史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

江別

2014年04月12日 | 北海道
(榎本公園)


津石狩(対雁)番屋跡

次に訪れたがのが、江別市の榎本公園である。この場所はかつて対雁(津石狩)の番所が置かれたところで、鮭漁と内陸水路交通の要点として賑わったという。
慶応四年(1868)には、立花由松という人物が江別最初の和人としてこの地に定住し、それを皮切りに明治四年(1871)には宮城県から七十六名が入植し、同九年(1876)にはサハリン(樺太)から八百五十四人ものアイヌ人が移住させられている。周辺には製鉄所や学校ができ、殷賑を極めた。しかし、明治十五年(1882)鉄道が開通すると人の流れは江別・野幌に移り、さらに明治十九年~二十年にかけて流行したコレラのために三百人以上が病死する惨事に見舞われた。今では周囲には工業団地が広がっているだけの、どちらかというと人影の少ない場所となっている。
対雁番所跡地は、現在榎本公園となっているが、積雪のために公園内には一歩も入れない。榎本武揚の騎馬像を遠くに眺めることが精一杯であった。


榎本武揚像



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌 厚別区

2014年04月05日 | 北海道
(北海道開拓記念館)
結論からいうと、この時期の北海道は史跡訪問には適していない。三月下旬とはいえ、関東でいえば真冬に匹敵する。北海道は自動車社会であり、主要な道路は除雪が進んでいる。除雪されないと死活問題だからである。その点では、少し雪が積もったら公共交通機関が麻痺し、あちこちで自動車が立ち往生してしまう関東地方とは格段の違いがある。しかし、一歩脇道に入れば雪は残っているし、残った雪は人や車に踏み固められてスケートリンクのようにツルツルだし(私は二回転倒しました)、公園や資料館の多くは除雪が行き届かずとても中に入れる状態ではないし、地方の資料館は基本的に冬期休業であるし、石碑や墓地も雪に埋もれているし、それに何よりも寒い。朝夕は氷点下まで冷え込むが、日中でも二~三度くらいしか温度が上がらない。泣き言になってしまうが、やっぱり九州の方が良かったと後悔することになった。

里塚霊園の永倉新八、前野五郎(ともに元新選組隊士)の墓を目指した。さすがにこの天候では、いかにお彼岸とはいえ、墓参りに来ている人の姿もない。しかも墓石はすっかり雪に埋もれており、とてもでないが目当ての墓を探すことはできる状態ではなかった。


北海道開拓記念館

仕方なく次の目的地である北海道開拓記念館を目指した。しかし、こちらも改修のため来年(2015)まで閉館中ということで、建物を見るに留まった。この記念館は北海道開道百年を記念して、昭和四十六年(1971)に開設されたものである。


北海道開拓の村

北海道開拓記念館には開拓の村という一種のテーマパークが隣接している。こちらは営業していたが、入場料六百八十円(因みに夏期は八百円)を惜しんで見送った。
園内には明治から昭和初期にかけて北海道各地に建築された建造物五十二棟を移築展示している。時間に余裕があれば、一見の価値はあると思う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌 白石区

2014年04月05日 | 北海道
(白石神社)
札幌市白石区は、その名のとおり、戊辰戦争で敗れた白石城主片倉小十郎とその家臣が移住したことから始まる。彼らは明治四年(1871)九月、咸臨丸と庚午丸に分乗して北海道を目指し、途中咸臨丸が木古内沖で座礁沈没する不運に見舞われながら上陸し、うち佐藤孝郷以下六十七名が現在の白石区中央付近に入植した。時の開拓使判官岩村通俊によって白石村と名付けられた。


白石神社

明治四十四年(1911)、白石開村碑が白石神社内に建立された。白石神社の本殿の裏手に立てられており、分厚い雪により近づくことができない。雪に足を取られつつ、やっとの思いでこの写真を撮影した。ほかに白石開基百年碑や開村五十年碑などもあるはずだが、靴の中まで雪まみれになってしまい、ここで撤退するほかはなかった。


白石開村碑


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌 豊平区

2014年04月05日 | 北海道
(羊ケ丘展望台)
 二日目の午前中は、羊ケ丘展望台で過ごした。有名なクラーク博士の「少年よ、大志を抱け」の像がある場所である。
 本来、クラーク博士像の向う側には、牧草地が拡がるが、この日は見渡す限りの雪原であった。


クラーク博士像


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌 西区

2014年04月05日 | 北海道
(琴似神社)


