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小説『十八年目の恋』

2012-01-16 09:59:23 | 短編小説

都月満夫

 

その電話が鳴ったのは、七月の暑い日。水曜日の午後だった。

「部長、一番にお電話です。」

「誰から…?」

「井上様とおっしゃる女性ですが…。」

…、井上?覚えがなかった。

私は、介護用住宅の建設や改築、介護用品の販売、リースを行う会社の経理を担当している。仕事の性質上、知らない人物からの電話はほとんどない。

小さな会社なので、人事も私の仕事だ。しかし、今は、社員募集も行っていない。

「はい、坂野です。失礼ですが、どちらの井上様でしょうか?」

「あらっ、ごめんなさい。井上といってもわかりませんよね。伊藤です。伊藤慶子…。S高校のときの同級生だった…。坂野裕一さんですよね…。」

「はい。そうです…。」

…、すぐに思い出した。伊藤慶子、クラス一の美人だった。頭がよくて、清楚で、いかにも女学生らしい、百合の花のような生徒だった。目立つこともない、ジャガイモの花みたいな私は、会話をした記憶さえなかった。

「伊藤慶子さん。お久しぶりです。…で、どうなさいました。」

私の記憶は、ズームレンズのピントが合うように、三十年の歳月を駆け戻り、制服姿の彼女の顔を鮮明に映し出した。

「どうなさいました…だなんて、そんな言い方なさらないで…。同級生なのですから。」

おとなしかった彼女のイメージとは違い、濃艶な女の雰囲気に、私は圧倒された。しかし、卒業以来、一度も会ったことのない同級生が、一体何の用なのだ。

「…で、どうして、私がここにいることが分かったのですか?」

私も何人かは同級生の付き合いはあるが、彼女との接点のある人物は思い当たらない。

「先日、月刊情報誌の『チャオ』を拝見しました。今、急成長の介護事業の特集記事として、そちらの記事が載っていて…。」

そういえば、取材を受けた。もう発刊されて、会社にも届いていたはずだ。私は、まだ読んではいなかった。

「お名前が載っていて、もしかしたらと思って…。ヤッパリそうだったのね。」

「ああ、そうでしたか…。なんか、伊藤さんが私に電話をくれるなんて、思いもよりませんでした。よく覚えていてくれましたね。なんだか、恥ずかしいな…。」

私はどう答えていいものか困っていた。私の思考は、遠心力を失った独楽のように、不安定に回っていた。

慌てていた。クラス一の美人に憧れがなかったとはいえない。特に目立つこともない平凡な生徒であった私は、遠くから彼女を見ていた。今、その人から電話がきている。

「覚えているわよ。優しくて、いつもニコニコしていらした…。」

「あ、それはどうも…。ありがとうございます。」

彼女が私を覚えていてくれただけで、ドキリとした。急に血管が脈打つ音が鼓膜に響きだした。男子生徒の憧れの的だった人からの電話に、明らかに動揺している自分がいる。

「そちらの会社で、ほら、廃業したホテルを買い取って、高齢者介護施設を開業するって…。それで坂野君が準備室長だと載っていたわ。随分ご活躍なのね。」

「いえ、そんなことは…。来春以降の開業を目途に改築をしているところです。私はスタッフが決まるまでの仮の役職ですから…。」

そうか、介護施設に用があるのか…。

「仮といっても、大変なのでしょう?」

「ええ、それはそれなりに…。何しろ初めてなものですから…。」

「それじゃあ、ヤッパリ無理ですわね…」

…、なんだか思わせぶりな口調である。

「えっ、何が…、ですか?」

「いえね。一度お会いしたいなと思いまして…。」

…、なんだ。どういうことなのだ。私の中で、虹色のシャボン玉が膨らんだ。

「ええっ…、私と…、ですか?」

「そうよっ。お写真を拝見したら、全然変わってなくて、若々しくていらして…。懐かしくなってしまいましたの。変ですか?」

「いやあ…、変ということではありませんが…。」

「坂野君とは、あまりお話しする機会はありませんでしたが、私は、いい方だなと思っていましたのよ。」

…。何てことだ。今、彼女は私のことを、いい方だと思っていたと言った。私は何というか、恋愛には縁がなく、家内とも見合い結婚である。ああ…、そんなことは関係ない。どうしたらいいのだ。

