夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

428㎞

2011-06-13 06:20:16 | 東日本大震災
 昨日の野田村行きに参加したメンバーは混成グループで、抱民舎9名、岩木地区住民5名、中泊村2名、弘前市2名であった。
 少し遅い時間に集合しているので、現地に9時40分頃の到着であった。この日の野田村一体は初めヤマセのような霧が山々や町にかかっていて、初めて見る光景だった。
 
 10:00からの作業開始で、女性は物資の仕分け作業、男性は以前訪問したことのある久慈さんのお宅の裏の畑の掘り起こしとガレキ撤去だった。天候は快晴とまで行かないが、晴れたり曇ったりで、時々海から風が吹きすぎた。お昼近くには気温も上がってきて、何度か汗がメガネに溜まって見づらい。混成グループではあるが、徐々に気持ちも打ち解け始めて、笑い声が畑を反響し始めている。
 お昼は車で初めて野田村道の駅に出かけた。結構なお客が道の駅に出入りしていて、レストランも満員だった。仕方なく道の駅の前に腰を下ろして昼食をとった。
 午後1:00から約1時間30分作業をして、今回持参のりんごジュース(50リットル)と「ゆいまある」のパン・パウンドケーキ150個を被災者宅数件に配布し、残りはボランティアセンターに持ち込んで「社協職員やボランティアへ」処理を依頼した。

 初めての参加者が今回多いので、十府ヶ浦海岸の見える国道45号線に出て、被災状況を見渡した。参加者はその被災状況のスケールの大きさに口数が少なくなった。それでも前に参加した方からは、瓦礫の撤去がかなり進んでいることを感じていたようだ。

 一人暮らしの石井さん宅に差し入れをしにいくと、調子悪そうに出てこられた。私たちの差し入れを手にして、弘前のボランティアに前に障子を貼ってもらったことで、とても気持ちが良くなったと感謝の言葉が聞かれた。また、このところ体調が悪くて、外の仕事も満足にできないということだった。今朝も社協から何かすることがないかということだったが、自分がこういう状態だからとても起きて指図できないので、お断りしたと語っていた。
 やってほしくないのではなく、頼めないという状態像もニーズとしてあることを感じた。毎週弘前からボランティアに来ていることと、次回はいつということもお伝えすると、嬉しそうに「弘前のボランティアなら頼んでもいい」と言われた。
 こうしてこの日の私の12回目の野田村訪問と、「震災後の野田村4ヶ月目」の活動が終えた。参加者それぞれの適度の疲労や満足感が、帰路の車内を包んでいた。

被災施設「仙台つどいの家」へ

2011-06-07 07:03:11 | 東日本大震災
 弘前の自宅を朝6時に法人スタッフの迎えで、「つどいの家コペル」を朝10時30分に3名で訪問しました。理事長さんにお目にかかって、趣旨説明を含めてのお見舞いをしました。
 「つどいの家」へ理事長さんから案内をいただき、その甚大な被災状況をつぶさに見ることができました。敷地全体に走るいくつもの割れ目と、敷地の沈み込みは今後の生活にどのように影響するのでしょうか?建物の外側から見てもガラスが割れ、エアコン設備が倒れていました。建物内部に案内されて、あ然とするのは、余震で落下した天井部分でした。



 建物内部の震災の跡は生々しく、散乱した備品書類など様々な事務用品がほとんどそのままの状態で散乱していました。

 

 危険な建物であり使用を禁止する旨の表示が玄関先に掲示されています。そしてこれまでこの施設に通っていた利用者の多くは、他の福祉センターなどの場所で、分散しながら活動を継続しているとのことでした。2つのグループの方はつどいの家の青空教室と称して、つどいの家の中庭にテントを張って、集会をしているようでした。

