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草原の対決

2009-03-20 13:33:24 | 童話

*昔書いたものに手を加えて掲載して見ました。童話と言うより、少年小説といったほうがいいかもしれません。現在、執筆中の応募用作品はちょっと行き詰まり状態なので、気分転換のつもりで、書き直しましたが、案外面白いかも・・・*

『草原の対決』

                             都月満夫

ヤツは確かにいる。今、太陽は雲間に隠れた。雲の影が草原を覆っている。この草原の何処かに、ヤツは身を潜めている。オレは必ずヤツを見つけだす。オレは背中に陽射しが当たるのを待ちながら、じっと草原全体に耳を凝らす。

 今、雲に隠れていた太陽が、やっと顔を出した。オレの背中にも、陽射しがあたり、暑さを感じ始めた。幾筋もの光線が剣のように草原に突き刺さっていく。雑草の葉先を揺らしていた風も、今はほとんど停止した。

ヤツはきっと動き出す。突き刺さる太陽の光線に耐え切れなくなる。ヤツは必ず動き出す。それまでヤツにオレの存在を気付かれてはならない。

オレは身を低くして息を殺している。今は待つしかない。降りそそぐ真夏の太陽がオレの背中を焼いている。首筋から汗が流れる。汗が地面に落ちる音さえ、ヤツに気付かれてはならない。静かに手のひらで汗を拭う。オレは野球帽のつばを後ろへ回した。首筋にあたる日差しを少しは遮ることができる。

 数分の時が流れた。遠くでヤツの気配がした。ヤツが動き出した。オレはヤツの気配がした方向へ二、三メートル移動した。ヤツとの距離はまだ遠い。しかも、幸運にもヤツはオレの風上にいる。この距離では、まだそれほど注意しなくても大丈夫だ。オレは立ち止まり、又ヤツの気配を待った。

これは持久戦だ。ヤツとオレとの我慢比べだ。短気を起こしてはならない。ヤツはまだ、オレの気配に、気付いてはいないはずだ。

 又、ヤツの気配がした。オレは少し進路を右に修正して二、三メートル進んだ。まだ大丈夫だ。まだ、ヤツに気付かれる距離ではない。オレは確実にヤツに近づいている。又、ヤツが動いた。ヤツの行動間隔が確実に短くなっている。

これは、ヤツが草の茂みの奥から、少しずつ、陽のあたる場所に、移動していることを示している。陽のあたる場所に移動するごとに、ヤツの注意力は散漫になる。これは、ヤツの習性だ。ヤツにはどうすることもできない。事態は少しずつ、オレにとって有利に動き出した。

足の裏に汗が滲む。ゴムの短靴の中に汗が溜まってきた。しまった。靴の中に草をむしって敷いておくのを忘れた。裸足のオレにとって、靴の中汗が溜まり、足がすべるのだけは避けなくてはならない。わずかなミスで踏みしめている草が音を立てる。

ヤツはまだ小さな音にも敏感なはずだ。お尻に継ぎ当てのある半ズボンで、手のひらを拭う。半ズボンから露出している素足を草の葉がくすぐる。耐えなくてはならない。動いてはならない。ヤツがもう少し背丈の高い草の穂先に近づくまでは、決して動いてはならない。わずかな音にも気をつけなくてはならない。ヤツは鳴きながら、少しずつ登っているはずだ。

ヤツが鳴くたびに、オレは一歩前進する。ヤツは鳴いている瞬間は注意を怠る。このことをオレは経験で知っている。

ヤツがヨモギなどの背丈の高い草の天辺で鳴くのは、もちろん、メスを呼び寄せるためでもあるが、それ以上に縄張りを主張するためなのだ。肉食のヤツ等がその狩場を確保することは、生きていくためには非常に重要なことなのだ。

オレはもうヤツの二メートル手前まで接近していた。これからが大変なのだ。ヤツが鳴く瞬間に足を静かに持ち上げる。そのまま、ヤツが次に鳴くまで体勢を維持しなければならない。次に鳴いた時に静かに足を下ろす。

絶対に足を引きずってはならない。下草がどんな音を立てるか分からない。足は草の状態を確認しながら静かにそっと下ろさなくてはならない。足を持ち上げるタイミングはヤツが鳴く瞬間なのだが、ヤツの癖さえ知っていれば難しくはない。

ヤツはなく前にまず軽く翅を擦り合わせて、チョンと音を出す。それからギースと本気で翅を擦り合わせて鳴き始める。チョン…ギース。最初のチョンが合図となり、ギースのときに足を持ち上げる。ギースの長さはヤツの気分しだいだ。ギースと鳴いている間、ヤツは渾身の力を翅に集中している。その間だけ、ヤツの注意力は空白となる。

今、ヤツはオレの三十センチメートル先にいる。確かにいる。オレはヤツが鳴くたびに、目を耳にしてヤツを探す。目を見開いて音のするほうに眼球を少しずつ移動する。それは一ミリメートル単位の移動であったろう。目で音を聞いている感覚である。それが、ヤツを見つけ出す、極意である。

