夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

大寒に部屋籠もり

2008-01-22 07:24:33 | つれづれなるままに
 日めくりの暦を見ていれば、「大寒」などという二十四節気の言葉が現れて気持ちも豊になる気がしている。しかし「大寒」と言っても言葉上であって、この度はなんだか毎日が一番寒いという感じもしている。小寒と立春の間をいうと辞書には書いている。とはいうものの同じ寒さでも、この時期の寒い暑いはほんの2℃くらいでも、変化を感じてしまう。朝方冷えても最高気温が2,3℃にも上れば、室内では「きょうはちょっと暑いんじゃない?」という会話が交わされている。事務室内にはパソコンが6台あり、そのほか印刷機械が2台あることも、事務室内が余計に暑いのも原因かも知れない。
 私は朝から自室に籠もって孤独に浸った。というのも生活支援ネットワークライフという組織からの依頼で26日に研修会が開催されることになり、60分間の講話を2名で2単位行うことになっている。テーマは「一人ひとりの生命に向き合って」である。30数年間の福祉の道の中で、出会ってきた一人一人を思うとみんな素敵ないのちだなあと思えてくる。ことにしょうがい者福祉の世界に入ってこうしてある程度その人たちの傍に寄り添っていると、一人ひとりの成長の時間軸が多少あるいはかなり違っていることに気付いてくる。私の娘たちを軽々抱いて排泄習慣をつけることや楽しみの獲得、移動することを繰り返し継続して来た先の見えない日々の繰り返し。それが目の前の娘たちが自然に身につけて行っているのを見ると、彼女たちの緩やかな学びがようやく見えてくる。親のかすかな願いのようなものかも知れないが、重い制約を身につけて産まれてきても、諦めることはないんだぞと今更ながら彼女たちから教わっているのだ。そして親としてようやく彼女たちから自信をもらえるのである。言葉が話せないとか、歩けないとかの制約があっても、内在する能力は計り知れない。諦めないで語り続け、めげないで希望を持って共に生きて行くことが、10年単位の歴史の中でやがてじわりとやって来る光明があるのだ。そういうものも制約者の親の喜び方としてあることを感じている。大寒の次は春なのだから。

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4 コメント

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素敵な話 (ふんわり)
2008-01-22 15:36:11
今回のはなしは、ジーンときました。30年頑張ってこられた、一つの区切りのような気がしました。そして、また新たなスタートというか・・・命には上下がない!本当にそうだと思いました。命は授かった意味があるし、そこのお家に生まれたことにも意味があるのですね。

私も、子ども達と日々格闘していますが、見方が麻痺していたところでしたので、本当に、タイムリーなお話でした。

素敵なお話をありがとうございます。
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ふんわりさんへ (なりたはるみ)
2008-01-22 16:11:06
 温かなコメントをいつもいただきありがとうございます。
 重度のしょうがい者として、たまたま生まれて来たとしても、その重たい制約があるからこその輝きは計り知れないものがありますね。
 どんなに微弱な力でも、自ら生きようとする呼吸の力、人の愛を感じて表しているかけがえのない笑顔。何かを伝えようとしているわずかなサイン。すべてがいとおしく思える彼らの自律の姿ではないでしょうか。彼らに出会ってよかったと、今更ながら思う日々です。
 
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制約って (紅まどんな)
2008-01-23 02:11:19
制約って何だろうって思うときがあります。周りが、他の人と比較するから制約と感じるのでは、健常者が幸せと思うから出来ないことを制約と呼ぶのでは?出来ないことを制約というなら、制約のない何でも出来る人が本当に幸せだろうか?私の子を見ていても、自分に制約があるとは感じていないはず、今の自分しか知らないから。小さな世界で幸せそうに生きています。時々あまり楽しそうでこちらまで嬉しくなる時があります。確かにそこには自由な心があります。人の価値は神様から見て全うに生きることで決まると思っています。彼らが全うに持てる力を惜しみなく使い生きていることを思うと、はたから見て制約がこんなにあるのに、制約のない私たちよりずっと自由なんじゃないかと思えてきます。
くどいコメントでごめんなさい。
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紅まどんなさんへ (なりたはるみ)
2008-01-23 06:48:42
 コメントありがとうございます。制約のある者は誰かという問いの中で、確かに精神性においては紅まどんなさんのおっしゃるとおり「自由」でしょうね。
 我が子も時にあまりにも自由すぎて、その自由さが社会の中ではまだ排除の対象になることがあります。たとえばコンサートに出かけた時ですが・・・。
 自宅や我が施設の中では、自由にピアノを奏でる姿は見ていて気持ちが良いものです。
 幸せかどうかという観点で云えば、それは当事者の周囲が感じているだけのことかも知れませんね。
 紅まどんなさんの云われるように、本人が不幸せだと思いこんでの子殺しなどの記事を見るたびに、親が「自分亡き後は子も不幸になる」という価値観なども勝手な思いこみかも知れませんね。
 
 またお気軽においで下さい。
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