 幸いなことは死者や行方不明者はなく、建物被害だけであったことは不幸中の幸いかもしれません。つどいの家は、私たちの「生活リズムセンターノーム」がオープンする前の年(1993年)に仙台市若林区に知的障害者更生施設として開設されました。仙台市重症心身障害児(者)を守る会をその誕生の源としてあります。
 現在は「つどいの家」のほか「コペル」(生活介護・重心B型通園事業)・「」八木山つどいの家」(小規模地域活動センター)「仙台市若林障害福祉エンター」(の生活介護・自立訓練事業)・「すてっぷはうす」(レスパイト事業・福祉有償運送事業)・「地域生活サポートセンター ピポット支倉」・同「ピポット若林」・ケアホーム4箇所+ほたる(自立体験スティ事業)などを幅広く展開しています。本部のあるコペルは海から5キロ離れており、津波は4キロまでのところでとどまったとのことでした。このコペルの地区にある神社は「浪分神社」というらしく、そこまで1200年ほど前に津波は来たことを物語っています。

 6月まで分散して活動している場所へお昼の食事ケア要員が足りないとのことで、東北の施設関係者がヘルプに派遣されて来ているとのことでした。7月には横浜の朋からの職員派遣が予定されており、私たちもその頃には職員を派遣できないか検討を進めたいと考えています。場合によっては、つどいの建物を壊す必要が出ると、引越しの車が必要とのことも聞きました。何を私達ができるのかをこれから連絡をとりあって進めたいという思いを、同行スタッフと話しながら弘前へ帰還しました。

 

社会福祉法人 抱民舎の野田村訪問活動計画

2011-05-21 09:00:28 | 東日本大震災
 「被災地を元の姿に戻すこと」を目標として私たちボランティアが有形無形に何がしかの貢献力となり、そしてそれが現地の人々の、救いの一つになれるように最善を尽くしたい。それが今の私の心からの願いです。
 毎週現地訪問を繰り返しながら、多くの心あるボランティアと協働しています。そしてその人々とともに、本当にこつこつと地味な仕事を引き受けています。参加された方々からの学びもたくさんあります。勇気や希望もいただいています。現地に暮らす人たちとの心の交流もあります。それが私たちの活動のエネルギーとなって、継続する力を生み出しています。
 そしてこれまでの8回の訪問で、その成果が少しずつではあっても、人々の心を明るくさせていることに充実感をいただいています。
 これまで「チームオール弘前」の活動に参加してきましたが、私の職場社会福祉法人 抱民舎でも、この野田村への訪問活動を企画し、全スタッフに自分の目で見つめてほしいと考えています。そして私たちが「地球人」として、また同じ空の下に暮らす同胞として、今何をしなければならないのか考え、話し合いたいと思います。
 「社会福祉」というものがすべての人々の幸せを追及するための継続実践だとすれば、私たちはその目標に向かってその対象者の痛みを共有することから始めなければならないと思います。テレビの視聴者としてただ情報を得るだけでは、物事は解決しないのです。第三者的な、あるいは傍観者として知識を得るだけでは、状況は何も変わらないのだと思います。
 さて、私たちが現地を訪ねてできることは、本当にささやかなことかもしれません。でも、少なくともそれぞれの団体が現地社会福祉協議会と連携しながら、今一番してほしいことをお手伝いさせていただきたいと思っています。
 スコップ、ネコ車、レーキなど必要な資源の持ち込みをすることで、いくらかでも私たちの活動が効果的に進められたらとも思っています。そして社会福祉法人としての、いくらかの専門性がお役に立つことがあればとも思います。それはまた現地を訪問しなければ、見えないことかもしれません。野田村は明日の私たちだと思います。その時の耐性や克服する力の源が、ここ野田村の地にあるのです。さあ、行動しましょう!!