琴似神社

琴似周辺(現在、琴似神社のある辺り)も、多くの屯田兵が入植したところで、琴似神社境内には屯田兵屋が保存されているらしいが、どういうわけだか見つけられなかった。路面はツルツルに凍っており、私はものの見事にひっくり返って背中から落ちた。


琴似屯田兵屋



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌 東区

2014年04月05日 | 北海道
(サッポロガーデンパーク)


麦とホップを製すればビイルとゆふ酒になる

 「麦とホップを製すればビイルとゆふ酒になる」という文言は、明治九年(1876)、開拓使醸造所開業式の際、ビール樽に記されたものと同じものである。

 初日の夕食は、サッポロビール園でジンギスカンである。ジンギスカンが好物というわけではないが、サッポロビール園にはこだわった。厳密にいえば、サッポロビール博物館が個人的には見逃せないスポットであった。


サッポロビール博物館

 サッポロビール博物館では、サッポロビールの歴史を学ぶことができる。いきなり最初のコーナーで、黒田清隆と並んで、村橋久成や中川清兵衛といったサッポロビール創業に関わった人物を紹介している。ロンドン大学で村橋久成の名の刻まれた石碑を実見し、与板(現・新潟県長岡市)で中川清兵衛の生誕地を訪ねた私としては、感涙ものの展示であった。
 村橋久成は、天保十三年(1842)、薩摩の名門、加治木島津家の分家に生まれた。慶応元年(1865)、藩の密留学生の一員に選ばれ、ロンドンに渡航した。帰国して戊辰戦争では官軍に加わった。明治四年(1871)、黒田清隆が次官を務める北海道開拓使に採用され、やがて麦酒醸造所建設の事業責任者となった。村橋は麦酒醸造所の立地について、一旦東京に決定したのを、北海道に変更することを強く主張し、結局村橋の主張が容れられ、札幌における開拓使麦酒醸造所建設が決定された。サッポロビール生みの親と称される所以である。
 明治十五年(1882)、村橋は突然官を辞し、行方をくらました。彼の存在が報じられたのは、その十年後の明治二十五年(1892)であった。神戸で、行き倒れ同然の死を迎えたのである。このとき彼は雲水姿をしていたという。この十年間、彼がどういう生活を送っていたのか、誰にも分からない。維新後、我が世の春を謳歌した薩摩人は多いが、村橋にもその権利は充分あったはずである。どうしてその権利を放棄したのか。村橋久成の人生は謎に満ちている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌 北区

2014年04月05日 | 北海道
(北海道大学)
 北海道大学の正門前に「新選組隊士永倉新八来訪の地」と記された小さな説明板が置かれている。永倉新八は、維新後杉村義衛と名を改め、北大剣道場などで剣術指南をして過ごした。大正四年(1915)、小樽の自宅でその劇的な生涯を閉じた。享年七十七。


東北帝大農科大学内演武場跡

(清華亭跡)


清華亭

 開拓使判官に任じられた岩村通俊は、札幌市内の南に遊興地すすきのをつくる一方、北に偕楽園をつくった。偕楽園は札幌で初めての公園といわれる。現在、偕楽園は縮小して、わずかに付近にその面影を伝えるのみとなっているが、その中心に置かれたのが、清華亭であった。清華亭が建てられたのは、明治十三年(1880)のことで、明治十四年(1881)、明治天皇が札幌農学校を視察した際、小休所として利用された。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌 中央区

2014年04月05日 | 北海道
当社には勤続三十年に達すると表彰され、副賞として旅行券がいただけるという有り難い制度がある。今年、受賞することは前々から分かっていたので、随分前からどこにしようか家族で話し合ってきた。個人的には長崎に行きたいと思っていたが、次女が修学旅行で訪れることになっているらしく、この案はあっという間に却下されてしまった。では外国はどうかと水を向けてみたが、誰も興味を示さない。嫁さんは温泉が良いというし、「鉄ちゃん」の息子は電車で北陸に行きたいというし、てんで話がまとまらない。因みに我が家は五人、全員の血液型がバラバラという、まとまりのない家族である(通常、血液型は四種類しかないので、五人家族であれば一組はダブりがでるものであるが、息子は高校二年にもなっているのに、未だ血液型不明であるため、現時点では五人バラバラとなっているのである)。
そういう中で浮上したのが、北海道である。私と息子は昨夏に道南を旅行したばかりであったが、長女と次女は北海道に行ったことがないし、嫁さんも温泉に行けるのであれば異存はないという。息子も寝台特急「カシオペア」利用することを条件に賛成したので、北海道行が決定した。


