史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

上野 Ⅵ

2014年05月15日 | 東京都
(津梁院)
 寛永寺塔頭の一つ、津梁院の墓地には町田久成の墓がある。


津梁院

 町田久成は、天保九年(1838)鹿児島城下に生まれた。十九歳で江戸に出て昌平黌に学び、帰藩後、小姓組番頭、大目付となった。慶応元年(1865)藩命によりイギリスに赴き、森有礼ら留学生を監督した。帰国後、参与職外国事務局判事、長崎裁判所判事、外務大丞などを歴任した。明治四年(1871)、文部大丞に転じ、オーストリア国博物館御用掛、米国博覧会事務局長に任じられた。明治九年(1876)には内務大丞、内務大書記官になり、内国稼業博物館審査官となる。古書画、古器物の鑑定に詳しかった。薩摩閥を背景に栄達したが、一方で脱俗の風があり、園城寺法明院の住持桜井敬徳に帰依し、仏門に入って光淨院住持となった。遺言により法明院の桜井氏の墓域に葬られたが、のちに上野津梁院にも墓が作られた。明治三十年(1897)、六十で没。


一来比丘久成墓(町田久成の墓)


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嵐山

2014年05月10日 | 埼玉県
(水野家墓地)
 水野家墓地を探して付近を走り回った。勿論、町立図書館の郷土コーナーで事前に調査したが、まったく資料が見当たらない。あとはそれらしい場所を虱潰しに当たってみるしかない。さんざん走り回ってようやくたどり着くことができた。


水野家墓地

 比企郡志賀村(現・嵐山町志賀)出身の水野倭一郎は、文久三年(1863)の浪士募集に応じ、門弟を引き連れてこれに参加した。父清吾の旧門弟根岸友山の誘いを受けて参加を決めたようである。倭一郎は江戸に戻って、そのまま新徴組に五番組組頭として残った。新徴組が庄内に向った際、倭一郎も妻と三男令三郎を伴って庄内に下っている。慶応四年(1868)四月、庄内藩追討令が出されると、新徴組も戦時編成が行われた。同年九月十二日の関川小鍋口の戦いで令三郎は銃弾を受け、湯田川温泉に後送されて手当を受けたが、十一月三日、死去した。十九歳であった。湯田川温泉の長福寺新徴組墓地に令三郎の墓はあるが、当地の水野家墓地にも兄喜一郎が建てた顕彰碑が置かれている。倭一郎がいつ故郷に戻ったのかは不明であるが、明治のかなり早い時期に戻ったらしい。明治三十六年(1903)、八十二年の天寿を全うした。


水野令三郎顕彰碑


水野清吾年賀墓(倭一郎の父)

 水野倭一郎の父、清吾年賀の墓である。三段の台石には門人四百余名の名前がぎっしりと刻まれている。


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深谷 Ⅳ

2014年05月10日 | 埼玉県
(満福寺)


満福寺

 満福寺墓地には彰義隊士水橋右京之亮の墓がある。


彰義隊士水橋右京之亮之墓

 水橋右京之助は、(墓碑には彰義隊士とあるが)振武軍に属して飯能戦争に破れ、当地まで逃れて来た。しかし、官軍の追撃にあって銃弾を浴びせられたため、水橋は腹を一文字に掻ききって果てたと伝えられる。墓碑には「慶應四戊辰年 正月二十九日」と刻まれている。



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熊谷 Ⅲ

2014年05月10日 | 埼玉県
(大正寺)


大正寺 観音堂

 JR籠原駅の近くに所在する大正寺観音堂に中村定右衛門が慶応二年(1866)に奉納した額が掲げられている。


中村定右衛門の奉納額

 中村定右衛門は新徴組の剣術教授をしていた人で、諱は正行と称した。馬庭念流剣術を武蔵北部一帯に広めた剣術家であった。新徴組に在籍していた文久三年(1863)十二月、庄内藩が新徴組屋敷に「酒井左衛門尉屋敷」と墨書した大杭を建てたところ、これに憤慨した中村定右衛門と水戸藩の鯉淵太郎が、大杭を抜いてしまった。彼らの言い分は、「この屋敷は新徴組が公儀から賜ったものであり、藩侯酒井左衛門尉様に下されたものでない。」というものであった。本件で中村定右衛門がどういう処分を受けたのか不明であるが、大正寺観音堂の額には慶応二年(1866)の日付が入っていることから、ほどなく新徴組を脱退したものと思われる。
 「幕末維新埼玉人物列伝」(小高旭之著)によれば、山岡鉄舟撰文の「中村正行碑」が熊谷市新堀の中村家の庭に立てられているというが、いくら付近を探しても見つけられなかった。