「チームオール弘前」支援母体としての大学の役割

2011-04-30 06:56:33 | 東日本大震災

「チームオール弘前」支援母体としての大学の役割

 東日本大震災から1カ月半が過ぎた。日に日に明らかになる被害の甚大さに、日本だけでなく世界中の人々が心を痛めている。マスコミを通して毎日のように流れる被災地の映像や被災者の方々の叫びを聞くにつけ、自分の無力さに大きな失望を感じていた。
 3月末、同じような思いで悩んでいる同僚たちが集まり、大学の教員として何ができるかを考える場を得た。阪神淡路大震災を経験した同僚の山下祐介准教授から「大学には学生というパワーがある。支援母体として役割を果たすべきだ」と提案があった。
 何か大きなヒントを得たような気がした。無力感や失望感にさいなまれている場合ではない。今こそ行動を起こすべきだと思った。
 一人の力はわずかだが、学生のパワーを借りれば何かできるかもしれない。教員仲間に相談したら、一刻も早く動こうと背中を押してくれた。略式ではあるが形式を整え、弘前大学人文学部ボランティア・センターを立ち上げた。
 教員仲間に学生諸君への呼び掛けをお願いしたところ、あっという間に登録会員が50人を超えた。何かしたいという若者の熱い志とパワーを結集する支援母体として大学が機能し始めた。
 山下さんの仲介で、弘前市、西目屋村、市民団体、そして弘前大学を加えた津軽周辺の協働チームで、岩手県の県北にある九戸郡野田村に被災状況とボランティアの受け入れ態勢などの確認のため現地に向かった。こうして大学と市民、そして行政が被災地支援に向けて活動の一歩を踏み出した。
 現地は私が想像していた以上に深刻な状態だった。テレビや新聞の紙面では伝わらない粉じんやほこり、そしていろいろなものが入り交ざった異臭が鼻をつく。役場から海までの一角が壊滅的な状態だった。震災前までは役場から海が見えなかったというのに、今は全ての建物が壊れ、役場から海がすぐ近くに見えた。海は何事もなかったような顔をしている。


 役場の職員の皆さんは疲れ切っていた。震災から一度もゆっくり休むこともできず、1階まで浸水した役場で奮闘していた。また、11カ所に設けられている避難所を訪れた。昼間で少しでも動ける人はがれきの撤去や半壊した自宅の清掃作業に出ていた。話を聞けたのは、高齢で力仕事のできない方がほとんどだった。
 弘前に戻ったのは夜の9時すぎだったが、市役所に向かい市長に視察の報告をした後、今後の具体的な被災地支援策が話し合われた。その支援策の一つとして、大学と市民、そして行政の協働チーム「チームオール弘前」による被災地支援活動が実質的に動きだすこととなった。次回以降に続く。
(弘前大学雇用政策研究センター長  李 永俊)

 写真は4月25日に、私が現地野田村で撮影したものです。

第4回 野田村災害ボランティア

2011-04-27 05:50:11 | 東日本大震災
 野田村は4回目の訪問となった。訪問するたびに町のガレキが撤去され、住民の生活感覚が戻り始めているのが感じられる。今年入学したと思われる黄色い帽子の可愛い男の子ふたりと母親がすれ違い様、「こんにちは!」と挨拶を受ける。ニコニコしている子供たちと母親の表情を見れば、悲惨な状態から解放された家族の喜びが感じられる。

 この日の作業を振り分けるためにまずグループ分けをし、私たち1班メンバー10名は歯科医院の住宅のガレキと泥上げ作業を指示された。役場から北側に向かって約10分ほどの場所に、指定の住宅があった。今回からリーダーも学生さんが務めるようになっていて、弘大の女学生2名がボランティア全体の事務局の業務(の参加者の取りまとめや、ブログの管理、参加者へのオリエンテーション)なども行うようになっている。
 住宅は海岸から2キロほど離れている川沿いの商店街で、歯科医院の自宅であった。建物の被災状況は、津波による汚泥が室内に流れ込んで床下から床の間の壁面(床から1.5メートルくらいまで)達していることを示していた。
 庭先には木蓮や桜が咲き、汚泥をかぶりながらもチューリップの芽が出始めていた。側溝や庭の花壇などに汚泥が撒き散らされたようにひび割れていて、それを剥ぎ取る作業や、室内の床下から汚泥を組み上げる作業に別れて作業は進んだ。汚泥が取り除かれ、石灰を床下にまき、玄関先に排除されたガレキや汚泥は山になっていた。人海戦術というが人数がまとまっていると作業の進みも早く、休憩を挟んで12時過ぎには終了した。
 今回からバスの中で昼食をとるよう指示されている。
 午後1時から作業内容が示され、私たち10名は、最も被害の大きい海岸線に近い住宅街のガレキ撤去作業だった。
 見渡すかぎりガレキの山と、コンクリートの基礎部分しか残されていない。そのまだ手付かずの被災地には、アメリカ兵がガレキの撤去作業を黙々と進めていた。
 私たちは一軒分の住宅だったと思われる200坪ほどの場所のガレキを、道路に面した場所に撤去する作業を行った。午後3時10分本部から連絡が入って、3時20分撤退するように指示された。指示されたエリアだけは何とかみなさんの総力で、ガレキが見事に撤去された。

