都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
さて、平安時代の恋愛は、実際に逢うまでは女性優位利で、逢ってからは立場が逆転すると書きました。
逢瀬では、どんなに素敵な言葉を並べられても、独りになると男性が浮気しないかちょっと心配なんてことも多かったはずです。そんな気がかりも恋を深めるきっかけかもしれませんが・・・。
この歌も、不安に揺れる微妙な女心を歌ったものです。
「長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ」待賢門院堀河『千載集』
「(昨夜契りを結んだ)あなたは、末永く心変わりはしないといいましたが、どこまでが本心か心をはかりかねています。お別れした今朝はこの黒髪のように、私の心は心乱れて、いろいろ物思いにふけってしまうのです。」
昨夜一晩を一緒に過ごし、契りを結んだあなた。翌朝帰っていってから、後朝(きぬぎぬ)の歌をいただいて「いつまでも末長くあなたのことが好きですよ」と言葉をもらったけれども、その言葉はどこまで本当なのでしょうか。お別れした後、あなたの心をはかりかねて、この私の寝乱れた黒髪のように、心乱れて思い悩むばかりですわ。
この歌は、男が届けてきた後朝の歌に対する返歌という趣向で詠まれました。
そもそも平安時代というのは男性が女性の家に行って一晩を明かすという慣習がありました。「後朝」というのは男と女が一晩を明かした翌朝で、男が帰った後で女の許へ「昨夜はとても幸せだった」と一首詠んで贈る、という雅な慣習があったのです。
それに対して女性が返したのがこの一首というわけです。
この歌、女性が「あなたの誠意は本当でしょうか、心配です」という繊細な女性の心を表現したものです。
「黒髪の 乱れて・・・」というところなどに、情事の後の色香が漂う雰囲気が現れています。
いいですね。ファンタスティックとロマンティック、エロティックまでもが、チクチクと心に刺さります。
実はここに、心配ですなどといいながら男心の気を惹く、平安女性の激情と愛の技巧が現れているのです。
これだから、「女心」は理解できません。心配なのか、気を惹きたいのか、もっとわかりやすく伝えてほしいものです。
この歌はこの「黒髪」の表現の美しさで、百人一首の中でも際だっているといわれています。
日本女性の美しさの象徴として、黒髪が扱われているといっていいでしょう。
「待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)」(12世紀ごろ)神祇伯(じんぎはく)・源顕仲(みなもとのあきなか)の娘で崇徳院の生母、待賢門院(鳥羽院の中宮・璋子(しょうし))に仕えて「堀河」と呼ばれました。
若いころに、もっと「百人一首」を勉強しておけばよかったと思うのは、私だけでしょうか。
したっけ。
平安時代の恋愛は今と違って、男女が簡単に顔を合わせることができなかったそうです。
平安時代の女性における礼儀作法は、家族以外の男性には顔を見せない、口を利かないことでした。
女性は、寝殿造りの奥の間に隠れるように暮らしていました。これが、奥様の語源。
人前に出るときは扇で顔を隠さねばなりませんでした、女性が男性に顔を見せるということは、結婚を許したのも同然のことだったからです。
扇で顔を隠すのは、吹き出物がすごかったとか、化粧が剥げ落ちたのを隠すためとかの説もありますが・・・。
というわけで、平安の男性は女性の噂に恋をするのです。女の姿を実際に見ることができない平安時代においては、男性は女性の情報を集めることから恋が始まったのです。
美人であるか、教養はあるか、気立てはどうか、家柄は、財産は…。財産、家柄は重要でした。当時は、男性が女性の家に通い、やがて婿入りするという形でしたはら・・・。「通い婚」、「婿入り婚」
情報収集の直接自分で噂を聞き歩く方法や、その女性の侍女とのコネクションを活用する方法などです。
一方、女性のほうも黙って待っているばかりではありません。意図的によい「情報漏洩」して、情報操作をすることもあったようです。
ガセネタに引っかかった男性もいたはずです。
女性の情報に恋をした男性たちは、まず女に和歌を贈ります。
女性は受け取った和歌の良し悪しを見て、誘いに乗るか袖にするかを判断するのです。
最初は女性からの返事がないのが普通だったようです。今でも、しばしば使われる「じらし戦法」です。
