団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の短編小説集

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お雛様を飾るのはいつからいつまでなのか考える

2010-01-31 10:19:30 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

(上巳)の節句・雛祭りとは何か。Yakigirisakura

赤ちゃんが生まれて、初めて迎える節句を初節句といいます。三月三日の雛祭りがこの日にあたり、正式には上巳(じょうし)の節句といいます。

それは、古来中国から伝わった三月の初めの巳()の日という意味からですが、ちょうど桃の花が咲くころでもあり、お節句を祝うのにふさわしいことから、今では桃の節句という美しい名で親しまれています。

なぜ、雛人形を飾るのか

Photo_4

平安時代の御人形(ひいな)遊びと、紙やワラで作った簡素な人形(ひとがた)に自分の厄や災いを移して海や川へ流した流し雛の行事が結びついたのが現在の「ひな祭り」です。

つまり、雛人形が身代わりになってくれてその子供に災いがふりかかりませんように、また、仲睦まじくよりそう愛のかたちを一対の雛に託し、わが子も将来このような幸せが訪れますようにと祈願し飾るものなのです。

Photo_5 また、昔からの言い伝えと共に、雛人形を飾ることは大切な情操教育の一環でもあります。つまり、自分のために贈られた美しいお雛様を眺めながら、祖父母や父母など周りからの愛情を感じること。幼少時から、美しいものを眺めることにより美的感性が養われること。自分の大切なお雛様を親子で一緒に飾ったりお仕舞いしたりすることにより、季節の習わしを覚えたり大切なものは大切に扱う気持ちや作法を育むことができること。強いては、そのような環境でお育ちになれば、すばらしい女性になって良いご縁に恵まれるということなのでしょうか。

お節句とは、古来より伝わる日本の美しい習わしです。いつの世もわが子の無事な成長を願う親心は変わることはありません。薄れつつある伝統文化を、幼少時の温かい想い出と共に次世代の子どもたちにも伝えていただければと思います。

お雛様を飾るのはいつからいつまでか。

立春(二月四日)から二月中旬かけて、遅くても節句の一週間前までには飾りたいものです。

季節の節目という節句の本来の意味を考えると、お節句がすんだら早めに、遅くとも三月中旬頃までの天気の良い乾燥している日にしまいたいものです。

カビや湿気から守るために、お天気の良い日を選ぶことも大切です。

飾ってあるのは橘と、もう一つは桃の花か、桜の花なのか。Photo_6

桃の節句といいますが、飾るのは桜です

右のお雛様側が桜、左のお内裏様側が橘です。また、桜橘の代わりに、紅梅と白梅を飾る場合があります。

お内裏様とお雛様、立位置のちがいは?

Photo_7 雛壇側から見た場合、昔は左がお内裏様、右がお雛様でした。

それは、左を上位とする日本古来の考え方によるものでした。

いつの頃からか、時代とともに左右が入れ替わり、現在では西洋式の立位置が一般的になりました。

段飾りに登場する左大臣と右大臣の立位置が、昔の名残りをとどめています。

三人官女とはどんな人なのか。

宮廷に仕える女性たちで、お内裏様とお雛様の、身の回りのお世話をしています。

段飾りに登場する三人官女は、それぞれ持ち道具があり、向かって左から、銚子、三宝、長柄銚子を持って、お内裏様とお雛様にお仕えしています

お雛様の上手なしまい方はどうするのか。

箱にしまう前にホコリをよく払って、柔らかい紙や布で丁寧に包みます。人形用の防虫剤を箱の隅に入れます。薄紙を巻いた新聞紙を箱の隙間に詰めると、湿気予防になります。保管場所は、天袋などの湿気の少ない高い場所を選びましょう。また、秋口の天気の良い日に虫干しをするのも、お雛様を美しく保つポイントです。

Photo_8

余談ですが、何故桜の花を飾るのに桃の節句というのでしょう。

なぜ桃なのかというと、平安時代には、桃はその形状から女性器の比喩と捉えられていたからなのです。

Photo_10Photo_9ちなみに、ひな祭りに関係する食べ物はみなセックスの隠語ばかりなのです。菱餅や蛤のお吸い物は女性器を、炒り豆は陰核(クリトリス)を表しているのですが、これは「女の子が早く一人前の体になって子孫を増やせるように」という願いがこめられているのです。 Photo_11

 なお、蛤のお吸い物は汁だけをいただき、身は食べてはいけません。理由は御自分でお考え下さい。

したっけ。

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「鉢かづき姫」について考える-その2-解説

2010-01-30 10:28:59 | 神話・御伽噺・民話・伝説

昨日に引き続き解説です!これからの解説はかなりややこしいことになっていますががんばって読んでください。

はちかづき〔ハチかづき〕【鉢かづき】01

御伽草子23編の一2巻。作者未詳。室町時代の成立とされる。母の臨終に鉢を頭にかぶせ られた娘が継母のために家を追われるが、その鉢によって幸せになる話。継母説話に長谷観音の霊験譚(たん)を絡ませたもの。

