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夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

再び被災地へ!

2011-04-16 07:36:17 | 東日本大震災
 弘前市が岩手県野田村へ災害復興のためのボランティアを派遣しているが、どうも関係団体との連携がうまくいっていないのではないかと思う事に気付かされる。当初16日(土)に行くつもりで準備していたのに、結局土壇場でキャンセルされてしまった。参加したいという我が法人スタッフも、これでまたしばらく参加できないことになる。
 県社会福祉協議会、市町村社会福祉協議会、市役所、民間ボランティア団体、学生ボランティア団体、もしくは社会人などの個人参加者がうまく統合調整されないのは、どこに原因があるのだろうか。
 社協側がボランティアに配布したボランティア参加者へのオリエンテーションの用紙を見ると、あれをしてはいけないこれをしてはいけないという規制ばかりが目立つ。人をやる気にさせるフレーズをもっと使えないものだろうか。"失敗は成功の母”ということわざもあるではないか。参加した人たちが自分で痛みを感じたり、疑問に感じること、考えることが大切であり、それがみんなで語り合う題材にもなるのだ。縛りが多ければ多いほど感動もへったくれもなくなるのだと私は思う。成長するということ学ぶということは、今の自分が変わるということなのだ。
 公的な機関は平日の仕事の中で事を済ませようという意識があるのか、日曜日を行動日にしないのは合点がいかない。人が一番集まりやすい土曜日、日曜日や祭日を外したら行きたくてもいけないひとが多いのに、平日を中心に行動計画を立てられては毎日暇な人しか行けなくなる。それに参加人数が少ないと、効果も薄いのではないだろうか。
 
 いずれにしてもどこが窓口になって、コーディネートはどこがやるのかなど、今回はあまり見えてこなかった。
 弘前大学のボランティアセンターは、その点参加していても気持ちよく参加できている。それは窓口(事務局)とコーディネートが明確であることである。
 
 私はいわき行動シニア隊メンバーと来週月曜日に二回目の休暇を取って、弘前大学ボランティアセンターの活動計画に参加することにしている。

ミネウジホンネナネ・・・

2011-04-13 07:08:05 | 東日本大震災
4月12日(火)晴れ。

 AM6時、弘前大学正門前を、33名のボランティアを乗せ観光バスで出発しました。目的地は今回の東日本大地震の被災地のひとつ「野田村」です。野田村は久慈市や宮古などにつながる太平洋に面した11.3㎞程度の漁村といえばいいのでしょうか。昔は野田塩を炊き上げて牛につけて売りに行き、米や粟などと交換したと書かれています。
 十府ヶ浦海岸は観光案内で見れば、小豆石の浜で美しい景観の海岸だったようです。
 人口は約4,600人。
 私は今回が初めての現地入りです。学生20名と一般ボラ13名。うち女性が10名が参加しました。高速道路で八戸道に入り、久慈方面に向かいました。太平洋側に出るまで約2時間は山道を走り続けました。車中弘前大学関係者によるオリエンテーションと、ボランティアについての諸注意事項が離されました。そして全員の自己紹介が行われ、それぞれの参加した気持ちが語られました。
 久慈市を抜け野田村入り口に差しかかると、鮭の子供をイメージしたという黄色のマスコットが見えました。しかしやがて見え始めるのは、瓦礫の街というイメージしか言えない町並みでした。海に面したこの街並みは、津波の脅威を物語っていました。

 役場を中心に、対策本部が設置されていました。車から降りグループ分けがされ、男性は瓦礫の撤去作業、女性は体育館に全国から送られた救援物資の仕分け作業です。

 作業現場まで歩く道なりに、この津波の強力なパワーに目を見張ります。ほとんどの 家屋は立っているだけで壁面には「解体OK]という赤いペンキでの表示が目立ちます。やがて左手には赤い大きな鳥居が見え、愛宕神社という表示が見えました。

驚くことに3メートル以上上の鳥居の柱に、ここまで来たと思われる津波の痕跡が見えました。そして右側の狛犬が台座からもぎ取られるように地面に転がっています。

 街灯も強力な力でねじ曲げられたりもぎ取られていましたし、車もよくもこれだけコンパクトに潰されたと思うばかりです。
 道路から見える廃墟となった町は、建物すらなくコンクリートの基礎の部分だけが残されています。