カシオペア号

 上野駅を午後四時二十分に出て、札幌到着は翌朝の九時三十二分である。実に十七時間もかかる。飛行機であれば千歳―羽田間は二時間足らずというのに…。昨今では、早割だの特割などがあって、さらにLCCなども参入し、飛行機も随分安くなった。時間とお金にゆとりのある人でないとなかなか「カシオペア」を利用しようという気になれないかもしれない。
ようやく札幌駅に到着した。早速市内散策に出かける。

(時計台)
 まずは定番の時計台である。建設当初、時計はなく、明治十四年(1881)、時の開拓長官黒田清隆の指示を受けて、設置されたものである。
 入場料は大人二百円。一階は展示スペース、二階は大ホール(旧・演武場)となっている。


時計台


「演武場」 従一位具視

 時計台正面に掲げられている「演武場」木額の文字は、岩倉具視の筆によるもの。

(札幌市役所)


島義勇像

 家族が時計台を見学している間に、時計台の向いにある市役所を訪ねる。ロビーに島義勇の像が置かれている。
 台座には、明治二年(1869)、開拓判官に任じられた島義勇が、意気込みをこめて詠った漢詩が刻まれている。

 河水遠流山峙隅 河水遠く流れ山隅に峙つ(そばだつ)
 平原千里地膏腴 平原千里の地膏腴(こうゆ)
 四通八達宜開府 四通八達宜しく府を開くべし
 他日五洲第一都 他日五洲第一の都

※膏腴=地味が肥えていること。その土地。

(市民ホール)


豊平館跡

 市民ホールの前に豊平館があったことを示す石碑がある。本来、石碑もあるはずだが、雪に埋もれていて、見ることができなかった。こういうこともあろうかと、実は園芸用のスコップを持参していたのだが、そもそも石碑のある場所に近づくことすらできないのでは、スコップが活躍する場面はなかった。
 豊平館は明治十三年(1880)に建設された、官営の洋風ホテルである。起工すると最初の来賓として明治天皇を迎えた。
 ホテルとしての役割を終えた豊平館は、永らく公会堂が併設されて利用されていたが、昭和三十三年(1958)年に中島公園内に移設された。

(住友生命札幌中央ビル)


クラーク博士居住地跡(開拓使本陣跡)

 当所の計画では、札幌駅で初日の昼食を取ることにしていたが、計画を変更して二条市場にて海鮮丼を食べることにした。テレビ塔から二条市場に向かう途中、住友生命札幌中央ビルの前にクラーク博士住居跡碑が置かれている。
 クラーク博士は、明治九年(1876)、明治政府の招きにより、札幌農学校初代教頭として着任した。宿舎は開拓使本陣と呼ばれる建物で、明治十年(1877)に帰国するまで、ここで起居した。
開拓使本陣は、明治五年(1872)に竣工したもので、木造平屋建て建造物としては当時最大のものであった。

(北海道神宮)


北海道神宮

 家族が円山動物園を楽しんでいる間に、一旦動物園を出て、向いにある北海道神宮を訪ねた。
 北海道神宮は、明治二年(1869)に創建されたものである。境内には島義勇の像がある。


島義勇像

 島の北海道開拓使判官としての任期はわずかに三か月余りであったが、北海道開拓の父として市民に慕われている。
島義勇は、文政五年(1822)佐賀城下に生れた。通称を団右衛門といった。藩校弘道館で学び、天保十五年(1844)からは諸国を遊学して、佐藤一斎、藤田東湖、林桜園らに学んだ。安政三年(1856)には藩主鍋島直正(閑叟)の命を受けて、箱館奉行堀利熙の近習として、蝦夷地と樺太を二年間に渡って巡検した。明治二年(1869)閑叟が蝦夷開拓督務に任じられると、蝦夷地を調査した実績が買われ開拓使判官に就任する。京都のような碁盤の目状の整然とした街並みを目指して札幌の街の建設に着手した。しかし、厳寒で雪の多い札幌での工事は計画通り進捗せず、多額の想定外の出費を要したため、明治三年(1870)解任された。その後、侍従、秋田権令などを歴任したが、明治七年(1874)、佐賀憂国党の党首に担がれ、江藤新平とともに佐賀の乱を起こした。佐賀の反乱は短期間で鎮圧され、島は斬罪に処された。

(円山公園)