シャボン玉はどんどん膨れ上がり、虹色がグルグルと回り始めた。

「クラス会でも開くのですか?」

「あら、それもいいわね。でも、今回は坂野君に会いたいのよ…。」

「えっ、私に…。私と二人きりですか?」

…二人きり。何てことを聞いているのだ。

「ええ、そうよ。いけない。子どもじゃないのですから、二人きりだって、いいじゃありませんか…。」

「いえ、いけなくはありませんが…。」

「じゃあいいのね。」

「あ、ハイ…。」

「それじゃあ、坂野君の都合のいい日に、お電話くださるかしら…。」

「ええ、それはかまいませんが…。何のご用でしょうか?」

最初の疑問を、やっと聞くことが出来た。

「あら、同級生が顔を見たくなった。…ではいけません?」

「いえ、あ、ハイ…。」

彼女は自分の携帯の番号を言って、電話を切った。最後に意味ありげな含み笑いが聞こえたような気がした。

電話を置くと、女性社員たちが私の顔を見て笑っている。

「なんだ、君たち…。」

一人が答えた。

「部長。昔の彼女さんですか?汗びっしょりですよ。」

「馬鹿なことを言うな。私にはそんな人はいない。」

それを聞いた彼女たちは、そんなことは知っているわよと言わんばかりに、肩を震わせてクスクスと笑った。

何をムキになっているのだ。そうだと受け流せばいいものを…。

気がつくと、エアコンのきいた事務所で、脇腹を汗が流れていた。

 

「あなた、どうなさったの?今日の夕食、美味しくなかったですか?」

妻の多美子が、食器を片付け、キッチンへ向かいながら言った。

「いや…、美味しかったよ。」

「そう…。それならいいの。結婚以来、何も言ってくれないのは、今日が初めてよ。」

「ああ…、そうか、ゴメン。」

「いえ、いいのよ。何かあったのかと思って、ちょっと心配だったから…。」

私が多美子と結婚して、もう、十八年になろうとしている。

私は多美子を好きだったわけではない。嫌いだったわけでもない。親戚の知り合いを紹介され、見合いをした相手だった。多美子は小さな会社の事務員で、私より二つ年上だった。

見合いをしてから、二、三度食事をした。多美子も、私同様どこといって際立ったところはなく、おとなしい女だった。

別に断る理由もなく、相手も気に入ってくれたので、そのまま結婚した。

恋という字の上部は「絲と言」からなり、もつれた糸にけじめをつけようとしても、容易に分けられないことだそうだ。その下に心を加えたのが「戀」という字で、心がさまざまに乱れて、思い切りがつかないことを表しているという。

