団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の短編小説集

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似顔絵傑作選スライドショー

「平安の恋・女はいつも待ちくたびれて」について考える

2013-02-28 11:21:35 | イラスト
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さて、平安時代の恋愛は、実際に逢うまでは女性優位利で、逢ってからは立場が逆転すると書きました。

逢瀬では、どんなに素敵な言葉を並べられても、独りになると男性が浮気しないかちょっと心配なんてことも多かったはずです。そんな気がかりも恋を深めるきっかけかもしれませんが・・・。

この歌も、不安に揺れる微妙な女心を歌ったものです。

Photo_2長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ」待賢門院堀河『千載集』

「(昨夜契りを結んだ)あなたは、末永く心変わりはしないといいましたが、どこまでが本心か心をはかりかねています。お別れした今朝はこの黒髪のように、私の心は心乱れて、いろいろ物思いにふけってしまうのです。

昨夜一晩を一緒に過ごし、契りを結んだあなた。翌朝帰っていってから、後朝(きぬぎぬ)の歌をいただいて「いつまでも末長くあなたのことが好きですよ」と言葉をもらったけれども、その言葉はどこまで本当なのでしょうか。お別れした後、あなたの心をはかりかねて、この私の寝乱れた黒髪のように、心乱れて思い悩むばかりですわ。

この歌は、男が届けてきた後朝の歌に対する返歌という趣向で詠まれました。

そもそも平安時代というのは男性が女性の家に行って一晩を明かすという慣習がありました。「後朝」というのは男と女が一晩を明かした翌朝で、男が帰った後で女の許へ「昨夜はとても幸せだった」と一首詠んで贈る、という雅な慣習があったのです。

それに対して女性が返したのがこの一首というわけです。

この歌、女性が「あなたの誠意は本当でしょうか、心配です」という繊細な女性の心を表現したものです。

黒髪の 乱れて・・・」というところなどに、情事の後の色香が漂う雰囲気が現れています。

いいですね。ファンタスティックとロマンティック、エロティックまでもが、チクチクと心に刺さります。

実はここに、心配ですなどといいながら男心の気を惹く、平安女性の激情と愛の技巧が現れているのです。

これだから、「女心」は理解できません。心配なのか、気を惹きたいのか、もっとわかりやすく伝えてほしいものです。

この歌はこの「黒髪」の表現の美しさで、百人一首の中でも際だっているといわれています。

 日本女性の美しさの象徴として、黒髪が扱われているといっていいでしょう

待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)」(12世紀ごろ)神祇伯(じんぎはく)・源顕仲(みなもとのあきなか)の娘で崇徳院の生母、待賢門院(鳥羽院の中宮・璋子(しょうし))に仕えて「堀河」と呼ばれました。

若いころに、もっと「百人一首」を勉強しておけばよかったと思うのは、私だけでしょうか。

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したっけ。

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「平安時代のプレイガールは和歌が命」について考える

2013-02-27 10:04:44 | イラスト

Photo平安時代の恋愛は今と違って、男女が簡単に顔を合わせることができなかったそうです。

平安時代の女性における礼儀作法は、家族以外の男性には顔を見せない口を利かないことでした。

女性は、寝殿造りの奥の間に隠れるように暮らしていました。これが、奥様の語源。

人前に出るときは扇で顔を隠さねばなりませんでした、女性が男性に顔を見せるということは、結婚を許したのも同然のことだったからです。

扇で顔を隠すのは、吹き出物がすごかったとか、化粧が剥げ落ちたのを隠すためとかの説もありますが・・・。

というわけで、平安の男性は女性の噂に恋をするのです。女の姿を実際に見ることができない平安時代においては、男性は女性の情報を集めることから恋が始まったのです。

美人であるか、教養はあるか、気立てはどうか、家柄は、財産。財産、家柄は重要でした。当時は、男性が女性の家に通い、やがて婿入りするという形でしたはら・・・。「通い婚」、「婿入り婚」