辞書:大辞泉

かづき【被き】

_hime_m 「かづき」は「被き」と書き、歴史時代に女性が外出する際にかぶった布を示す場合もあるように、頭にかぶることを意味する。従ってこの物語も、姫が鉢を“担いだ”のではなくかぶったことを言うので、「鉢かつぎ」ではなく「鉢かづき」とするのが正しい。場合によっては「かづき」の表現を現代語に訳して「鉢かぶり姫」ということもある。

【鉢】はち(はつとも読む。)

現代では「植木鉢」や、頭の形が鉢に似ている処から「鉢巻き」のような用法もあるが、本来は、容器の意のサンスクリット語(梵語)を音写した「鉢多羅」、「鉢和羅」の略語である。

僧尼が常に所持すべき「六物(ろくもつ)」のひとつで、食器を意味した。

ちなみに、僧尼の用いる鉢は、その素材によって、鉄鉢、泥鉢(陶土製)と定められ、それ以外の木鉢や漆塗りの鉢は外道(げどう)のものとされた。

この鉢を持って、坊さんが市中に出、「乞食(こつじき)」して廻る「托鉢(たくはつ)」は僧として重要な修行のひとつ。

物語の展開に大きな意味をもつ鉢は、呪具(じゅぐ)として主人公の運命に大きな役割を果たしている。とりわけ、主人公の成女戒にかかわる、呪術的・宗教的意義を重ねることによって、この主題を解こうとする見方もなされる。伝承伝播(でんぱ)の背景には、観音信仰の教化活動も考えられる。

成女戒(せいじょかい)

I_2 女の物忌みとして、田を植える五月処女(さうとめ)を選定する行事は、卯月の中頃のある一日に「山籠り」として行はれる。そうして、山から下りる時には、躑躅(つつじ)の花をかざして来る。山籠りは、処女が一日山に籠って、ある資格を得て来るのが本義である。けれども、後には、此が忘れられて、山に行き、野に行きして、一日籠って来るのは、ただの山遊び・野遊びになってしまいました。「山行き」という言葉は、山籠りのなごりである。こうして山籠りは、一種の春の行楽になってしまったが、昔は全村の女が村を離れて、山籠りをした。即、皐月の田植え前に、五月処女(さうとめ)を定める為の山籠りをしたのである。

此山籠りの帰りに、処女たちは、山の躑躅(つつじ)を、頭に挿頭(かざ)して来る。此が田の神に奉仕する女だと言う徴(しるし)である。そして此からまた厳重な物忌みの生活が始まるのである。此かざしの花は、家の神棚に供へる事もあり、田に立てる事にもなった。此が一種の成り物の前兆になるのである。

四月八日を中心とした此日は、普通「山籠り」の日と言って居る。此日、村の娘が五月処女(さうとめ)としての資格を得るのである。そうとめと音便で呼ばれる語形さをとめの結合は、近世では出来ない結合である。処女(をとめ)は神事に仕える女、と言う事である。男(をとこ)も神事に仕へる男の意である。処女が花を摘みに行って、花をかざして来る事は、神聖な資格を得た事であって、此時に「成女戒」が授けられる。此は一年の中、二度か三度行われたが、もとは一度であって、男を避けて暮すのが習慣である。

処女が其資格を得ようとする徴(しるし)に花かざしをする。躑躅(つつじ)が用いられた。一種の山蔓(やまかづら)※である。ここに何か秘密な行事があるので、其時に花をさしたと言う事が、成女戒を授けられた事になる。此は毎年生れかはる形であるので、毎年受けるものなのだが、一生の中に、二度うける様にもなった。だが、昔は、事実はおなじ女性がつとめても、毎年別の人が生(あ)れ出(いで)て来ると信じて居た。

男は五歳から十歳頃までに袴着(はかまぎ)を行い、女は裳着(もぎ)をする。此袴着・裳着は、幼時に一度行うばかりでなく、大きくなつてから今一度行う。貴族の男児は、成年戒には黒<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="_x0000_i1025" alt="※(「巾+責」、第3水準1-84-11)" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 12pt"><imagedata o:href="http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-84/1-84-11.png" src="file:///C:DOCUME~1OwnerLOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.png"></imagedata></shape>をつける。其形は日本在来の鬘の形で、後方で結んで居て、植物の蔓(かずら)を頭へ巻いたと同じ形である。物忌みの間につける蔓の形が、支那の幘(さく)※の形と合して、黒<shape id="_x0000_i1026" alt="※(「巾+責」、第3水準1-84-11)" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 12pt"> <imagedata o:href="http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-84/1-84-11.png" src="file:///C:DOCUME~1OwnerLOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.png"></imagedata></shape>となったのだ。