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鴻巣 Ⅱ

2014年05月10日 | 埼玉県
(法要寺)


法要寺


岡安喜平次之墓

 法要寺墓地には、彰義隊士として戊辰戦争を戦った関彌太郎の墓がある。維新後は鴻巣に移り住み、岡安喜平次と名を変え長唄の師匠として生計を立てていたという。この墓碑はその門人らによって建てられたものである。


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川越 Ⅱ

2014年05月10日 | 埼玉県
(真行寺)


真行寺

 川越の真行寺には新選組渡辺市蔵の墓がある。渡辺市造は、三鷹の農民の出身。経緯は不明ながら、慶応三年(1867)秋頃、両長召抱人として入隊している。両長召抱人とは、近藤局長、土方副長が個人的に雇った小姓のことをいう。しかし、鳥羽伏見の戦争の前には脱隊しており、新選組在隊期間は数か月に過ぎない。その後は武蔵川越に居住した。明治四十一年(1909)没。墓は「松田家之墓」となっているが、傍らの墓標に「釋光因信士 明治四十一年四月八日 俗名 渡辺七造」と記されている。かつては古い墓石が残っていたようであるが、平成十九年(2007)に新しく建て替えられたものである。


松田家之墓(渡辺市造の墓)


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広尾 Ⅱ

2014年05月05日 | 東京都
(祥雲寺)


太陽院殿前甲州刺史春窓宗華大居士
(黒田長義の墓)

 筑前秋月藩十一代藩主黒田長義の墓である。長義は万延元年(1860)、父の隠居に伴い家督を継いだ。しかし、わずかその二年後十六歳の若さで病死。


濱野定四郎墓

 濱野定四郎は、中津藩士。元治元年(1864)、帰郷した福沢諭吉に伴われて出府、慶応義塾に入塾した。明治十一年(1878)、慶應義塾の塾長に選ばれた。明治四十一年(1908)退職。翌明治四十二年(1909)死去。享年六十六。


織田家之墓

 大和柳本藩主織田信成の墓である。文久三年(1863)八月の天誅組の挙兵では鎮圧のために兵を送っている。慶応四年(1868)五月、病のため家督を実弟信及(のぶひろ)に譲った。明治三十一年(1898)、五十七歳にて死去。

(香林院)


香林院

 香林院は、大給松平家の菩提寺として寛文五年(1665)に建立されたもので、開基は大給亘の先祖、真次の法名に因んで香林院と名付けられた。大給亘の墓は祥雲寺の墓地にある。

(東北寺)


東北寺

 東北寺は、佐土原島津家の江戸における菩提寺である(渋谷区広尾2‐5‐11)。本堂の裏の少し小高くなっている丘の上に島津家の墓地がある。


従二位勲二等島津忠寛之墓

 最後の佐土原藩主島津忠寛の墓である。戊辰戦争が始まると、宗藩に従って新政府軍に兵を送った。戦後、賞典禄三万石を下賜されている。明治二十九年(1896)死去。六十九歳であった。


従二位勲三等伯爵島津忠亮之墓

 島津忠亮は、忠寛の長男。明治二年(1869)にはアメリカに留学している。明治十二年(1879)、初代赤坂区長。その後、貴族院議員などに就いた。明治四十二年(1909)没。


島津啓次郎之墓

 島津啓次郎も忠寛の子であるが、庶子(非嫡出子つまり妾の子)であった。司馬遼太郎先生は「この事情が、たださえ性格が矯激で頭のいいこの少年の中に、激しやすい心を育てた。」(『翔ぶが如く』(地鳴))と評している。勝海舟の推薦を受けて、明治三年(1870)、薩摩藩の藩費留学生としてアメリカに留学した。明治九年(1876)九月、帰国。西南戦争が勃発すると、島津啓次郎は佐土原隊二百を率いて参戦した。欧米社会を経験して当時の最先端の知識を吸収した啓次郎が、薩軍に身を投じた理由は明らかではない。薩軍が必ずしも士族の復権を主張する保守的な集団ばかりではなく、様々な思惑を持つ集団であったことの一つの証左である。島津啓次郎は、最後まで薩軍と行動を共にし、城山で戦死している。しかしながら、官軍兵士は薩軍戦死者の遺体を膾のように切り刻んだため、彼の遺体は特定されなかったという。近くに島津家の家紋の入った刀があった遺体を啓次郎のものとして浄光明寺墓地(現・南洲墓地)に埋葬した。年わずかに二十一であった。