情報収集の直接自分で噂を聞き歩く方法や、その女性の侍女とのコネクションを活用する方法などです。

一方、女性のほうも黙って待っているばかりではありません。意図的によい「情報漏洩」して、情報操作をすることもあったようです。

ガセネタに引っかかった男性もいたはずです。

女性の情報に恋をした男性たちは、まず女に和歌を贈ります。

女性は受け取った和歌の良し悪しを見て、誘いに乗るか袖にするかを判断するのです。

最初は女性からの返事がないのが普通だったようです。今でも、しばしば使われる「じらし戦法」です。

そのうち、侍女の代筆で様子を伺われます。やがて女性の自筆の手紙をもらえるようになれば、ようやく男性の想いが女に認められたということになります。

さらに、何回かのやり取りの後で情熱を認められ、女性の家で一夜を過ごし、男性は初めて女の顔を見ることになります。

ここまでは、女性が一方的に有利な状況でした。

ところが、逢瀬を終えると、形勢逆転します。

互いに相手に不満がなければ男性は忍んで女性宅に通うことになります。

中には情報にほど遠い誇大広告の女性であることもあります。そんなときは、男性は通ってこなくなります。

形成を逆転された女性は女必死に和歌を贈ります。

つまり、平安時代には男女ともに容姿がいいとか悪いよりも、まず「うまい和歌」が作れるかどうかで恋愛が始まったのです。

女性の方も、技巧を効かせた和歌を返せば、あの女性は和歌が上手」と良い評判が広がります。

Photo_2 その代表格は、平安のプレイガール「和泉式部(いずみしきぶ)」だったようです。

最初の夫が和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ)だったので、和泉 式部の名前で呼ばれるようになりました。

このとき生んだ娘が、百人一首にも登場する小式部内侍です。

平安時代の代表的歌人で、自分の恋愛遍歴を記した『和泉式部日記』は時代を代表する日記文学となっています。

和泉式部は恋多き女性で、道貞と数年後破局した後、為尊(ためたか)親王、その弟・道(あつみち)親王と結ばれ、さらに2人の死後、一条天皇の中宮彰子に仕え、藤原保昌(やすまさ) も結婚します。晩年は消息不明です。

あらざらむ この世の外の 思ひでに 今一度(いまひとたび)の 逢ふこともがな」和泉式部『後拾遺集』

「老いさらばえて、もうすぐ私は死ぬでしょう。あの世へもっていく思い出に、もう一度だけあなたにお逢いして、愛していただけたらと思うばかりです」

当時の平均寿命は27歳くらいだったそうです。

この歌から、女性の激情が強烈に伝わります。

もう今や自分が死にかけている息の下から、「あなたにもう一度逢いたい」と叫んでいるのです。(本当に死にかけているかどうかはわかりません)

黒髪の 乱れも知らずうち臥せば まづかきやりし 人ぞ恋しき」和泉式部『後拾遺集』

「黒髪の乱れもかまわずに泣き伏していると、このような時に(昨夜この床で)真っ先にこの髪をかきなでてくれた人が恋しく思われます」

どうです、こんなことを言われたら・・・。

私は、残念ながら言われたことがないからわかりません。

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したっけ。





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「週末なのに日曜日がカレンダーの最初に来る理由」について考える

2013-02-26 10:14:52 | 宗教

1週間という考え方は、紀元前3000年ごろ、西アジアの「古代バビロニア※」で誕生したといわれています。

月の満ち欠けが28日周期なので、それを4等分した7日に一週間という概念を与えたようです。

※バビロニアBabylonia、バビュロニアとも)

メソポタミア(現在のイラク)南部を占める地域、またはそこに興った王国(帝国)。

Photo 彼らは太陽を含む7つの星が時間を支配すると考えた。それが月、火星、水星、木星、金星、土星、そして太陽(日)だった。占星術の始まりです。

古代の人々が夜空をながめ、日々変わる星の配置や月の形を観測し、その配置が自然に与える影響に気付き、安定した収穫と自然災害から守るべく暦をつくり、また国家の繁栄や治安維持のために応用していったものが占星術でした。

その7日にそれぞれ星の名前をつけて、一週間という概念を確立したのはエジプト文明であり、当時のエジプトは、土曜日を週の始めとしました。

観測できる惑星のうち、一番遠いのは土星、と考えていたからです。

ところが、その後ヘブライ人※たちが土曜日を最後の週に置き換え、日曜日を週の始まりとした。旧約聖書を読んでも週の始まりは日曜日になっています。

※ヘブライ人

古代イスラエル人の別名。ヘブライ語のイブリーに由来し、「進みゆく」「越えてゆく」などの意味をもつ動詞イブルから転じて、「(ユーフラテス)川の向こうからきた者」を意味する。

