音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

王宮の花火の音楽 (ジョージ・フレデリック・ヘンデル)

2010-04-13 | クラシック (管弦楽曲)


実は、クラシックの音楽家毎に考えるとヘンデルという人に限って言えば、こういう言い方は失礼だが、「○○が聴きたい」という衝動に駆られることが殆ど無い。変な話だが、こういう音楽家というのは大変珍しい。大概の著名な音楽家というのは年に一度くらい、「凄くストラヴィンスキーが聴きたい」と思ったりするし、例えば、ブラームスやマーラーなら、それが月に2回以上、ベートーヴェやチャイコは月に1回と、音楽家によって頻度が違うのであるが、このヘンデルともうひとりハイドンに関しては全くと言ってそういうむことが無い。誤解の無いようにお断りすると、ハイドンについて言えば、例えば「弦楽四重奏曲第67番が聴きたい」という楽曲を指定するということは当然ある。ただ漠然と、何でもよいからこの音楽家の曲が聴きたいということと、楽曲の指定は別問題だ。大体からして、曲の指定と言っても、私自身、全部曲が分かるのは、この曲と「水上の音楽」と「メサイヤ」しかない。そもそも曲の知識がそれしかないから仕方が無いのかもしれない。

ヘンデルという人はよく、イギリスの作曲家かドイツの作曲家かで意見が分かれることがある。名前を英語読みしているから、その段階ではイギリスの作曲家なのであるが、しかしこの音楽はドイツの作曲家の音であることは間違いない。但し、一般的にジャーマン・コメディアンとアメリカン・フィロソフィーと同列で、「ブリティシュ・ミュージシャン」と揶揄されるのは、決してビートルズのことではなく、このヘンデルを指しているという風刺であることは間違いない。この人がバッハと同時代に同じようなスタンスで存在していたとしても殆ど意味の無いことだった。しかも、宮廷音楽家としてお抱えだった事実を考えると、モーツァルトやーベートーヴェンからみると、勿論時代の要因もあるが、何と羨ましい境遇だったのではないか。そもそも組曲「水上の音楽」の演奏自体が可なりイチかバチかの賭けであったので、この曲はその掛けに勝ったヘンデルが調子に乗って作った曲であるという尾鰭が付いている。組曲「水上の音楽」と比べると、音が大変明確であるし、逆にいえば、この曲で評判の良かったオトをうまく引用して作曲したという感が歪めないのは偏見であろうか。この楽曲は、1748に年終結したオーストリア継承戦争のアーヘンの野外の演奏だったためにオケの編成に関しては可なり苦労があった様で、とても大規模な編成を組んだ様だ。確かに現在の演奏でも、その規模の大きさを伺える録音になっている。但し、この花火大会自体が火災を起こすという事件になり、その方が有名になり、演奏は余りクローズアップされなかったというのが本当のところらしい。ヘンデルは一般大衆にその名を広める機会を逸したのかもしれない。

それにしても、「水上の音楽」では楽団を舟に乗せたり、「王宮の花火」では大編成を組んでみたり、この音楽家は色々と派手で大掛かりなことが好きなようである。ワーグナーと違った意味での演出家とか音楽総監督の走りだったのかもしれない。しかし、やはり彼が音楽の為とは言え、ドイツを去ったのは、やはり音楽的には失敗だったのかもしれない。結果論で申し訳ないが、英国に渡らなかったら後世に名前が残らなかったかもしれないが、才能ということを考えると複雑だ。背に腹は代えられないのだろうが。


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