私は、そんな複雑な思いなど経験せずに、結婚してしまった。

それでも、結婚とは不思議なもので、面識のなかった男女が引き合わされ、同居を始めた。そのことに、何の疑問も持たずに、現在まで過ごしてきた。

息子もでき、人並みの親としても、夫としても何の不満もなく、生きてきた。

「あなた…。やっぱり今日、何かあったのですか?いつもと違うみたい。」

多美子がキッチンから戻って話しかけた。

私は、伊藤慶子からの電話のことを考えていた。だからといって、普段と違うとは思ってもいなかった。

「いや…、何もないけど…。」

「それならいいの…。あんまり喋らないから、心配事でもあるのかと思って…。」

何故、電話のことを話さなかったのか。ただの同級生からの電話だったのに…。

彼女が何のつもりで投じたかわからない小石が、胸の中で波紋を広げた。ざわめく風の中で、今も細波が立っている。

「あなた、満夫も来年からは大学生になるのよ。大丈夫かしら…。」

早いもので、息子も来年は、大学に入る歳になった。

「大丈夫って何が…?」

私は夕刊を読みながら聞いた。

「景気よ。景気がなかなかよくならなくて大変だって時期に、春の大震災でしょ。満夫が卒業する頃は、景気がよくなっているかしらね。」

「そうだな…。せっかく景気が上向きのときの震災だからな…。」

「良くなって貰わなくては、困るわよね。」

「そうだな…。」

私の頭の中は、景気や大震災を考える隙間はなかった。伊藤慶子、彼女を何処に呼び出せばいいのかで埋め尽くされていた。

誰かを交えて会うのなら気楽だが、二人でとなると、どうしていいのやら、思いもつかない。友人に相談するわけにもいかない。

こちらの都合のよい日を連絡して、そちらで場所を指定してくれと言うわけにもいかないだろう。

女性との付き合いが、多美子との結婚前の食事だけという、ないに等しい経験では、どうしていいかわからない。野暮なオヤジには難題であった。

会いたいというからには、やはり、食事に誘わなくてはならないのだろうか?

喫茶店で、お茶でもいいものだろうか?

夕食に誘って、酒でも…、ってことになったらどうすればいいんだ。

バーのカウンターで、ほろ酔いの慶子の顔が浮かぶ。それも、高校生の慶子である。その後の顔は知らないのだから仕方がない。

いや、いかん、いかん。夕食は…、夜は問題がある。

しかし、まさか昼飯にラーメン屋ってわけにもいかないだろう。

まさに、心がさまざまに乱れて思い切りがつかない状態とは、このことだろうか…。

 

土曜日の午前十一時半。私は市内のHホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいた。

伊藤慶子から電話があった次の日、このホテルで昼食を…、と電話をした。あれこれ考えたすえに出した結論である。

ホテルでランチとは、我ながらいいアイディアだと悦に入っていた。

この二日間、仕事にも身が入らなかった。緊張していた。落ち着かなかった。

私は自信がなかった。いいアイディアだと思いながらも、これでいいのかと不安であった。彼女のような美人だと、男性に誘われた経験も多いことだろう。

こんなところに、私を誘うの…。などと思われてはいないだろうか…。

今日は土曜日だが出勤日だった。十一時には用事があると、会社を出た。十五分でホテルに着いた。もう、水を三杯も飲んでいる。

今朝、家を出がけに、多美子に言われた。

「あら、そのネクタイ、初めて締めてくれたわね。買ってあげたときは、派手だといって締めてくれなかったのに…。どうしたのかしら、女性とでもお会いになるの?」

「馬鹿なことをいうな。」

「冗談ですよ…。似合っているわよ。」

あの時は、ドキリとした。今さら、彼女のことは言い出せない。本当に冗談だったのだろうか?女の勘は鋭いと言うから、見透かされているのではないのか?

なんだか、後ろめたい気がした。

愛という字の下半部は原型のままだが、その上部は「旡」のひどく変形したものだそうだ。旡とは、人間が腹をいっぱいにつまらせて、後ろにのけぞった姿だという。胸いっぱいの切なさ、それを愛というのだそうだ。それは心の姿だから、心の字をそえ、また切なさに足を引きずり、歩みも滞りがちとなるので、足ずりの形「夂」を添えたという。

私は今、多美子に対して、愛という胸いっぱいの切なさを感じていた。

多美子は、私の心の動揺を見抜き心配し、普段と違う行動に何かを感じ取った。

私は、何気なく過ごしてきた満ち足りた日常に胡坐をかき、それを当たり前だと思って生きてきた。十八年の歳月は、前が見えないほどに、私の心を満たしていたのだ。

何故、今日のことを多美子に告げなかったのだ…。靄のかかった胸の中で、後悔という名の花火が打ち上がる。シャッターを降ろすように、火の粉が燃え落ち、心を閉じた。

ラウンジに掛けられた、大きな時計が、コチッコチッと時を刻む。その音は、私の鼓動と共鳴し、耳の奥で反響する。秒針はスローモーションのように動いている。

コーヒーはとっくに冷たくなっている。震災以来、控えられているとはいえ、冷房の効いた場所で、私は汗ばんでいる。冷めたコーヒーを口に含んだ。飲み込むときに、ゴクリとやけに大きな音がした。

時計の針は、五分で十二時になろうとしている。入口付近を見つめる私の目は、落ち着きのない犬のようにキョロキョロしていた。

 