このことが西洋の国々に広まり、日曜日から始まるカレンダーが作られたというわけです。

暦には宗教が大きく関わってきます。『旧約聖書』によれば神は世界を六日間で創造し、七日目に休息をとったとあります。それは現在では土曜日にあたるため、ユダヤ教では日曜から金曜までが稼働日で土曜日が安息日となります。つまり、週始めは日曜日になります。

しかし、西暦321年に、時のローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認し、日曜日を主の日(安息日)として定め、11日が主の日(日)に始まるこの日に7日週をユリウス暦に導入し日曜日が週の初めの日としてスタートしました。

Photo_2それまでは、初期キリスト教徒もユダヤ人が多かったため、ユダヤ教の定める土曜日を安息日としていましたが、コンスタンティヌス帝は、キリストの復活した日曜日を休日とするよう強制し、日曜日が安息日となったのは、紀元364年のラオディキア教会会議※により正式に決定されたもので、現在に至っています。

※ラオディキア(Laodikeia)

「国民の義」という意味での小 アジア西部フリギア地方の主要都市のひとつである。

キリストが磔にされたのは「ユダヤの週の6日目」とされています。この日が「13日の金曜日」であったことはあまりにも有名です。そしてさらに決め手として「キリストは週の始めの日に復活した」と聖書にあります。この復活の日は「日曜日」。聖書においても「週の始めは日曜日」だったようです。

現代の我々日本人も、土曜日と日曜日の休日を楽しんでおりますが、ほとんど意識することのない我々日本の文化・習慣も、古代イスラエル王国やローマ帝国、またモーゼやキリストの影響を強く受けているのです。

 日本は旧暦を使用していたが、明治5年に太陽暦に変更されました。そして、その4年後、太政官布告で官庁の休みが土曜の午後と日曜に決まりました。これが土日を週末と呼ぶようになった理由です。

一方カレンダーは、当時国交が緊密であった英国の影響を受けて月曜日始まりのものが使用されていたが、戦後になって米国の文化の影響から、日曜日始まりのカレンダーが普及しまして、今に至っております。

日曜日始まりの「宗教中心型カレンダー」は米国、日本等、月曜日始まりの「労働中心型カレンダー」は英国等々が使用しています。

先にも書きましたが、暦には宗教が大きく関わってきます。『旧約聖書』によれば神は世界を六日間で創造し、七日目に休息をとったとあります。それは現在では土曜日にあたるため、ユダヤ教では日曜から金曜までが稼働日で土曜日が安息日となります。つまり、週始めは日曜日になります。

キリスト教も週の始まりは日曜日としています。この日はキリストの復活を祝う日で仕事を休んで祈りを捧げるため、それが広まって「日曜日=休日」という習慣が増えたといわれています

イスラム教ではムハンマド がメッカを脱出した金曜日を安息日です。

各宗教の安息日

キリスト教

「日曜日」

ユダヤ教

「土曜日」
金曜日の日没から始まり、土曜日の日没で終わる

イスラム教

「金曜日」

要するに、何曜日を始まりにするかは宗教的な背景が強いですが、日本においては世界の多数を占める「日曜始まり」が一般的のようです。

手帳などに月曜始まりのものがあるのは、いうまでもなく土日が休みのビジネスマンの使いやすさを考慮しただけで、土日=週末という概念も、「平日に働いて(学校へ行って)土日に休んで一週間が終わる」という社会全体の行動パターンが生み出したものです。

キリスト教やユダヤ教では、『創世記』で啓典の神が天地創造の7日目に休息を取ったことに由来し、何も行ってはならないと定められた日とされている。一方で、バビロニアの七曜制からきたものとする見方もある。しかしながらも、聖書通りに解釈するのは7日目であり、本来の安息日は現代における「土曜日」だそうです。

したっけ。



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「日曜日は何故お休みなのか?」について考える

2013-02-25 10:45:56 | 似顔絵

現在では、日曜日は休みの日と一般的になっていますが、もともと日本人の休みの日といえばお盆とお正月くらいであったそうです。

これを「薮入り」といいました。

やぶ‐いり【×藪入り】

[名](スル)《草深い田舎に帰る意から》正月と盆の16日前後に奉公人が主人から休暇をもらって、親もとなどに帰ること。また、その時期。特に正月のものをいい、盆のものは「後(のち)の藪入り」ともいう。宿入り。宿さがり。宿おり。《季 新年》「の寝るやひとりの親の側(そば)/太祇」