此に対して女は「はねかづら」を着ける。万葉集には「はねかづら」と言う語が四ケ所に出て来る。

はねかづら(花蔓、葉根蔓、羽蔓)を着ける事かどうか判明しないが、尠(すくな)くとも、純粋の処女の時代であって、手の触れられない事を意味する物忌みの徴(しるし)のものであるらしい。

羽蔓は鳥の羽根と「カズラ」で輪状にして. 頭上に載せる髪飾りという

※山蔓(やまかづら)とはヒゲカズラのことでヒカゲノカズラ科の常緑多年生の蔓性(つるせい)のシダ。山野に生え、茎は地をはい、針状の葉がうろこ状につく。茎から細い枝が直立し、長さ約5センチの黄色い胞子嚢(ほうしのう)の穂をつける。

※幘(さく)とは布のことで、髪を包むきれ。頭巾。

今する妹を夢に見て、心の中(うち)に恋ひわたるかも(家持――巻四705Photo

羽鬘の髪飾りをつけた幼いあなたが、夢に出てきました。その頃からずっと、心の内に恋心を秘めていたのです。逢いたくてたまりません。

はね蔓今為(す)る妹はなかりしを。如何なる妹ぞ、許多(ここだ)恋ひたる(童女報歌0706

はね蔓を今つける少女とおっしゃいますが、あなたにそんな年頃の恋人は居なかった筈ですし私はとっくに成人式は済ませています。いったいどこのどなたがそれほどあなたを恋い慕っておられるのでしょうね。Photo_2

はね蔓今為(す)る妹をうら若み、いざ、率(いざ)川の音のさやけさ(巻七)

葉根蘰を新たにする娘が初々しいのでさあおいでと誘う、率川の音の清らかなことよ。(清らかなのは川ではなく、娘のこと)

今する妹がうら若み、笑(え)みゝ、怒(いか)りみ、つけし紐解(巻十一2627Photo_3

新婚初夜の儀式のはねかづら(葉根蔓)をつけた娘が、初々しく顔を朱に染めながら、馴れない下紐を苦労して解いている姿。なんと可愛らしいことだ。

はね蔓を詠みこんだ歌があるが、皆、性欲的な歌ばかりである。

鉢かづきの鉢こそがはね蔓であり、姫の放浪こそが「山篭り」の時期なのであります。鉢が割れたと言うことは、山篭りが終わり、神聖な成女戒が授けられたことを表しているのです。即ち姫は女(をんな)に成ることを許されたと言うことです。

この話に継母説話に長谷観音の霊験譚(たん)を絡ませ、最後に親子の血のつながりを諭しているのです。

この話を理解するには成女戒と成女戒の儀式を理解して、初めて鉢かづきの意味が分かるのです。

そして処女(をとめ)から女への変身劇的で、当時としては、とてもエロティックなものであったことは、万葉集「はね蔓」の4首を見ても間違いないと思います。これもやはり、寝所の御伽噺なのです。

したっけ。

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「鉢かづき姫」について考える-その1-

2010-01-29 11:07:49 | 神話・御伽噺・民話・伝説

河内の国 、交野郡寝屋というところに備中守藤原実高という大変裕福な「寝屋の長者」と呼ばれている人が住んでいました。

 長者の屋敷は、東西十二町、南北四町、田畑は一千二百余町もありそれは立派なものでした。

備中守実高の奥方は、摂津の国鳴海の里の芦屋長太夫の娘で照見といって十六才で長者のもとに嫁いできました。

  ふたりの夫婦仲は大変良く幸せな毎日を送っていましたが、どうしたわけか子どもに恵まれませんでした。

 大和の国初瀬寺(長谷寺)の観音さまに、お参りを続けていたある夜、枕元に観音さまがあらわれ女の子を授けるが、鉢を被せるよう告げられたところで目を覚ましますと、目の前にはお告げどおり鉢がありました。

 それからしばらくして、奥方照見の方はお告げのとおり女の子を授かり名前を「初瀬」と名付けて大切に育てていました。

 ところが初瀬姫が十四才になったとき、照見の方が病で臥せる日々が続きます。初瀬寺の観音さまにお参りを続け母の病が直りますよう、懸命にお祈りをしますが、なかなか良くなりません。