遊川家之墓(樺山久舒の墓)

 東北寺の樺山久舒(かばやまひさのぶ)の墓を探して、三度東北寺墓地を歩いた。なかなか発見できないのも道理で、樺山久舒は遊川家の墓に合葬されている。傍らの墓誌に「功岳院道安高舒大居士」という久舒の戒名と没年月日が記されている。
 樺山久舒は、天保五年、日向佐土原に生まれた。嘉永六年、藩公島津忠寛に出仕した。文久三年(1863)には生麦事件の解決のため、薩摩藩の重野安繹らとともにイギリス公使を相手に折衝を重ねた。戊辰戦争では隊長として佐土原藩兵を率い、鳥羽伏見から上野戦争、会津攻城戦まで戦った。維新後は佐土原藩権第参事。明治十一年(1878)には上京して検事となった。明治四十五年(1912)、八十一歳にて死去。

(法雲寺)
 法雲寺には、勝海舟門下で米国留学を経験し、外交官として活躍した高木三郎の墓があるというので法雲寺墓地を歩いた。高木家の墓地は二つあったが、高木三郎が葬られているのは、墓地北側に位置する横長の墓である。


法雲寺


高木家之(高木三郎)墓

 高木三郎は庄内藩主の次男に生まれ、幼少より俊秀の評判が高く、世子酒井忠恕の相手役をつとめた。安政六年には藩命により海軍操練所に入学し、のちに塾頭となった。慶応三年(1867)にはアメリカへ留学。維新後、ニューヨーク領事など外交官として活躍した。明治十三年(1880)に外務省を辞し、横浜同伸会社の取締役に就き、生糸の販路開拓、養蚕製糸の改善に尽くした。明治四十二年(1909)六十九歳で死去。

(麻布学園)


江原素六先生像

 全国でも有数の進学校として知られる麻布学園は、江原素六が明治二十八年(1895)、麻布中学校を創立し、自らその校長に就いた。江原素六は寮内で生徒と寝食をともにするなど、青年教育に全力を傾注した。大正十一年(1922)、麻布中学校生三百人と箱根に遠足した三日後、脳溢血で死去した。享年八十。
 学校に入ると、すぐの場所に江原素六の胸像がある。


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大森 Ⅱ

2014年05月05日 | 東京都
(大森警察署)


丁丑之役戦死並従軍者記念碑

 大森警察署の東南側、国道131号沿いに「丁丑之役戦死並従軍者記念碑」と刻まれた石碑が建てられている(大田区大森中1‐16)。書は山縣有朋。この場所にかつて大森区役所があったことから、敷地内に碑が建立されたものである。大森村から丁丑之役=西南戦争に従軍した兵士を記念したもので、その隣には日清戦争従軍記念碑も建てられている。篆額は、やはり山縣有朋。


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鎌倉 Ⅱ

2014年05月05日 | 神奈川県
(鎌倉霊園)
春風に誘われるように鎌倉を訪ねた。鎌倉駅周辺は観光客でごった返していたが、駅を降りるとすぐにバスに乗って鎌倉霊園に向かう。約二十分で正門前である。昭和四十年(1965)に開園された鎌倉霊園は、五万五千㎡(約十六・七万坪)という広大な敷地を誇っている。小高い場所から見下ろすと、その広さを実感することができる。山本周五郎や子母澤寛といった有名な作家が眠る。


秋山家(秋山真之の墓)

 「坂の上の雲」の主人公、秋山真之の墓である。もとは青山霊園にあったが、この地に移設されたものである。墓石の裏に「秋山真之 大正七年二月四日 行年五十一才」と刻まれている。
 秋山真之は、慶応四年(1868)松山城下に生まれた。明治二十三年(1890)海軍兵学校を首席で卒業し、日清戦争にも従軍した。明治三十一年(1898)、アメリカに留学し、そのときアメリカ軍が実行したサンチャゴ港閉塞作戦を見学した。この時の経験がのちの旅順港閉塞作戦に活かされたといわれる。日露戦争では、連合艦隊司令長官東郷平八郎のもとで作戦参謀として旗艦「三笠」に搭乗し、日本海海戦における勝利に貢献した。大正七年(1918)、療養先の小田原対潮閣にて死去。【十七区九側】