 重機があちこちで復興に向けて、堆い瓦礫をダンプカーに載せるために動いています。私たち男性陣10名は、被災者の最初の家で瓦礫の撤去作業をしました。私たちの作業は初めとてもぎこちなく、しかしやがてやるべき作業内容がわかるにつれて、お互いに無意識に連携し始めました。作業が後半に差しかかると、ご主人が津波の当時の状況を語り始めました。普通の日常だった昼過ぎ、大地震が発生したのです。家族が犬や猫を小屋に入れたまま避難をして帰宅すると、津波が家の一階部分を舐め尽くし小屋にいて逃げられなかった犬や猫も死んでいたということでした。

 弘前大学の腕章をつけて作業をしている学生を見て、奥さんが自分の息子も弘前大学医学部を出たと話してくれました。
 一旦本部まで戻って地元の社会福祉協議会職員から、次の派遣先を聞いてまた被災社宅に出かけました。二軒目は海側から流れ込んだ瓦礫を一箇所に集めるという作業です。みんながひとつの心で、協力関係が出来ているのを感じます。お昼のサイレンが鳴り、しばらくすると何とか当初の目標通り作業が完結しました。
 お昼を役場の二階の会議室でとりました。同僚のウエットティッシュをもらって顔を拭くと、砂埃で顔はあちこち茶色に汚れているのがよくわかりました。当日は風が強く目も開けていられないような強風が吹いていたのです。

 小一時間休憩をして、午後の作業と派遣先が説明され4つのグループに分かれて作業場所へ移動しました。村のメインストリートだったということですが、建物の多くは解体を余儀なくされるしかない状態か、もしくは建物があったらしいという一面の原っぱです。爆風でもあったのかとも思える何も残されない光景が広がります。200件はあったという村落は跡形もなく、写真の岩手銀行も2階部分まで水が来たことを示していました。

3時30分までコンクリート片や瓦礫の撤去作業です。子供たちが暮らしていたんだと思わされるのはたくさんの絵本やおもちゃが一緒に流された状態で散乱しています。子供たちは無事だったんだろうかと思うと、胸が痛くなりました。
 休憩時間にご家族がお茶をさし出してくれ、当時の被災状況を語ってくれました。ご主人は地元出身だったということで、地震が起きてすぐに村はずれの高台に車で避難され無事だったということですが、一旦避難していながらモノを取りに戻った人たちが津波で30人も亡くなったのだそうです。


 予定時間となってまだ作業も中途でしたが、撤退するしかありません。ご夫婦にその旨知らせて、後を辞しました。役場に着いたころ、ご主人がやってきて私たちの写真を撮らせてくれと言いました。落ち着いたらまた訪ねて欲しいと語ってくれました。西行もかつてはこの地を尋ね庵にこもったという、風光明媚な海岸も今はその跡もありません。
 私たちは疲労した体をバスの座席に落として、帰路につきました。みんなでアンケートに記入したり、感想を述べ合いました。そしていつ果てるかすらわからない、被災地のこれからの長い長い日々に「終わらない」日常を思い描きました。そしてもう一度この地を訪れることになるのだろうと、脳裏で思っていたのでした。弘前大学には午後7時に到着しました。今度は土曜日の公休日に、また出かける予定です。
 

被災地への復興支援ボランティア

2011-04-10 09:07:55 | 東日本大震災
4月11日(月)朝から雨です。気温は2℃/9℃。

 青森県議会議員選挙が終えて、朝からその結果を知らせるニュースです。自民党が数を伸ばし、民主党の衰退というのが今回の傾向でしょうか・・・。それにしても50%程度の投票率を見ると、二人にひとりは行かなかったということになる。不況、震災などたくさんの課題があっても、頼れる人がいないということなのか。党派というよりは、選挙の投票意欲は個人への信頼感が先のような気がする。こんな政策しか提示できない人しかいない選挙区にいることを、嘆かなければならない状況が続く。昨日は晴れて温かで、私は自転車で投票所に選挙に行きました。
 
 さて、明日(12日)は岩手県への災害復興ボランティアのために、早朝出発予定となった。AM6:00~PM8:00で、片道3時間コースだ。岩木地区のシニアボランティア会のメンバーで出かけるのだ。苦しみを分かち合いたい。
 リュックの中に入れるものをリストアップし、足りないものをいくつか家内に買い物を依頼した。気温が上がってきているのが何より救いかもしれない。
 昨日は野田村や震災で被災したエリアの、津波の動画を見ていた。今朝の新聞には、宮城県の震災復興計画が掲載されていた。平成20年までその復興作業を続ける必要があるというから、相当な気の長い話になる。失業者が8万人というから、この人達の家族の暮らしはどうなるのだろうか。政治は何を置いても、その人達の生活保障を急いで欲しいと思う。