やがて母照見の001方が死を迎える前に初瀬姫を枕元に呼び寄せ、観音さまのお告げのとおり鉢を被せ、そして静かに息を引き取ります。

 備中守実高も初瀬姫も寂しい日々を過ごしますが、父実高は後添いを迎えることになりました。

 名前は浅路といい、器量はいいのですが心根の大変悪い女で実高との間に娘が生まれると、次第に初瀬姫をいじめるようになり、遂には初瀬姫を屋敷から追い出してしまいます。

 屋敷を追い出された初瀬姫は行くあてもなく歩き続けていると大きな川の堤に出ました。

亡き母のもとに行こうと川に身を投げますが、なぜか鉢を被った首から上は沈みません。

 川に流されていると通りがかりの船に引き上げられますが鉢を被った異様な姿に驚き、川岸に投げ出されてしまいます。

 気を取り直し再び、足の向くまま歩いていると、道を通る人々は鉢かづきの姿に驚き、逃げて行きます。

そんな時、山陰三位中将に助けられ、湯殿番として働くことになりました。

 幼いころより下働きなどしたことはなかった鉢かづき姫ですが、一生懸命に湯殿番として働いていました。

   そんなある日、いつものように湯殿番をしていると、山陰三位中将の四番目の息子(宰相)から声をかけられ色々な話をするようになりました。まだ独身の宰相は心優しい人で鉢かづき姫とは次第にお互い心ひかれていきました。

 002 やがて二人は夫婦の約束をしますが、鉢を被った見た目にもみすぼらしい姿の鉢かづき姫に兄や兄嫁たちが反対します。

 どうしても一緒になれないのなら、二人で屋敷を出る覚悟をしていましたが、そこに兄や兄嫁たちから、嫁くらべをして勝てば二人の結婚を認めようという話が出されます。

 宰相は引き下がるわけにもいかず、その場は了承してしまいます。

 嫁くらべの日までもういく日もありませんので今から琴や歌などの教養を教えることもできません。

二人は覚悟をきめて、こっそりこの屋敷を出ようと手に手をとったその時、今までどうしてもとれなかった姫の鉢が頭からぽろりと落ちました。

 するとどうでしょう、その鉢からはそれは、それは驚くばかりのたくさんの金や着物などの宝物が山のように出てきました。

 鉢のとれた姫はというとどこに出しても恥ずかしくない美しさと優しさを兼ね備えたたとえようのない顔立ちです。

003 二人は早速身支度を整え嫁くらべの場にのぞみました。その姿を見たまわりの者の驚きは、姫の姿かたちだけではありません。

琴をひいても、歌を詠んでも、文字を書いても、誰ひとりかなう者はいませんでした。

鉢かづき姫は宰相と結婚し、夜毎二人の幸せに溢れる声が帳の奥から、漏れ聞こえたのです。やがて3人の子どもに恵まれ、長谷観音に感謝しながら幸せな生活を送りました。 

あるとき、鉢かづき姫が長谷寺の観音さまにお参りをしたときのことです。 本堂の片すみで、みすぼらしい姿のお坊さんに会いました。 そのお坊さんの顔を見て、鉢かづき姫はびっくり。

「まあ、お父さまではありませんか」

「姫、姫か!」

4 二人は抱きあって、数年ぶりの再会を喜びました。すっかり落ちぶれて、あたらしい奥さんにも見捨てられたお父さんは、鉢かづき姫を追い出した事を後悔して、旅をしながら鉢かづき姫を探していたのです。

「すまなかった。本当にすまなかった」
 泣いてあやまるお父さんに、鉢かづき姫はにっこりほほえみました。

「いいえ。いろいろありましたが、今はとても幸せなのですよ」

 それからお父さんは鉢かづき姫のところにひきとられ、しあわせに暮らしました。

したっけ。

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暦の六曜について考える

2010-01-28 11:08:58 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

六輝(ろっき)ともいう。暦日の注先勝(せんしょう)、友引(ともびき)、先負(せんぷ)、仏滅(ぶつめつ)、大安(たいあん)、赤口(しゃっく)のこと。

Photo 14世紀に中国から伝えられた当時は、大安留連(りゅうれん)、速喜(そくき)、赤口将吉(しょうきつ)、空亡(くうぼう)といったが、その後、名称、順序ともに幾度か変わり、いまの形に落ち着いたのは天保(てんぽう)(1830年~1844年)のころという。

六曜は中国の六壬時課(りくじんじか)と呼ばれる時刻占いの一種でした。これは一日を12刻に分け、ある日の最初の一刻を大安Photo_2の一刻を留連、次を速喜、次を赤口次を小吉最後を空亡とするもので、その次の日は、第一刻を留連から始めるというものです。この時刻の占いがわが国に伝わり、日の占いに変化したもので、旧暦の朔日ごとに繰方が変わる。

六輝の方は、明治以後現在もなじみ深い「七曜」(月火・・土日)が有名になったので、間違わないように名前を変えたという感じで、明治以前の暦には記載されていない比較的歴史の浅い暦注である。

Photo_3 六曜(ろくよう)は、日本では、暦の中でも有名な暦注の一つで、一般のカレンダーや手帳にも記載されている。今日の日本においても影響力が強く、「結婚式は大安がよい」「葬式は友引を避ける」など、主に冠婚葬祭などの儀式と結びついて使用されている。

先勝(せんしょう)

諸事急ぐことによし、午後よりわるし。

友引(ともびき)