ヤツの名はキリギリス。私が小学三年生ぐらいまでは、市の郊外の草原にはたくさんいた。私は鉄南地区に住んでいたので、家の近所の原っぱでもキリギリスは鳴いていた。昭和三十年代の前半のことである。

当時の私たちの遊びといえば、缶けり、ビー玉、釘刺し、魚獲り、ザリガニ獲り、そして虫捕りであった。

その頃の緑ヶ丘公園一帯は動物園もなく、ボート池があるだけであった。湧き水が数ヶ所から湧き出ていて、池に流れ込んだり、小川となったりして流れていた。小魚を獲ったり、ザリガニを獲ったりするのには格好の場所であった。

勿論、樹木も今よりたくさんあって草も自然に生えていた。私はこの緑ヶ丘公園の、現在は動物園があるあたりを、キリギリス捕りの場所としていた。と云うより、子供たちの大切な遊び場であった。

小学校三、四年生頃の私は特にキリギリス捕りに関しては、子どもたちの間で、名人と言われていた。

家には父が作ってくれた、みかん箱に網を張った大きな虫カゴがあって、常に十数匹のキリギリスが入っていた。餌はキュウリとかナスをあたえる。だが、それだけでは共食いをするので、鰹節や煮干なども与えていた。ヤツらは肉食なのだ。

私は、たまたまメスを捕まえて、籠に入れておいたときだ。オスが生きたまま雌に食べられていた。メスはオスよりも獰猛で、肉食性が強いのだ。あの、オスの顔はいまでも、忘れない。それから私は、メスを発見しても捕らえたことは無い。

虫とはいえ、その十数匹の糞はかなりの臭気を漂わせ、母は閉口していた。それでも母は私に、もうキリギリスを捕ってくるなとは言わなかった。

ただキリギリスに関して母が私に言ったことは、キリギリスを捕りに行くときに、弟を連れて行けということだった。

しかし、私は何度母に言われようともキリギリスを捕りに行く時だけは、弟に見つからないようにこっそりと出かけた。弟に限らず、キリギリス捕りだけは、友達とも行かずに、いつも一人であった。

その理由は、彼らにはキリギリスと対決するだけの根気と集中力がないということである。彼らはキリギリスの姿を見つけるどころか、草原を走り回り、キリギリスの鳴き声を消して歩く妨害者でしかない。彼らにはキリギリスと対決する資格はない。

今、ヤツはオレの三十センチメートル先で鳴いている。オレはまだヤツの姿を捉えてはいない。オレは草原の中で風となり、茂みの中を凝視する。呼吸は風に合わせて静かに鼻からはきだす。オレの息は風に同化しヤツに気づかれることはない。もう瞬きさえできない。ヤツが瞬きの音でさえも、聞き取れる距離に、私がいるはずだから。

ヤツの姿を発見する瞬間は、漠然とした図柄の中から画像が浮き出て見える3Dアートのようである。緑色の草の中に突然ヤツの姿が大きく浮き上がって見える。まるで望遠写真のようにヤツの姿にだけピントが合い、周囲の草はピンボケ状態となる。

今、その瞬間が訪れた。オレの目の中にヤツの姿が大きく映し出された。西洋の鎧兜のようなヤツの顔がはっきりと見える。しかし、まだヤツの複眼にオレの姿は映っていないはずだ。ヤツは長い左右の触角を鞭のように、忙しく動かしながら、上を目指している。

キリギリスを捕らえるにはいくつかの方法がある。

一つは、網を使って捕獲する方法であるが、これは捕獲するのが不可能に近く最初から論外である。キリギリスを知らない親たちが、まっ白な補虫網を与える。そして、麦藁帽子だ。白い補虫網に白い開襟シャツ。そして、麦藁帽子継ぎ宛の無い半ズボン。親の自己満足の世界だ。

二つ目の方法は、両手のひらを静かにキリギリスのほうに差し出し、そのまま挟み込んでしまうやり方である。

しかし、この方法には三つの欠点がある。

一つ目の欠点は、キリギリスに気づかれずに両手を差し出すのが非常に難しいということである。たいていの場合、キリギリスのところまで手が届く前に、気づかれてしまう。

そして二つ目の欠点は、上手くキリギリスのところまで手が届いたとしてもキリギリスを挟み込む時に、両手のひらの狭い空洞にきっちりとキリギリスの身体を捕らえるのは難しいということである。もし、捕らえたとしても、キリギリスの長い脚を折ったりして傷つけることが多い。

さらに三つ目の欠点は、捕らえたときにキリギリスの、鎌のような両顎に噛みつかれ、時には出血するほどの傷を負うことである。

そしてさらに付け加えるなら、この方法は子どもにとっては手が小さくてとても確率が少ないということである。大人はこの方法を用いるのが大半だ。

それでも、ほとんどの子供たちが、論外な、補虫網を使う方法であり、両手で挟み込む方法でキリギリス捕獲に挑戦する。だから彼らはなかなかキリギリスを捕らえることはできない。