山本周五郎墓

 山本周五郎は本名清水三十六(みとむ)といい、山梨県都留郡初狩村の出身。小学校卒業後、質店に丁稚奉公し、新聞・雑誌記者などを経て作家となった。昭和十八年(1943)には連作『日本婦道記』で直木賞に選出されたが辞退。昭和三十三年(1958)に発表した『樅の木は残った』でその名を不動のものとした。昭和四十二年(1967)、病死。享年六十三。【二十九区四側】


梅谷家之墓(子母澤寛の墓)

 子母澤寛の墓である。墓石には本姓である梅谷家と刻まれている。子母澤寛は、本名梅谷松太郎といった。北海道石狩郡の出身。大正七年(1918)、読売新聞社に入社。のち東京日日新聞に移った。記者の傍ら、古老の聞き書きを集め、昭和三年(1928)、『新選組始末記』を発表。以後、次々と歴史小説を発表し、人気を博した。随筆の名手としても知られる。昭和四十三年(1968)、死去。七十六歳。【四区五側】


足立家之墓

 足立林太郎の墓は、広大な鎌倉霊園の敷地の中でももっとも奥の三十五区に在る。傍らの墓標に「正七位 足立民治 大正八年八月十六日没 行年七十三才」とあるのが、足立林太郎である。
 足立林太郎は慶応三年(1867)六月以降に新選組に入隊し、翌年一月に鳥羽・伏見の戦いにも参加したが、そこで負傷。江戸帰還後に脱走した。維新後は開拓使、札幌区会議員などを勤めた。【三十五区三側】


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「ビゴー日本素描集」「続ビゴー日本素描集」 清水勲編 岩波文庫

2014年04月27日 | 書評
近々、実家が大阪から京都に引っ越すというので、両親が片付けに追われている。この本は父親の本棚から出てきたもので、昭和六十一年(1986)に発刊された、少し古い本である(続編の方は、平成四年(1992)の発刊)。
フランス人ビゴーは、明治十五年(1882)二十一歳のとき来日し、明治三十二年(1899)までの十八年間、日本を描き続けた風刺画家である。その旺盛な好奇心と観察眼、取材意欲に圧倒される。
冒頭紹介されているのは、明治二十二年(1889)に東京・神戸間が開通した東海道線の様子である。当時の車両は一等から三等に分れていた。当時、新橋―神戸間の三等車両の運賃は三円七十六銭。二等は、その倍以上の七円五十三銭。一等になると十一円二十八銭というから、三等の三倍以上となる。当時の巡査の初任給が八円というから、運賃の水準が実感できるだろう。ビゴーは卓越した観察眼で、一等・二等・三等の乗客を描き分ける。一等の乗客となると、華族、高級官僚、実業家という富裕層である。現代でも「格差社会」が問題になっているが、明治のわが国は、現代以上に格差社会であったことが一目瞭然である。
この時代の人たちのファッションにも注目である。和服に西洋風の帽子と色眼鏡を着用し、足もとは草履や下駄という和洋折衷のいでたちが目につく。ビゴーにしてみれば、このファッションだけでも十分笑えただろう。日本人にとっては当たり前で記録するに値しないような事柄でも、外国人であるビゴーには興味の対象となったのである。ビゴーのスケッチを通じて、我々は当時の風俗を知ることができる。登場する日本人の多くが出っ歯の猿のように描かれているのは少々気になるが…
ビゴーは明治十五年(1882)から二年間、陸軍士官学校の画学教師を務めた。その立場を利用したものか、普通では目にすることができないような軍の内側をいつくも描いている。身体検査の様子や、酔っ払って朝帰りする兵士の姿、憲兵につかまって兵営に連れ戻される脱走兵など、今となっては貴重な証言である。
次に紹介されている「芸者の一日」「娼婦の一日」では、さらに裏舞台に潜入している。上半身裸になって洗顔する娼婦や入浴する芸者など、どうやってスケッチしたのか分からないが、相当な執念がないと描くことができないものである。
続編の方では、日露戦争へと突き進む日本の事件を対象にしたものを多く紹介している。第一回総選挙や鹿鳴館の様子を描いた風刺画は、今日、我々が風刺画と聞いて連想するような(たとえば山藤章二氏の風刺画のような)アイロニーの効いた作品となっている。
著者清水勲氏は、漫画・風刺漫画研究の第一人者。ビゴーの観察眼も鋭いが、そのビゴーの風刺画を見る著者の眼もまた鋭い。


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