朝夕よし、午後わるし、葬式を忌む。

先負(せんぷ)

諸事静かなることによし、午後大吉。

仏滅(ぶつめつ)

万事凶、口舌を慎むべし、患えば長びくおそれあり。

大安(たいあん)

移転開店婚礼旅行その他すべてによし、大吉日。

赤口(しゃっく)

諸事ゆだんすべからず、用いるは凶、正午のみ吉。

この関係をもう少し一般化して書けば旧暦の月と日から、簡単に六曜を導くことが出来ます。

 (旧暦月 +旧暦日)÷ 6 = A 余り N 

ここで知りたいのは余りのNです。

このNと、六曜は次のような関係になります。

0

1

2

3

4

5

六曜

大安

赤口

先勝

友引

先負

仏滅

旧暦の月日さえわかれば六曜は簡単にわかります。

旧暦が使われていた時代では六曜は現在の「曜日」のように分かり切ったものでした。この分かり切った六曜の並びで、大安が目出度いなどと言うことは現代でいえば、「日曜日は大吉の日、結婚式に良」と言っているようなものなのです。

六曜の読み

先勝:せんしょう せんかち さきかち

友引:ともびき ゆういん

先負:せんぷ せんまけ  さきまけ

仏滅:ぶつめつ

大安:たいあん だいあん

赤口:しゃっく じゃっこう じゃっく  しゃっこう せきぐち

したっけ。

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あなたはパラパラした「固め」のお米と、しっとりとした「やわらかめ」のお米、どちらが好きですか?

2010-01-27 15:23:16 | トラ場(ブログ人投票箱)

「固め」のお米と「やわらかめ」のお米って、バカヤロー

お米って、古古米か?米をそのまま食うやつはいねえと思うぜ。「固め」のご飯、「やわらかめ」のご飯じゃねえのか?

 やわらかめのご飯、お粥なんてえもんは、病人の食うもんだ。

お酒はぬるめの燗がいい~、ご飯は固めのほうがいい。ってくらい固めでなきゃだめだね。おっと、今気づいたけど固めって「硬め」の間違いじゃねえのか?そうだよ「固め」っておにぎりじゃねえんだから・・・。

辞書で調べたら「固め」の反対語は「ゆるめ」、「硬め」の反対語は「やわらかい」って載ってたぜ。

オレは「めっこ飯」と「お粥」だったら、めっこ飯を選ぶね

したっけ。

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国旗及び国歌について考える

2010-01-27 10:41:31 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、また今日一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれる旗である。

PhotoPhoto_8 国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)の規定によれば、旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色は地が白色、日章は紅色とされている。

平安時代末期の源平合戦の頃から、扇や旗のデザインに「日の丸」が登場しています。さらに、少し時代が進むと、朱印船などの船印としても使用されていたことから、今日の船籍を示す国旗の役割を果たしていたと考えられます。そして、船印・国標として定められたのは、幕末にペリーの黒船が来航した直後の安政年間で、これを維新政府も引き継ぎ明治3年(1870127日、「日の丸」を国旗として布告しました。Photo_9

規格は現行とは若干異なり、縦横比は710、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。

この日(127)を記念して国旗協会は国旗制定記念日を制定し、国旗掲揚の日としている。

以後、日章旗は国旗として扱われるようになったが、「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のままであり、法令として存在しなかった。1931(昭和6年)2月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる「大日本帝国国旗法案」が衆議院議員石原善三郎により提案され、同年326日衆議院本会議において可決された。

しかしながら貴族院送付後の328日、会期終了に伴う帝国議会閉会により審議未了廃案となり、続く第60回帝国議会に再提出されたものの衆議院解散により再度廃案となり、結局成立しなかった。

Photo_2 1990年代末から学校の式典等における日章旗掲揚に係わる問題が頻発、掲揚に反発する教職員(日本教職員組合)とのトラブルから高校校長に自殺者が出るに至った。背景には教育現場における日の丸掲揚と君が代斉唱に対する反対運動があった。

Photo_3 戦前・戦中と「日本」の象徴として学校や祝祭日などで日の丸を掲げ、君が代が歌われてきた。

 いくら日の丸・君が代自体には戦争責任はないとはいっても、日の丸を掲げ、君が代を歌いながらアジアを侵略していった歴史に変わりはないという考えだ。

Photo_4しかし、日本人は古来、太陽を信仰の対象としており、聖徳太子も隋の皇帝・煬帝へ、「日出処天子…」で始まる手紙を送っている。607年(推古15年)には小野妹子が大唐国にPhoto_6 国書を持って派遣されたと『日本書紀』に記載されている。

また国名「日本」(日ノ本)というところからも太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を大切にしていたことが窺えよう。神社の拝殿は基本的に太陽を拝める方角を向いており、背を向けることは珍しく、そのことからも太陽への信仰は窺える。

