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徳川家康が天下の権を手中にしたのち、駿府城に在って、幕府三
百年の偉業の基礎を築いた時代のことです。
家康は、井川(静岡市)の笹山金山や梅ヶ島(静岡市)の日影沢金山などを御用金山として、海野彌兵衛(うんのやへい)を奉行として盛んに金鑛の採掘を行いました。
なにしろ、場所が安倍川源流の山奥だから、何千人という坑夫を送り込んで働かせるの には、慰安の施設も必要なので、傾城小屋(けいせいごや)を建て、駿府二丁町(現静岡市駒形五丁目界隈)の遊女を出稼ぎさせるという騒ぎまでして、四斗樽へ三百杯という大量の金を掘り出していたのでした。
ある時、家康がこの金山を検分に出向いた際、ある男が餅を搗き、豆の粉(きな粉)をまぶして献上しました。家康がこれを食べたところ、大変美味かったので、献上した男を呼び寄せて、この餅の製法を尋ねました。
するとこの男が、「この餅は、金山から産出し安倍川へ流れ下る金の粉を掬いあげて、餅にまぶしてつくるので『金粉餅(きんこもち)』と申します」と即座に答えました。
家康はこの男の奇智を誉め、褒美を与え、改めて、この餅を『安倍川餅』と命名されたということです。
つきたての餅に黄粉や餡をまぶした安倍川餅の味は格別。いまも文化元年(1804年)創業の「石部屋(せきべや)」など数軒の店があります。
また、この「金粉餅」は、今川・武田の戦国の頃(約四百二十年前)から、梅ヶ島金山で「今年も金が多く産しますように」と神前に供えられて、豊富な産金を祈ったものだとも伝えられております。
したっけ。