岩村通俊像

 二日目の朝、息子とともに五時半過ぎにホテルを出た。息子は札幌駅で電車の写真撮影をするという。私は朝食までの時間の許す限り、市内の史跡を訪ねることにした。

 前日尋ねた円山動物園に隣接する円山公園には、岩村通俊像や島判官紀功碑がある。園内は雪が厚く残っており、やっとの思いで岩村通俊像に近づくことができた。
岩村通俊は天保十一年(1840)、岩村英俊の長男として土佐国宿毛に生れた。次弟は林有造、三弟は岩村高俊という三兄弟である。酒井南嶺の下で学問を修め、岡田以蔵に剣術を学んだ。明治四年(1871)島義勇のあとを受けて開拓使判官に就任し、札幌の開発を進めた。明治六年(1873)には佐賀県令に転じた。明治十年(1877)西南戦争のさなか、鹿児島県令として赴任した。その後も元老院議官、会計検査院長、沖縄県令、司法大輔、農商務大臣、宮中顧問官、貴族院議員などを歴任した。大正四年(1915)七十四歳にて死去した。


島判官紀功碑

(北海道知事公館)


村橋久成胸像

 今回の旅の目的の一つが、北海道知事公舎にある村橋久成像を訪ねることにあった。しかし、残念なことに、知事公舎は、冬期は閉鎖されていた。門から覗くと、すぐそこに村橋の胸像が見える。木の枝が邪魔をして、像の顔が見えない。胸像には「残響」という、田中和夫氏が村橋を主人公として描いた小説のタイトルが付けられている。
 村橋久成胸像を訪ねるのは、次の機会に持ち越しすることになった。

(札幌第一ホテル)


飯沼貞吉ゆかりの地

 札幌第一ホテルの駐車場の一角に、会津藩白虎隊の生き残り隊士、飯沼貞吉ゆかりの地と刻まれた三角形の石碑が置かれている。
 飯沼貞吉は、戊辰戦争後、通信技師として生計を立てた。飯沼貞吉が逓信省の札幌郵便局工務課長として来道したのは、明治三十八年(1905)のことである。飯沼は、札幌、旭川、小樽、室蘭など、道内の主要都市の通信網整備に尽力した。石碑のあるこの場所は、飯沼貞吉が居を構えたところである。

(護国神社)


護国神社

中島公園に隣接する札幌護国神社は、西南戦争に従軍して戦病死した屯田兵の霊を慰めるために創建されたものである。境内には多数の石碑があるが、一番奥まったところに屯田兵招魂碑が建立されている。屯田兵の西南戦争における戦死者は七名、戦病死者は二十名、負傷者は二十名といわれる。


屯田兵招魂之碑

(郵政研修所)


前島密胸像

郵政研修所の前に前島密の胸像がある。
郵政研修所には鍵がかけられており、構内に進入することはできなかった。やむ無く望遠レンズで撮影したが、ご覧のとおり、頭から雪をかぶった、ちょっと滑稽な風貌になってしまった。

(山鼻小学校)


明治天皇御駐輦之地碑

明治十四年(1881)、札幌行幸中の明治天皇が山鼻兵村を訪れたことを記念した石碑である。当時、山鼻には屯田兵が駐屯しており、山鼻小学校のある辺りは練兵場として利用されていたそうである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「明治維新草莽運動史」 高木俊輔 勁草書房