そのうち、侍女の代筆で様子を伺われます。やがて女性の自筆の手紙をもらえるようになれば、ようやく男性の想いが女に認められたということになります。
さらに、何回かのやり取りの後で情熱を認められ、女性の家で一夜を過ごし、男性は初めて女の顔を見ることになります。
ここまでは、女性が一方的に有利な状況でした。
ところが、逢瀬を終えると、形勢逆転します。
互いに相手に不満がなければ男性は忍んで女性宅に通うことになります。
中には情報にほど遠い誇大広告の女性であることもあります。そんなときは、男性は通ってこなくなります。
形成を逆転された女性は女必死に和歌を贈ります。
つまり、平安時代には男女ともに容姿がいいとか悪いよりも、まず「うまい和歌」が作れるかどうかで恋愛が始まったのです。
女性の方も、技巧を効かせた和歌を返せば、あの女性は和歌が上手」と良い評判が広がります。
その代表格は、平安のプレイガール「和泉式部(いずみしきぶ)」だったようです。
最初の夫が和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ)だったので、和泉 式部の名前で呼ばれるようになりました。
このとき生んだ娘が、百人一首にも登場する小式部内侍です。
平安時代の代表的歌人で、自分の恋愛遍歴を記した『和泉式部日記』は時代を代表する日記文学となっています。
和泉式部は恋多き女性で、道貞と数年後破局した後、為尊(ためたか)親王、その弟・敦道(あつみち)親王と結ばれ、さらに2人の死後、一条天皇の中宮彰子に仕え、藤原保昌(やすまさ) も結婚します。晩年は消息不明です。
「あらざらむ この世の外の 思ひでに 今一度(いまひとたび)の 逢ふこともがな」和泉式部『後拾遺集』
「老いさらばえて、もうすぐ私は死ぬでしょう。あの世へもっていく思い出に、もう一度だけあなたにお逢いして、愛していただけたらと思うばかりです」
当時の平均寿命は27歳くらいだったそうです。
この歌から、女性の激情が強烈に伝わります。
もう今や自分が死にかけている息の下から、「あなたにもう一度逢いたい」と叫んでいるのです。(本当に死にかけているかどうかはわかりません)
「黒髪の 乱れも知らずうち臥せば まづかきやりし 人ぞ恋しき」和泉式部『後拾遺集』
「黒髪の乱れもかまわずに泣き伏していると、このような時に(昨夜この床で)真っ先にこの髪をかきなでてくれた人が恋しく思われます」
どうです、こんなことを言われたら・・・。
私は、残念ながら言われたことがないからわかりません。
したっけ。
1週間という考え方は、紀元前3000年ごろ、西アジアの「古代バビロニア※」で誕生したといわれています。
月の満ち欠けが28日周期なので、それを4等分した7日に一週間という概念を与えたようです。
※バビロニア(Babylonia、バビュロニアとも)
メソポタミア(現在のイラク)南部を占める地域、またはそこに興った王国(帝国)。
彼らは太陽を含む7つの星が時間を支配すると考えた。それが月、火星、水星、木星、金星、土星、そして太陽(日)だった。占星術の始まりです。
古代の人々が夜空をながめ、日々変わる星の配置や月の形を観測し、その配置が自然に与える影響に気付き、安定した収穫と自然災害から守るべく暦をつくり、また国家の繁栄や治安維持のために応用していったものが占星術でした。
その7日にそれぞれ星の名前をつけて、一週間という概念を確立したのはエジプト文明であり、当時のエジプトは、土曜日を週の始めとしました。
観測できる惑星のうち、一番遠いのは土星、と考えていたからです。
ところが、その後ヘブライ人※たちが土曜日を最後の週に置き換え、日曜日を週の始まりとした。旧約聖書を読んでも週の始まりは日曜日になっています。
※ヘブライ人
古代イスラエル人の別名。ヘブライ語のイブリーに由来し、「進みゆく」「越えてゆく」などの意味をもつ動詞イブルから転じて、「(ユーフラテス)川の向こうからきた者」を意味する。
このことが西洋の国々に広まり、日曜日から始まるカレンダーが作られたというわけです。
暦には宗教が大きく関わってきます。『旧約聖書』によれば神は世界を六日間で創造し、七日目に休息をとったとあります。それは現在では土曜日にあたるため、ユダヤ教では日曜から金曜までが稼働日で土曜日が安息日となります。つまり、週始めは日曜日になります。
しかし、西暦321年に、時のローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認し、日曜日を主の日(安息日)として定め、1月1日が主の日(日)に始まるこの日に7日週をユリウス暦に導入し日曜日が週の初めの日としてスタートしました。
それまでは、初期キリスト教徒もユダヤ人が多かったため、ユダヤ教の定める土曜日を安息日としていましたが、コンスタンティヌス帝は、キリストの復活した日曜日を休日とするよう強制し、日曜日が安息日となったのは、紀元364年のラオディキア教会会議※により正式に決定されたもので、現在に至っています。
※ラオディキア(Laodikeia)
「国民の義」という意味での小 アジア西部フリギア地方の主要都市のひとつである。
キリストが磔にされたのは「ユダヤの週の6日目」とされています。この日が「13日の金曜日」であったことはあまりにも有名です。そしてさらに決め手として「キリストは週の始めの日に復活した」と聖書にあります。この復活の日は「日曜日」。聖書においても「週の始めは日曜日」だったようです。
現代の我々日本人も、土曜日と日曜日の休日を楽しんでおりますが、ほとんど意識することのない我々日本の文化・習慣も、古代イスラエル王国やローマ帝国、またモーゼやキリストの影響を強く受けているのです。
日本は旧暦を使用していたが、明治5年に太陽暦に変更されました。そして、その4年後、太政官布告で官庁の休みが土曜の午後と日曜に決まりました。これが土日を週末と呼ぶようになった理由です。
一方カレンダーは、当時国交が緊密であった英国の影響を受けて月曜日始まりのものが使用されていたが、戦後になって米国の文化の影響から、日曜日始まりのカレンダーが普及しまして、今に至っております。
日曜日始まりの「宗教中心型カレンダー」は米国、日本等、月曜日始まりの「労働中心型カレンダー」は英国等々が使用しています。
先にも書きましたが、暦には宗教が大きく関わってきます。『旧約聖書』によれば神は世界を六日間で創造し、七日目に休息をとったとあります。それは現在では土曜日にあたるため、ユダヤ教では日曜から金曜までが稼働日で土曜日が安息日となります。つまり、週始めは日曜日になります。
キリスト教も週の始まりは日曜日としています。この日はキリストの復活を祝う日で仕事を休んで祈りを捧げるため、それが広まって「日曜日=休日」という習慣が増えたといわれています
イスラム教ではムハンマド がメッカを脱出した金曜日を安息日です。
各宗教の安息日 | |
キリスト教 |
「日曜日」 |
ユダヤ教 |
「土曜日」 |
イスラム教 |
「金曜日」 |
要するに、何曜日を始まりにするかは宗教的な背景が強いですが、日本においては世界の多数を占める「日曜始まり」が一般的のようです。
手帳などに月曜始まりのものがあるのは、いうまでもなく土日が休みのビジネスマンの使いやすさを考慮しただけで、土日=週末という概念も、「平日に働いて(学校へ行って)土日に休んで一週間が終わる」という社会全体の行動パターンが生み出したものです。
キリスト教やユダヤ教では、『創世記』で啓典の神が天地創造の7日目に休息を取ったことに由来し、何も行ってはならないと定められた日とされている。一方で、バビロニアの七曜制からきたものとする見方もある。しかしながらも、聖書通りに解釈するのは7日目であり、本来の安息日は現代における「土曜日」だそうです。
したっけ。
現在では、日曜日は休みの日と一般的になっていますが、もともと日本人の休みの日といえばお盆とお正月くらいであったそうです。
これを「薮入り」といいました。
やぶ‐いり【×藪入り】
[名](スル)《草深い田舎に帰る意から》正月と盆の16日前後に奉公人が主人から休暇をもらって、親もとなどに帰ること。また、その時期。特に正月のものをいい、盆のものは「後(のち)の藪入り」ともいう。宿入り。宿さがり。宿おり。《季 新年》「―の寝るやひとりの親の側(そば)/太祇」
大辞泉
日本には、「休日」という習慣がなかったことになります。日本人は働き者。不思議な習慣、サービス残業。働くことは奉公だったのです。
日曜日は休日という習慣ができたのは、キリスト教の影響だそうです。
キリスト教徒には「安息日」という習慣があります。創造主の神が6日間、天地万物を造り7日目に休息をしました。
聖書には下記のように書かれています。