 参加者全員で初めて海岸線にバスを走らせ、防波堤や防風林の松林、三陸鉄道の線路内に立ち入って悲惨な津波の威力を視察した。
 



防波堤は数カ所破壊され、空間が目立った。松林も根元から津波の力でポッキリと折れて、累々とそのなぎ倒されたとしか表現できない木々が重なっていた。あのとてつもなく重たいと思われるコンクリートのテトラポットでさえ、海がチェスでもしたかのように砂浜を移動して打ち付けられていた。三陸鉄道の線路があったと説明されて初めて分かるほど、枕木もレールさえ全くない一本の道路に私たちは立って呆然とした。


 三陸鉄道と並行して海岸沿いを国道4号線が走り、今は列車が走ることすら考えられない三陸鉄道の無残な姿や防波堤の惨状、そしてなんにもなくなった野田村の被災地を行き交う走行車両が見せつけられている。

 私たちはまた帰還するバスに乗り込んで、これから先の野田村への復興支援活動を思い描いた。弘前市がこれから一年間は弘大のボランティアと一緒にバスの運行支援を決めたという。毎週水曜日に年間を通じて皆勤すれば、44回来ることになると、事務局のイ先生が紹介した。
 それくらい来ても果たしてどこまでこの復興作業が続くものやらわからない気がする遠い遠い道のりである。村の人々は私たち以上に、毎日そうしたやるせない絶望感の淵に放置されることになるのだろうか。いや、こうして若い力が定期便で応援に来てくれることで、少なくとも希望を見ることができるのだと信じたい。私も帰還後には、毎週水曜日を活動日として公休をずらすことにした。身体と都合が続く限り、週一度はこの村に通う決意をしている。
 知らず知らずに結構な距離を歩いているのだろう、左足のケイレンを感じながら弘前までの帰路を揺れる車中で過ごしていた。

第3回 野田村訪問

2011-04-26 06:29:48 | 東日本大震災
 弘前市がバスを4台チャーターし、市役所駐車場に整列していた。市民ボランティアが時間が近づくに連れて続々集合してきた。聞けば130人だという。若者の中には女性の姿も見られる。そして年代も様々で、60代らしき男女の姿、夫婦や、親子での参加の姿も見られた。一人ずつアイウエオ順に名前が呼ばれると、順番にバスへの乗車が始まった。顔見知りは弘前大学のボランティア活動に参加していた数人と、福祉施設関係者だ。
 バスは東北自動車道を一路岩手県九戸郡野田村を目指した。九戸ICを降りると弘前大学のコースと異なり、道の駅大野を通るコースだった。それにしても弘前市のボランティアがこのところ多くなっているらしく、バスから休憩のために降りて最初にトイレの順番待ちである。1回の休憩で15分をかけて、また出発した。

 野田村に到着してグループ分けであるが、私と法人スタッフはバスの乗車も異なったために別行動だった。午前9時に野田村役場に到着して、グループ分けが進んだ。先に行動が決まったグループは早々と移動して行ったが、私たちはJAの建物周辺の側溝の泥上げという情報だった。しかし段取りが上手くなくて、結局1時間以上待たされている。
 JA野田はすでに稼動しているので、職員は業務に集中していてボランティア対応の職員がいない様子だった。「待つのもボランティアだ、そう参加者の一人が笑いながら腰を卸している。私のグループはナ行の名前の男性メンバーだ。年配の60代後半の方も混じっている。
 ようやく10時30分に仕事が確定したのはいいが、すでにこの時には本部にあるはずだった一輪車やスコップがいくらもなくなっていた。側溝の泥上げには、側溝のコンクリート製のフタを持ち上げなければならない。しかしそのフタが泥をかぶっているためかなかなか素手ではびくともしない。バリという釘抜きが一本だけ来たが、結局かなり悪戦苦闘してフタが開いた。一枚の蓋が開くと今度は要領がわかって、順調にフタが開けられていった。この辺の収斂性が、年配の人達の強みなのかも知れない。他の人達はスコップを手に泥上げである。JA野田の資材センターなのか、建物全体の周辺にある側溝を一周およそ500メートルくらい?の泥上げ作業だった。ヘドロが側溝を埋め、そのヘドロも灯油なのか匂いが混じって呼吸も苦しかった。
 1時間に10分の休憩をとりながら、作業は順調に進んでいった。少しずつ野田村の春は進んでいて、役場脇の「キシの梅」という梅の木があった。津波をかぶったのだろうか、二部咲きの梅がそれでも開いていた。
 汗だくでの泥上げがお昼で一旦めどが立ち、昼食休憩となった。人数が多いためか、昼食はバスの中だった。
 午後から引き続きJAの周辺の泥上げが続いた。

 結局泥は写真のような袋に4つ集まって、何とか終了した。この作業を見ていると、野田村の復興では機械力が弱いことに気付かされた。ダンプカーやショベル、もしくはユンボという重機類の機械があれば、難なくこなせる作業も時間ばかりが過ぎていくような気がしてしまう。
 でも、これが震災なんだなと思う。時間をかけながら一人ひとりの汗を集めて、ようやく一区画の復興が進むのだ。この現実を私たちは受け止めなければならないと思った。「継続は力」という、そんな言葉がふと湧いてきた。
 午後七時には4台のバスが自動車道に移動した途端雨が降ってきた。そういえばこの日東北地方の太平洋側に、大雨注意報が出ていたことを思い出した。参加者の多くは疲労困憊しているのか押し黙り、もしくは眠りの渦に落ち込んでいた。
 すっかり暗くなった中、なんとか無事に弘前市役所前に到着した。身体のあちこちが筋肉痛と、ケイレン一歩前のようにきしんでいた。
 

動きながら至らぬ自分を考えます・・・。

2011-04-22 05:56:27 | 東日本大震災
 阪神淡路大地震や中越地震の時、じぶんは動けませんでした・・・。中越地震の時にも、すぐには母の傍に行ってあげられませんでした。東京の友人宅に金策にいっていたのです。そして帰路新潟の母を訪ねました。どんなに不安だったろうかと今思います。それは今回被災地に行き、自分の目や体でも感じたからです。

 仙台の重症児のたくさんいる施設にも被害が及び、そこには世話になった友人とそのお子様が通っていて、そちらもずっと気にしていました。募金活動や支援物資を送るしかありません。でも気軽に行ける距離でもないのです。結局日帰りのできる距離の岩手県野田村に、こうして行ける機会を掴んで被災地いこうとしている自分です。

 確かに被災者の役に立つボランティアでありたいと思って、現地に行くのです。でもどれくらい役立っている自分なのかは、自分にもわかりません。ふらちなことを思う自分が、そこにいるのかも知れません。初回と二回目では、少し違う自分をそこに見ました。
初回いってみて、もっとこうすれば良くなるのにと思う自分です。それは少なくとも現地に行ったから気づいたことでもあり、行かなければいつまでも机上の思いしかあなかったことでしょう。どうすれば被災者や被災地のためになるのか、こんな自分でも思います。自分の所属する二つのボランティアグループのメンバーに、被災地の様子を伝えることが必要だと思って活動をしています。職場のスタッフにも現地の被災者の様子や、ボランティアとして行っていることを伝えています。

 そして一人でも多くの力を結集して、なにか役に立てるようにと思っています。
 今週の土曜日と来週月曜日は、また被災地に出かける計画です。やりながら、失敗もして、そして考えたいと思います。

野田村2回目訪問

2011-04-19 07:09:38 | 東日本大震災
4月18日(月)快晴

 朝5時30分「行動いわきシニア隊」のメンバー4名で、野田村へ再訪した。前回と違って風もなく絶好の作業日和だった。しかし、逆に暑さでマスクをするのが辛かった。
 訪問した前回に比べて、被災地は復興が進んでいる感じがした。


 途中二度の休憩をはさみながら、現地には9時ごろ到着している。青森県の市町村社協職員たちが現地入りして支援センターで現地者教職員をカバーしている様子。顔見知りのSさんとも顔を合わせた。 
 前回に比べると、風がないのが何よりもありがたかった。経験を積むに連れて、ボランティア個々に、何を持参したら作業がやりやすいかを学んでいる。私も今回は一輪車とレーキを持参した。
 グループが4つ程度に分かれ、一般ボランティアと混合で被災者宅を訪問して作業に入った。

 前回訪問した作業現場からも近い酒屋さんのお宅で、家主さんから作業をして欲しい内容を確認してから作業に入った。海岸から流されてきた泥や砂、砂利、ゴミ、ガレキなどを撤去する作業だった。学生のうち男性5人女性4人が参加している。参加者全員やる気満々なのか、懸命にスコップや一輪車を駆使している。灯油タンクが倒れていて、その油が土にしみこんでいるのか、マスクをしていても灯油のにおいが作業を妨げる。
 景勝地 十府ヶ浦海岸を小豆砂で有名とのことだが、津波で砂も小石、さらには泥も一緒に民家まで押し寄せている。これを汗をかきながらも、スコップをふるって一輪車で運び出す作業が続く。
 結局昼食をはさんで、午後2:44まで作業を行って、家主さんから「ここまでやってくれたらあとは自分でできそう」とのことで、挨拶をして別の場所へと向かった。
 こうして2回目の被災地でのボランティア活動が終了した。

 帰途のバス車中で一人一人の感想を聞く機会があったが、学生さんたちは思った以上に真剣に活動をされたんだと感じた。私は「途方に暮れている人々が、ここまで手伝っていただければ、あとは自分でもやれる」という明日へのやる気が生まれるということが大切なんだと思った。

 

50数年前、日本の「放射能」の高さは異常だった!

2011-04-17 14:53:07 | 東日本大震災
2011年4月8日

これは1950年代後半から60年代前半にかけて行われた、アメリカ、ソ連、中国などの核爆発実験により、北半球全体に放射性物質が拡散していたことが原因。

特に、1954年(昭和29年)3月1日に行われた、米国によるマーシャル諸島ビキニ環礁の水爆実験は、当時の日本国民に暗い影を落としました。米国が示していた危険海域の外(爆心から約160キロ付近)にいた、日本の漁船「第5福竜丸」が被ばく。当時は、戦後の情報規制により核爆弾の本当の恐ろしさが人々に伝わっていなかったそうで、さらに事態を悪化させる原因になってしまったようです。ほかにも近くを航行していた多くの船が処分され、魚介類が汚染されて食べられなくなるなど、莫大な被害を受けたそうです。

当時を良く知る男性(65)に話を伺ったところ、「当時の国民も、野菜は良く洗って食べるように指導され、また、雨に当たらないように言われていた」のだそう。ときには雨に相当濡れたこともあったそうですが、この人物に限ってはこれまで特に放射能が原因とされる体調の変化はなかったそうです。

当時よりも放射線量が少ないとはいえ、今のこの状況を軽視するわけにはいきません。しかし、多くの専門家がアドバイスしている通り、飛散してくる放射性物質が少ない地域の人々は過剰に反応する必要はないようです。

それにしても日本人は、度々核の恐ろしさを身をもって経験してきたにも関わらず、福島第一原発で指摘される安全対策への甘さを見るにつけ、過去の過ちから何ひとつ学んでこなかったのだろうかと心底残念になります。これ以上、核による被害者を増やさないよう、国民は原子力を扱う機関を一層厳しく注視し続けていく必要があるでしょう。早く原発に代わるエネルギーが開発されることを祈るばかりです。

参照元:kankyo-hoshano.go.jp

災害ボランティア現地入りの際の備え

2011-04-17 09:13:15 | 東日本大震災
 災害ボランティアとして被災地を訪問して気づいたこと、それは作業をする際にあれば便利なものが現地には殆どないということである。日常の清潔で整理され安全な環境から、いざ被災地入りするとたちまち状況は一変する。危険極まりない環境が待ち受けている。建物はいつ倒れるかわからない。ガレキの中には割れたガラス片や釘が板から飛び出ている。そして目には見えない細菌や、アスベスト、危険な化学薬品などもひょっとしたら泥の中に混じっているかも知れない。汚泥も乾燥すれば強風に煽られて吸引する危険もある。
 日頃以上に身の危険を意識して、帽子・厚手の手袋・長袖シャツ・防じんマスク・釘の踏み抜きの危険の少ない靴、できれば防じんメガネなどもあればベストだろう。そして飲食前やトイレタイムにはこまめに石鹸で手洗いが必要であると感じた。


◎災害ボランティアとして現地入りする際の備え

1.現地入りする際に準備した物。
 ・おにぎり・水など飲料水・ティッシュ・タオル・長靴・帽子・軍手・厚手のゴム手袋・マスク(防塵)・雨具・甘いもの・副食としての予備的な食料(バナナ・パン)
・携帯ラジオ・ゴミ袋・着替え・カメラ・筆記用具・ヘッドランプ・ウエットティッシュ・キズバン・消毒液・

2.注意しなければならないこと
 
 がれきの中には、先のとがったもの、釘や棘の出ている木材など、けがをしやすいものが含まれています。その多くは、泥や海水などにつかっているため、表面が汚染され、けがをした場合、感染を起こしやすくなります。

(参照:創傷関連感染
 http://idsc.nih.go.jp/earthquake2011/2011pdf/20110316risuku02.pdf)

 ・感染症(破傷風・肺炎・アスベスト対策・・・)
  ※長靴で瓦礫を踏む際に、釘などで踏み抜く危険がある。出来れば底の厚いトレッキングシューズのほうがよかったかも知れない。次回はこれで行く。
 ・石鹸で手洗いをして流水で流し、出来ればさらにアルコールでよく拭く。
 ・持ち込んだゴミは持ち帰る。



3.瓦礫撤去作業時の配慮
 ・写真やネガなど個人の記念のものは一旦持ち帰り、災害本部(役場)の入り口に届ける。本部前では被災者が見ることができるように、綺麗に洗って展示しているコーナーがある。
 ・手などを怪我したら流水でよく洗って、消毒する。(キズバンで傷を守る)

4.その他の留意事項
 ・一人で行動しないでリーダーを決め、仲間とグループを作って連絡を常に行う。
 ・体調と連絡相談報告を欠かさない。(移動・作業開始・作業終了・困ったことなど)
 ・個人宅では相手のお話しを傾聴し、受容的な態度で対応する。




◎ガレキの撤去作業時に必要なもの・あると便利なもの
 ・一輪車(ねこ車)・レーキ(熊手のようなゴミを集める際に使用)・フォーク(木の枝や草などを集める)・プラスティックの箕(み)というゴミなどを集めてねこ車に開ける際に便利な物・スコップ(平型)・針金や鉄線を切るはさみ・危険物を入れる肥料袋のような厚手のゴミ袋(ガラスや釘など)