2014年03月29日 | 書評
古本屋で書籍を漁っていて、たまたま出会った本である。ちょうど今から四十年前の昭和四十九年(1974)に刊行されたもので、ページは少し赤茶けているが、内容は新鮮である。
本書は、大学の授業で使うようなハードカバー本であるが、アカデミックな本に似合わず生野の変や相楽総三の赤報隊、花山院党の挙兵などを取り上げているので、(古本であっても決して安価ではなかったが)入手することにした。
タイトルにある「草莽」については、「大枠として草莽意識を荷担する下級武士から神官・僧侶・豪商農」と定義している。要するに藩や幕府といった背景を持たない活動家(本書ではしばしば「根なし草」と表現されている)というイメージであろう。
「草莽」といえば、直ちに連想するのが吉田松陰の「草莽崛起論」である。当然、本書でも松陰の「草莽崛起論」に触れているが、筆者の視線は意外と冷静・中正である。「時には幕吏の討滅を叫びながらも公武合体論者以外にはなりえなかった」という指摘は、松陰の限界を示すものであった。安政の段階で松陰の思想は突出していたが、それでもこの時期においてはこれが限界というべきであろう。
生野の変に参加した浪士を、脱藩していてもいずれ出身藩に復する志向性を持つグループとそうでないグループに分けたり、地元豪農を事変に積極的に参加したグループと消極的に参加グループ、関与しなかったグループに分類したりという手法は面白かった。実際、生野の変に参画した浪士は、ほとんど出身藩との連携はなかったので、(強いていえば薩摩藩出身の美玉三平が、挙兵直前に国元の有志に宛てて決起勧誘状を発信したくらい)、浪士を二つのグループに分ける意味は、こと生野の変に関しては希薄だと思う。実際、著者の分類でも出身藩との繋がりのない浪士は、膳所藩出身の本多素行一人となっている。
一方、地元豪農を類型化したのは有効であった。第一のグループの代表格が中島太郎兵衛であろう。彼らは質地を獲得するなどして、豪農化していったが、一方で養蚕に手を出し経済的に苦境に陥っていた。中島太郎兵衛は、文久三年一月の時点で妻と離別したが、「尊皇攘夷の実行に並々ならぬ決意」であったと言われる。実は中島太郎兵衛の妻は、大庄屋の正垣家の出身であった。正垣家は急激に家産を拡大しており、経済的にも安定していて、生野挙兵にも消極的だったと言われる。太郎兵衛が妻と離縁したのも、両家の置かれた状況を見れば故なきことではなかったと思われる。
相楽総三の赤報隊が、新政府から弾圧された理由を最終的に財政問題と結論付けている。そのこと自体に目新しさはない。本論で私が新鮮味を感じたのは、桜井常五郎に関する記述である。桜井常五郎は、「暴徒」「賊徒」と悪く評価されることが多いが、筆者は「桜井隊の動きの中に芽生えていた地域の変革の方向は、佐久郡の小前農民の郡中名主罷免運動などに引きつがれていった」と、その存在意義を評価している。
ほとんど触れられることのない花山院隊について詳述しているのも嬉しい。花山院隊は、ちょうど赤報隊と同じ時期、北九州で挙兵した草莽隊の一つである。天草陣屋や豊前四日市陣屋を襲撃し、一応の成功を収めたが、やはり赤報隊と同じく新政府の弾圧を受けて壊滅した。「花山院隊」と呼ばれているが、盟主に担いだ花山院家里が合流する前に、実に呆気なく鎮圧されている。しかも薩長両藩の手によってである。時期は鳥羽伏見の直後であり、旧幕府の陣屋を制圧するというのは、一見すると新政府の方針と合致しているように思うが、それでも薩長両藩が花山院隊を弾圧したというところに、彼らの草莽隊に対する姿勢が見て取れる。
文久三年(1863)から翌年にかけて、九十九里地方で発生した真忠組事件については、私も本書で初めてその概要を知った。あっという間に周辺の諸藩によって鎮圧されてしまったため、ほとんど小説等には取り上げられることのなかった事件である。著者は真忠組が「世直し」と結びついていたことを指摘している。
本書で取り上げられる草莽は、これまで紹介した以外にも、高松実村隊や第二奇兵隊のことにも及ぶ。著者の視点は常にこれら草莽諸隊が、民衆の動きや世直しと連携していたかに注がれている。いずれもユニークで新鮮な切り口であった。ただ、私の理解している限り、生野の変における農兵の打ち毀しは、変を指導した首謀者らの意図したものではなく、多分に武装化した農兵による偶発的なものである。著者は「単にそのような一時的な問題にかぎられたものではなく、但馬地方の社会的・経済的矛盾に根ざしていた」とするが、そういう側面も潜在していたにせよ、全面的に世直しを企図した打ち毀しとするのも抵抗がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「幕末奇談」 子母澤寛 中公文庫

2014年03月29日 | 書評
今から八十年近く前に発刊された子母澤寛の作品である。「幕末研究」と「露宿洞雑筆」の二編が収められている。これを読むと、子母澤寛という人は、根っからの小説家だったのだと実感する。本書でも随所に「小説にしたら面白かろう」といった子母澤寛のつぶやきに出会う。新選組三部作などを読んでも、どこまでが史実で、どこからが作者の創作なのか見分けがつかないが、ひょっとしたら子母澤自身も区別がつかなくなっているのかもしれない。
彼の興味の範囲は、幕末に起こった事件に留まらず、四谷怪談や番町皿屋敷といった、所謂怪談奇談の類にまで及ぶ。作家が小説を作るためのネタ帳のような側面もある小品集である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする