小牧を目指した。今回は家族旅行だったので、できるだけ家族の都合に合わせるようにしたが、苫小牧だけは我がままを言わせてもらい、立ち寄ることにした。苫小牧市勇払に着いたのは午後四時半で、既に夕暮が迫っていた。


八王子千人同心の墓

寛政十二年(1800)幕府の許可を得た八王子千人同心、原胤敦(半左衛門)とその実弟原新介は開拓のために八王子千人同心約百人を連れて蝦夷地に渡った。胤敦は白糠町に、新介は勇払に移住し、開拓に従事したが、北海道の自然の過酷さは、彼らの予想を越えるものであった。吉岡孝『八王子千人同心』によれば、入植した百三十二名中、三十二名が現地で命を落としたという。結局、八王子千人同心による蝦夷地開拓事業は四年で終止符を打つことになった。先人の縁で、現在、八王子市と苫小牧市は姉妹都市関係となっている。


河西祐助の妻・梅の墓

(勇武津波切不動堂)


勇武津波切不動堂

 波切不動堂は、享和三年(1803)、当地に来た武士や会所関係者の不安や動揺を取り除くため、幕府役人の高橋次太夫らによって建てられたものと言われる。

(勇払会所跡)


勇払会所之跡

 寛政十一年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄し、直接経営に乗り出した。それまで和人とアイヌの交易の拠点として運上所が置かれていたが、それが会所と改称され、幕府の役所としての機能も持つことになった。翌寛政十二年(1800)、八王子千人同心五十人が移住し、開拓と周辺の警備に従事した。
 会所には幕府の役人が詰め、支配人、通辞、番人ら二十九人を指揮した。文政四年(1821)には直轄を廃して松前藩に戻したが、安政二年(1855)、再び直轄に戻した。明治二年(1869)新政府が開拓使を置き、明治六年(1873)、出張所が苫細村(現・苫小牧市)に移されると、勇払の統治機能は解消した。

(市民会館)


八王子千人同心顕彰碑


河西祐助の妻・梅の像

苫小牧市中心部にある市民会館には、八王子千人同心を顕彰する大きな石碑(苫小牧開拓碑)がある。モニュメントの上部には、八王子千人同心の像。下部には赤ん坊を抱いた女性の像が置かれているが、これは河西祐助の妻・梅である。
河西祐助が詠んだ「哭家人」と題した漢詩が刻まれている。

哭家人
萬里游返功未成 阿妻一去旅魂驚
携兒慟哭穹廬下 難盡人間長別情


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小樽

2014年04月19日 | 北海道
(小樽運河)


小樽運河

小樽は札幌市内から約四十キロメートルの距離で、高速道路を使えば一時間足らずで行き着くことができる。小樽運河や明治・大正期の石造の建物群、ガラスやオルゴールの店やレストランが軒を並べ、道央の観光都市としても有名である。
永倉新八が晩年を過ごした町としても知られる。わずかな時間であるが、永倉新八の息遣いを感じる旅に出てみよう。

私が小樽に着いたのは午後六時を回っていた。せっかくだから夜の小樽の街を散策してみたが、気温は氷点下まで下がり想像を絶する寒さであった。歩道は完全に凍結しており、場所によっては歩くというより、滑りながら移動することになった。
有名な小樽運河を写真に収めておかなくてはならない。寒さの中、四苦八苦しながら撮影していると、いかにも関西から来たと思しきオバチャンに声をかけられた。
「これが小樽運河ですかいな?」
「そうです。」
「何が綺麗なんかいな?あの光っている(注・ライティングしている)のが良いのかな?」
「さぁ、建物ですかね。」
何が綺麗か綺麗でないかは人に質問することではなく、自分の目で見て判断すれば良いことだと思ったが、確かにオバチャンが不安に思うのももっともなくらい、それほど綺麗な風景というわけでもなかった。

(北のウォール街)


旧三井銀行小樽支店

「北のウォール街」と命名されている一角には、明治・大正期に建造さえた石造の建物や倉庫が並んでいる。古い建物が保存されていることに感銘を受けた。

(梁川通り)



駅前の商店街には榎本武揚の肖像が掲げられている。北海道と榎本武揚の所縁は深いが、実は小樽と榎本武揚の因縁も浅からぬものがある。明治五年(1872)、榎本武揚は小樽の稲穂町の払下げを受け、北垣国道とともに北辰社を立ち上げて小樽を開拓し、今日の小樽市の基礎を築いたと言われる。稲穂町には榎本武揚の雅号に因んで名付けられた梁川通りもある。

(龍宮神社)


龍宮神社

翌朝、幸いにして雪はやんだ。
龍宮神社は、小樽開拓に着手した榎本武揚が移民の安意や航海の安全を図るため、アイヌが祭場としていた御鎮座地に桓武天皇(榎本家の遠祖)を合祀し、「北海鎮護」を献額して建立したものである。
境内には「北海鎮護」の碑のほか、没後百年を記念して平成二十一年(2009)に建立された榎本武揚公之像などがある。榎本武揚が手にしているのは、「海律全書」と羅針盤である。


榎本武揚書「北海鎮護」


榎本武揚像

(永倉新八・山田音羽対面の地)


永倉新八・山田音羽対面の地

晩年を小樽で過ごした永倉新八は、現在小樽市役所のある辺りに住居を構えていた。
市役所下交差点付近に「永倉新八、山田音羽対面の地」を示す案内板が立てられている。大正二年(1913)五月、山田音羽(芸名・綱枝大夫)と名乗る一人の芸妓が永倉を訪ねてきた。音羽は近藤勇の娘を自称したが、本当に近藤勇の娘なのか、母は誰なのか、肝心なことは何一つ伝わっていないが、残っている肖像写真を見ると、なるほど近藤勇そっくりである。これが動かぬ証拠ということか。


(小樽市役所)


小樽市役所

永倉新八がこの付近に居住していたという小樽市役所である。小樽市役所は、昭和八年(1933)に建築された重厚な造りの市庁舎である。

(量徳寺)


量徳寺

量徳寺は、永倉新八の菩提寺として知られる。永倉新八の資料館なども併設しているらしいが、これも恐らく冬期は閉鎖されていると思われる。いずれせよ、私が訪れたのは例によって日の出直後であったので、資料館が開いているわけもない。

(水天宮)


水天宮

水天宮は小高い丘の上にある。永倉新八が孫を相手に剣術の稽古をしたといわれる場所である。
ナビを頼りに水天宮を目指していると、路地のような細い道に入り込んでしまった。表通りは除雪が行き届いているが、こうした裏通りは雪が残り、轍が深く、表面が氷と化している。ハンドルを取られる場面もあり、このまま自動車で水天宮に行くのは無謀と思えた。そこで海宝楼(温泉施設?)の駐車場に車を止め、そこから歩くことにした。途中、何度も足を滑らせながら何とか水天宮に行き着いた。境内は一面雪に覆われていた。

実はこのあと中央霊園で永倉新八の墓を訪ねる計画であったが、この分ではどうせ霊園は雪に埋もれているだろうから、諦めることにした。というより、一刻も早く小樽を脱出したいという気持ちの方が強かった。小樽はいずれ再挑戦(リベンジ)する必要がある。



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雨竜

2014年04月12日 | 北海道
(雨竜史跡公園)


雨竜開拓の拠点 蜂須賀農場跡

新十津川町から国道275号線をさらに十キロメートルほど北上すると、雨竜町に着く。史跡公園は、雨竜開拓の起点となった蜂須賀農場跡である。蜂須賀茂韶は、明治二十二年(1889)、三条実美、菊亭修季らとともに雨竜郡に一億五千坪もの広大な土地の貸付を願い出て許された。彼らは華族組合雨竜農場を設立して開墾に着手したが、明治二十四年(1891)の三条の死により頓挫してしまう。そこで蜂須賀茂韶は、新たに六千町歩の官有地の貸し下げを受けて、蜂須賀農場を開いた。


史跡公園のアカマツ
史跡公園内の記念館は、やはり雪に閉ざされ行き着けず。周辺のアカマツは、蜂須賀茂韶が農場開設時に徳島の菩提寺から持ち込んで、自ら植樹したものという。


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新十津川

2014年04月12日 | 北海道
(新十津川町開拓記念館)


新十津川町開拓記念館

新十津川は、その名のとおり奈良県の十津川村の住民が拓いた町である。明治二十二年(1889)、豪雨に襲われた奈良県十津川村では死者百六十八名、家屋の全壊・流出四百二十六戸という甚大な被害を受けた。明治二十三年(1890)、約二千五百名もの住民が新天地を求めてこの地への移住を決断した。
開拓記念館は、この町の開拓の歴史を伝えるために昭和五十五年(1980)に開設されたものである。積雪のために近づくことすらできなかったが、遠目に見る限り、随分立派な建物である。

(新十津川町役場)


新十津川町役場

開拓記念館の写真すら撮れなかったので、代わりに新十津川町役場の写真を掲載しておく。


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