太陽信仰や「日ノ本」の国という意識が具体的に記載されている文献としては、797年(延暦16年)の『続日本紀』の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれている。

わざわざ戦争のためにつくられた旗ではない。どの国も戦争のときは国旗を掲げ、国歌を歌いながら前進した。日本だけではない。Photo_5

このことに対処するため、1999年(平成11年)には国旗国歌法が公布され、正式に国旗として定められた

国旗国歌法成立後も一部の教育現場において国旗掲揚に対する賛成派と反対派の対立が続いた。このため、20061031日には衆議院の教育基本法に関する特別委員会において自民党の稲田朋美議員から学習指導要領の国旗・国歌条項にのっとって教職員には入学式、卒業式において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する職務上の義務があるかどうかとの質問が出された。この質問に対して伊吹文明文科大臣と民主党の藤村修議員の両名とも教職員にはその義務があると答えている。

Photo_7 国旗や国歌のない国などありえない。2010212日から28日までカナダのバンクーバーで開催される冬季オリンピックで日の丸が掲揚され、君が代が歌われるとき、すべての国民は彼をたたえ、感動するだろう。

したっけ。

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文化財防火デーについて考える

2010-01-26 14:45:17 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

毎年1月26日は、「文化財防火デー」です

  Photo_3 文化財防火デーの制定は、1949年(昭和24年)1月26早朝、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺(奈良県斑鳩町)の金堂が炎上し、壁画の大半が焼損した。壁画は長年、自然災害や兵火にも遭わず飛鳥時代の芸術を伝えてきたものだった。Photo_2

その焼損は日本国民に強い衝撃を与えただけでなく、当時のロンドン・タイムズの東京支局長フランク・ホーレーも「法隆寺は外国人にとっても非常に興味を持たれている・・・法隆寺が焼けてしまったと聞いたらどんなに悲しむことか・・・日本人はこうした“貴重なもの”の取扱いが全く下手でデタラメだ」と語った。

そればかりでなく、同年2月には愛媛県の松山城の筒井門等3棟が、6月には北海道の松前城の天守等2棟が焼失した。半年の間に3件の国宝(当時)が火災に遭ったのである。これらの事件によって日本国民の間でも、火災などの災害から文化財を保護する必要性について議論が高まり、1950年(昭和25年)文化財保護法が制定される一つの契機となった。

  その後、1954年(昭和29年)113日に法隆寺金堂の修理事業が竣工し、文化財保護行政も確立するとともに、文化財保護思想の一層の強化徹底を図るために普及啓発事業が行われるようになりました。その一環として、法隆寺金堂の焼損した日であること、1・2月が1年のうちで最も火災が発生しやすい時期であることから、1955年(昭和30年)に、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が1月26日を「文化財防火デー」と定めました

以来、毎年この日を中心に、各都道府県教育委員会、各消防署、文化財所有者等の協力を得て、文化庁と消防庁が連携・協力して全国各地で防火訓練などの文化財防火運動を展開しています。

Photo法隆寺とは、聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院である。創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607とされるが、確証はない。金堂五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

したっけ。

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「うんこ」について考える

2010-01-25 11:34:51 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

うんこ

《「うん」はいきばる声、「こ」は接尾語》大便をいう幼児語。うんち。

だい‐べん【大便】

肛門から排出される、食物のかすと腸粘膜からの分泌物などのかたまり。便。糞(くそ)

辞書:大辞泉

Photo

「あら、奥さん久しぶり・・・。」

「最近、調子どお・・・。」

「だめ!1週間に1度くらい。」

「あら、いいわね~。あたしなんか、ここんとこ10日ぐらい出てないのよ。」

「ほんと、やあね便秘・・・。」

Photo_2  よく聞く会話です。ちゃんと食べないから出ない。簡単なことなんですけどね。

  便秘に悩む大方の人は、朝は面倒だから食べない。またはパンで済ます。お昼はお菓子をかじって済ましちゃう。夜は、これも面倒だから肉Photo_5焼いて済ましちゃう。Photo_3

 これじゃあ、便秘になって当たり前です。日本人はご飯を食べて、魚を食べて生きてきた人種です。それが急に、パンだ、肉だっていっても腸が対応できません。そういう風になっちゃてるんですから・・・。

 Photo_4 お箸だって、魚の小骨が取りやすいように先が尖っているでしょう。これは日本人が考え出した知恵なんです。中国をはじめとするアジアの国の箸は円柱で、元から先まで同じ太さです。行ったことのある人は、使いづらいと思ったでしょう。先の尖った箸は魚もそうですけれど、お米の1粒までつまめる優れものです。それが日本の文化です。