もっと論外なのは私の父親だ。必ず、ねぎを持って行けと言う。キリギリスはねぎが大好きだから、ねぎに集まると言うのだ。話にもならない。

オレにとってヤツの姿を捉えたということは、ヤツを捕らえたに等しいことである。ヤツ等の習性さえ知っていれば実に簡単なことである。オレは、ヤツのいる真下の草の状況をしっかりと把握する。そして、目でヤツの姿を捉えたまま、あえて、かすかな音を立てる。この音はあくまでも、かすかな音でなければならない。あまり大きな音の場合、ヤツは驚いて大きく飛び跳ね、草の中に姿を眩ましてしまう。

オレは右足の先をわずかに動かして、小さな音を立てた。ヤツはその小さな音を感じ取り、ポトリと真下に落ちた。ヤツは警戒しているので、次の気配に対して身構えて、すぐには動かない。

オレは下に落ちたヤツの姿を確認して、右手で下草を払うようにして、ヤツに被せて倒れこんだ。捕らえた。ヤツはもう、この草の下から逃れることはできない。

オレは草の葉を一本一本取り除きながら、ヤツの姿を探していく。草の葉の下にヤツの姿が見えた。オレは慎重に葉を除け、ヤツの首筋を掴んだ。ここを掴まないと、ヤツに噛みつかれる。ヤツの身体は以外に柔らかく、身体をくねらせて、思わぬ抵抗にあい傷を負うことになる。

ヤツは草の茎に噛みつき、オレに捕らえられることを必死に拒否している。ここで強引に引っ張ると、ヤツの首がむしれてしまう。ヤツが噛みついている草をむしって、そのまま虫カゴに放り込む。

一匹捕らえると、二匹目以降は案外簡単に捕らえることができる。陽当たりのいい場所に移動して、キリギリスの入った虫カゴを置いておく。カゴの中のキリギリスは陽に照らされて、堪らずに鳴き始める。すると、その付近にいるキリギリスが、釣られて鳴き始める。鳴き始めないということは、その付近にはキリギリスがいないということだ。その場合は場所を移動すればいいのだ。

この習性を、鳴き返しということを、私は大人になってから知った。縄張りを侵略されたキリギリスが自分の縄張りを主張するため鳴くのである。カゴの中のキリギリスは移動することができないので、鳴き続けるしかない。

オレは陽が落ちて、ヤツ等が草の茂みの中に身を隠すまで、ヤツ等との対決を楽しみ、夕陽の中を家路に着いた。

母は、今日も、弟を連れて行かなかったことを叱った。

「お兄ちゃん!明日は、弟を連れて行くんだよ。」

 そう、笑いながら、大きな声で言う。弟に聞こえるように…。

 母は、日に焼けて真っ赤な顔で、虫籠を見せるオレに「随分捕れたね。」と小さな声で褒めてくれた。

母は虫が大嫌いなはずなのに…。

*後述**********

大人たちが子どもたちのためにと、おびひろ動物園は昭和三十八年に開園された。動物園は、大人が子どもと遊ぶ場所で、子どもたちが遊ぶ場所ではない。オレたちの遊び場と学習の場は失われた。そして今は、大人も子供も行かない場所となった。

*解説**********

?キリギリス

キリギリスは褐色で大きさは三十八から五十七ミリメートルの昆虫であるが、これは北海道には生息していない。

我々がキリギリスと呼んでいる昆虫の正式な名称は「ハネナガキリギリス」という。全体が緑色で翅の一部が褐色になっている。

草の中にいると、発見するのが非常に難しい。又、翅が体長より長いためこの名前が付いた。体長はキリギリスより小さくて三十五ミリメートルほどである。

草の葉等も食べるが、成虫になるに従い肉食になる。昆虫などを食べるので口には左右に鎌のような鋭い歯があり、噛まれると出血することもある。

?擬死

キリギリスは小さな音を感じ取り、ポトリと真下に落ちて茂みに潜ろうとする。これを擬死と云う。

?ゴム短靴

ゴム長靴をくるぶしの辺りで切ったようなもの。内側に布は貼っていない。ゴムだけの靴。これをゴム短と云い、長靴はゴム長と云っていた。

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1 コメント

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さらさらと読めて面白かったです。 (蜜柑の花)
2009-03-21 18:30:02
さらさらと読めて面白かったです。

 子供時代に昆虫を捕まえるのは楽しいですね、ちょっとした狩の真似事、大昔の狩猟時代から続いている子供の遊びなんでしょうね。

 都月さんの作品、場面や細かい設定にはいつも文句のつけようが無く読んでいます。
 そうですね、何編か読んで気付いた事、主人公の周りに対する気持ちはよく描写されていますし、ペンものっているのを感じます。最近の小説、または本来の小説はそうなのかもしれませんが、描写から主人公の気持ちを把握するように書くものなのでしょうか。主人公が思う感情
そのものズバリの心情は書かないものなんでしょうか。
 小説の書き方がよく分からない私は、ふとそんなことを感じてしまったので、書いてみました。(すみません、私ってストレートな方なので、お気を悪くなさらずにどうぞ。[E:confident] ゴメン)
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