 

自動ドアが開き、女性が入ってきた。華やかではあるが、決して下品ではない、落ち着いた服装の女性だ。

私はすぐに、伊藤慶子だと思った。高校時代と変わらぬ美しさであった。

彼女も私を見つけ、近寄ってくる。私は、立ち上がった。

「井上でございます。お久しぶりです。本日はお忙しいところを、お時間をいただき、ありがとうございます。」

彼女が挨拶を終えると、背後から若い女性があらわれた。

「娘でございます。来春、福祉系の大学を卒業いたします。」

そういうことだったのか…。こんなことなら、野暮な私にだってすぐに理解ができる。

あの日以来、グルグル回っていたシャボン玉がはじけた。私は体中の力を失い、ヘナヘナと倒れるように椅子に座り込んだ。

勘違いもはなはだしい。笑いがこみ上げてきた。声を出して笑った。

カラカラと重いシャッターを持ち上げた向こうに、眩しい多美子の顔があった。

私は、多美子を食事に誘いたいと思った。今すぐ、迎えにいきたいと思った。

井上母娘が、引きつった笑顔で、私を見おろしていることには、気づかなかった。

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14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
面白かったです。 (チャコのコーヒータイム)
2012-01-16 14:48:45
面白かったです。
長年連れ添った妻への愛情を確認できて良かったです。
でも、誘惑されたらどうなっていたんだろう。
返信する
一気に読みました。 (きままなマーシャ)
2012-01-16 15:15:53
一気に読みました。

彼が今の幸せに気づくことができてよかったです^^
あまりにスムーズな毎日だと
日々の暮らしが当たり前になってしまいがちですものね。
ちょっと気の迷いを起こした彼が可愛くもあります^^
用件を言わなかった自信たっぷりな伊藤慶子さん、
子供の為だったのですね。
女性って複雑でかわいいですね(*^_^*)


返信する
★チャコさん★ (都月満夫)
2012-01-16 15:28:54
★チャコさん★
誘惑なんかされませんよ。
書いてる人を私は知っていますが、真面目な人です^^
したっけ。
返信する
★きままなマーシャさん★ (都月満夫)
2012-01-16 15:32:19
★きままなマーシャさん★
男は馬鹿だから、すぐ調子に乗る。いつも迷いっぱなしです。女性は永遠の謎です。
したっけ。
返信する
あぁ。なんだか、主人公と一緒になって後ろめたい... (ひいち)
2012-01-16 18:20:48
あぁ。なんだか、主人公と一緒になって後ろめたい気持ちになったり拍子抜けしてしまいました(笑)

思わせぶりな彼女はずるい!
返信する
★ひいちさん★ (都月満夫)
2012-01-16 19:52:47
★ひいちさん★
男から見ると、女性はいつでも思わせぶりです(笑)
したっけ。
返信する
こんにちは(^^) (紫音)
2012-01-16 20:42:55
こんにちは(^^)

面白かったです(^^)

最後、そういうことだったのですね♪

私は年末年始にかけて、高校と中学の
同窓会があったのですが、行かなかったんです。

もし行っていたら、そういう、ドキドキとか
ガッカリとか(笑)、あったかもしれませんね(^^)

返信する
★紫音さん★ (都月満夫)
2012-01-16 20:48:17
★紫音さん★
私は中学、高校の同級生とはけっこう会っていますよ。女性からお呼びがかかるほうが多いかも・・・。
ま、人畜無害ってことでしょうか(笑)
したっけ。
返信する
したっけさん やっぱブンヤさんですね。 (メルポポ)
2012-01-16 21:55:40
したっけさん やっぱブンヤさんですね。
うまいわぁー
返信する
ちょっとハラハラドキドキ感があって、 (ヒカリ)
2012-01-16 23:07:00
ちょっとハラハラドキドキ感があって、
最後まで読まずにはいられませんでした。
息子さんの名前が満夫くんというのが
またおもしろいです。((´∀`))
最後は、坂野さん夫婦にとって、
ハッピーエンドというのが、良いですね!
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