 もう私が何を言いたいのか解ったと思います。そうです、日本人なら米を食え!ってことですよ。日本人は米を食べる腸を持っているのですから。Photo_6

 クソという字を知っていますか。「米が異なる」と書いて「糞」なのです。

胡散臭い(うさんくさい)ウンチク話で申し訳ない。

したっけ。

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日本のトイレ事情について考える

2010-01-24 10:58:26 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

日本で最初にトイレが登場したのは、縄文時代といわれています。それは、遺跡から、川岸に杭を打って板を渡し、その上で用を足すものであったと推定されています。

弥生時代も縄文時代と同様に川など野外の思い思いの場所で用を足し、自然の浄化作用に任せていましたが、古墳時代に入ると、敵から身を守るため集落の周りに堀(環濠)が掘られるようになり、その堀がトイレになったようです。

飛鳥時代には、川を建物内に引き込み用を足すようになりました。トイレのことを「厠(かわや)」と言いますが、この「川を建物内に引き入れた」ことが「厠」の語源であるとされています。

Photo また、平城京の貴族たちは、都大路の側溝の流れを屋敷内に引き込み用を足しましたが、当時、「厠」は上流階級のステイタスであったようです。

平安時代に入ると寝殿造りの建物が現れますが、貴族の屋敷からトイレのPhoto_2 姿が消え、代わりに「樋筥(ひばこorひのはこ)」と呼ばれる漆器製の「おまる」が使用されるようになります。この「樋筥」には「衣掛け」と呼ばれる、上に丸い棒が付いた板が立てかけられこの板を後ろにして、それに装束の裾を掛けて用を足しました。この「衣掛け(きぬかけ)」がなまって、和式便所の「金隠し」になったといわれています。

また、「樋筥(ひのはこ)」の簡易なものは「樋箱(ひばこ)」と呼ばれていました。「樋筥」「樋箱」を洗いきよめる女性は、比須万之(ひすまし)、あるいは樋洗いとよばれ、高貴な邸ではなくてはならぬ職業であった。その後「樋筥」専用の部屋が設けられ、これを「樋殿(ひどの)」といいました。

当時の庶民はどうであったかよく分かっていませんが、縄文時代と同様に自然の浄化作用に任せていたものと思われます。

1 鎌倉時代になって幕府が二毛作を奨励すると、人の糞尿を下肥(肥料)として使用するようになり、汲み取り式便所が登場します。その後、書院造りが現れるようなってトイレは住居の一部に組み込まれるようになります。これは武士の時代になり、いつ襲われるかもしれないという安全上の理由からであるといわれています。

江戸時代に入ると、糞尿のほとんどすべてが下肥として使用されるようになり、江戸では、近郷の農家が野菜と交換に争って糞尿を汲み取らせてもらうようになります。また、糞尿は商品として流通するようになり、専門の汲み取り業者によって、江戸の糞尿は河川を利用して、関東各地へ肥船で運びだされました。

当時の江戸が、人口100万人を超える世界最大の都市に成長し、かつ極めて清潔に保たれた背景には、始末に困る糞尿を下肥として使用し、農業の生産性を高める循環システムが確立されたためであるといわれています。なお、江戸時代に、このような循環システムを可能にしたのは、室町時代の末に、日本に豊富にあった杉と竹で、軽くて、丈夫で、しかも安価な「桶」という液体運搬容器が開発されたからだともいわれています。

Photo_3 Photo_4 Photo_5 2 糞尿には等級があり、食生活が豊かな大名屋敷や大店から出るもののほうが長屋住まいの町人のものよりも高価で取引されました。また、その濃度によっても値段が異なるため、大小便所を別々に設けて女性も小便所を使うようになり、女性の立ち小便スタイルも普及したということです。当時の長屋には共同便所がありましたが、その糞尿の所有権は、関東では大家に、関西で店子にあったそうです。ちなみに、糞尿の値段は、幕末の記録では、1年間、大人10人分で、2分か3分(1両=4分)程の値段で取引されていました。

余談になりますが、江戸城から出る人糞は、葛西村(武蔵国葛飾郡)が独占していた。長屋に併設された共同便所は、これらの肥料原料を効率良く収集するために設置され、ここから得られた肥料で城下町周辺部の農地は大いに肥沃になり、町民に食糧を供給し続けたのです。

Photo_6 明治時代に入っても、トイレは汲み取り式便所で、糞尿は下肥として農地に還元するという形態は変わらず、糞尿を売ることもできました。

大正時代になると、安価な化学肥料の大量生産などが原因で糞尿の価値は低落し、大都市近郊の糞尿は料金を支払って汲み取り業者に回収してもらうようになります。

戦後になって、人口の都市集中化が進み、糞尿の行き場がなくなります。糞尿は寄生虫の問題も加わって、徐々に厄介者になって行きますが、糞尿の下肥として利用は昭和30年代までつづき、糞尿の海洋投棄や山林投棄による処分もつい最近まで行われていました。

その後、日本の大半のトイレは、下水道の普及や浄化槽の利用による水洗化の道を歩みます。水洗トイレが登場したのは昭和30年頃のことで、腰掛け式の水洗トイレは昭和34年に日本住宅公団が採用してから、徐々に、一般家庭へ普及していきます。

現在、トイレは温水洗浄便座、抗菌便座、自動脱臭便座などの登場により、快適な生活空間の一部となりつつあります。また、キャンプ場や山小屋などでは、バクテリアの働きで糞尿を自然に戻す「バイオトイレ」が実用化されています。そして、トイレは更に進化をつづけるでしょう。現在、便器に座るだけで健康状態を管理することができるトイレが研究されているそうです。

ついでに、後始末について少しお話しますと、日本人がトイレで紙を使うようになったのは平安時代といわれていますが、これは貴族だけのことであり、江戸時代までは、関東では「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれる割り箸のような木片を使い、関西では「縄」にまたがりお尻を拭いていたようです。なお、古墳時代には、土師器(はじき:古墳時代から平安時代にかけて用いられた素焼きの土器)や須恵器(すえき:日本古代の灰色の硬質土器)の破片がトイレットペーパーの代われに使われていたことが、遺跡から推定されています。

ちなみに、一般の日本人がトイレで紙を使用するようになったのは、明治の中頃からです。現在、世界中でお尻を拭くのに紙を使っている人は、3分の1以下だそうです

したっけ。

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ヨーロッパのトイレ事情について考える

2010-01-23 12:42:15 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

Photo_3 2 ヨーロッパのトイレはどうであったかといいますと、はっきりした記録では、紀元前600年頃のローマ帝国時代には水流トイレが作られ、腰掛け式としゃがみ式の両方の便器があったそうです。この古代ローマ人が創りだしたトイレは石造りの便座の下には常時水が流れている、いわゆる水流式トイレでした。しかし、これは中世ヨーロッパには受け継がれず、中世ヨーロッパはトイレの暗黒時代に入っていきます。

中世のヨーロッパの都市は、高い城壁に囲まれて拡大ができなかったため、人口は過密状態でした。

城館や修道院にはトイレありましたが、一般の家にはトイレがなく、住民は「おまる」を使用して、「おまる」が一杯になると定められた場所に捨てるのが決まりになっていました。しかし、定められた場所へは持っていかずに、窓から外へ投げ捨てるのが習慣になっていたため、都市の環境は人口過密と相まって劣悪な状態であったようです。

近世になっても、パリやロンドンなどの都市では、三・四階の建物が多く、共同トイレが屋外にあったため、上の階の住民は用足しに降りてくるのが面倒なので「おまる」を愛用して、夜のうちに窓から糞尿を投げ下し捨てていたので、道路は汚物でぬかるみ、悪臭を漂わせていたのです

Photoイギリスでは18世紀末まで、室内の便器で用を足し、その汚物を2階の窓から投げ捨てていました。そこで、汚物を踏まないためにハイヒールが登場しました。当時の家は、2階が歩道に突き出ていたので、歩道の内側は2階の床下になっていて汚物を直接浴びる心配はありませんでした。そのかわり歩道の外側はもろに汚物を被りました。そこで紳士たる者は、汚物を浴びやすい歩道の外側を、レディーは安全な内側を歩くマナーが生まれました。投げ捨てられる汚物を浴びないために、イギリス紳士が外套を着用することになったのです。イギリス紳士のマナーもベルサイユのエチケッ4(前日記)も糞尿から生まれたとは面白いですね。なお、フランスの田舎では、この糞尿を道路に捨てる習慣が20世紀に入っても残っていたそうです。

また、ベルサイユ宮殿には豪華に装飾され椅子式のトイレがあったそうですが、その数が少なく、貴族淑女達は庭で用を足したため、舞踏会は糞尿の香りが溢れ、翌日の掃除が大変であったといわれています。

そこで、庭師が景観を害する場所に杭を打ち「大小便禁止」の看板を掲げました。その杭のことを、フランス語で「エチケット」というのだそうです。

中世から近世のヨーロッパでは、人の糞尿を肥料として利用しなかったため、日本では有用な糞尿もヨーロッパでは処理に困る厄介もので、これを適切に処理しなかったことから、しばしば、ペストやコレラなどの疫病が流行しました。

ちなみに、有名なパリの大環状下水道が完成したのは1740ですが、下水を処理する技術がなくセーヌ川に垂れ流しでした。また、イギリスでは、産業革命により都市の衛生状態が劣悪となり、1853年のロンドンでのコレラの大流行を期に下水道の建設が始まりましたが、これもテムズ川に垂れ流し状態で、20世紀になって、ようやく下水処理が開始されるようになります。

なお、16世紀末には、既に、タンク式の水洗便器がイギリスで発明されていましたが、当時は下水道が完備されておらず、汚水の排出先がなかったことから普及しませんでした。また、U字型排水管をつけた水洗便器はイギリスで1775年に発明されております。

したっけ。

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