大辞泉

日本には、「休日」という習慣がなかったことになります。日本人は働き者。不思議な習慣、サービス残業。働くことは奉公だったのです。

日曜日は休日という習慣ができたのは、キリスト教の影響だそうです。

キリスト教徒には「安息日」という習慣があります。創造主の神が6日間、天地万物を造り7日目に休息をしました。

聖書には下記のように書かれています。

「旧約聖書」(※ここは飛ばして読んでもいいです)

第1章(CHAPTER 1

一日目

1.        1  元始(はじめ)に神(かみ)天地(てんち)を創造(つくり)たまへり

2.         地(ち)は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり神(かみ)の靈(れい)水の面(おもて)を覆(おほひ)たりき

3.         神(かみ)光(ひかり)あれと言(いひ)たまひければ光ありき

4.         神(かみ)光を善(よし)と觀(み)たまへり神(かみ)光と暗(やみ)を分(わか)ちたまへり

5.         神(かみ)光を晝(ひる)と名(なづ)け暗(やみ)を夜(よる)と名(なづ)けたまへり夕(ゆふ)あり朝(あさ)ありき是(これ)首(はじめ)の日なり

二日目

6.         神(かみ)言(いひ)たまひけるは水(みづ)の中に穹蒼(おほぞら)ありて水と水とを分(わか)つべし

7.         神(かみ)穹蒼(おほぞら)を作りて穹蒼(おほぞら)の下の水と穹蒼(おほぞら)の上の水とを判(わか)ちたまへり即(すなは)ち斯(かく)なりぬ

8.         神(かみ)穹蒼(おほぞら)を天(てん)と名(なづ)けたまへり夕(ゆふ)あり朝(あさ)ありき是(これ)二日(ふつか)なり

三日目

9.         神(かみ)言(いひ)たまひけるは天(てん)の下の水(みづ)は一處(ひとところ)に集りて乾ける土(つち)顯(あらはる)べしと即(すなは)ち斯(かく)なりぬ

10.      神(かみ)乾(かわ)ける土(つち)を地(ち)と名(なづ)け水(みづ)の集合(あつまれ)るを海(うみ)と名(なづ)けたまへり神(かみ)之(これ)を善(よし)と觀(み)たまへり

11.      神(かみ)言(いひ)たまひけるは地(ち)は靑草(あをくさ)と[たね]を生ずる草蔬(くさ)と其類(そのるゐ)に從(したが)ひ果(み)を結(むす)びみづから核(たね)をもつ所の果(み)を結ぶ樹(き)を地(ち)に發出(いだ)すべしと即(すなは)ち斯(かく)なりぬ

12.      地(ち)靑草(あをくさ)と其類(そのるゐ)に從(したが)ひ[たね]を生ずる草蔬(くさ)と其類(そのるゐ)に從(したが)ひ果(み)を結(むすび)てみづから核(たね)をもつ所の樹(き)を發出(いだ)せり神これを善(よし)と觀(み)たまへり

13.      夕あり朝ありき是(これ)三日(みつか)なり

四日目

14.      神(かみ)言(いひ)たまひけるは天(てん)の穹蒼(おほぞら)に光明(ひかり)ありて晝(ひる)と夜(よる)とを分(わか)ち又(また)天象(しるし)のため時節(とき)のため日(ひ)のため年(とし)のために成(なる)べし

15.      又(また)天(てん)の穹蒼(おほぞら)にありて地(ち)を照(てら)す光(ひかり)となるべしと即(すなは)ち斯(かく)なりぬ

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「平安時代の恋する男女の夢」について考える

2013-02-24 10:21:12 | 歴史


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平安時代の恋人たちには「夢」というと、特別の意味を持っていました。

住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路(ぢ) 人目(ひとめ)よくらむ」(藤原敏行朝臣)『古今集』恋・559

Photo_2 「住之江の岸に寄せる波でさえ寄る(夜)というのに、夢の中で私のもとへ通う道でさえ、どうしてあなたは、こんなに人目を避けて出てきてくれないのでしょうか。」

 あの住之江の岸に寄せる波の「よる」ではないけれど、人目が気になる夜でもないのに、ましてや現実ではない夢の中でさえ、どうして私に逢いに来るのに人目を避けて出てきていただけないのでしょう。私への想いは、もうなくなったのでしょうか。

 

 平安時代の貴族たちにとって、「」には特別の意味がありました。自分の見た「夢」で吉凶を占うことも普通に行われていました。

Photo_3 何より恋する相手が自分の夢の中にたくさん出てくるほど、相手が自分のことを好きなのだ、と思われていたのです。要するに、夢は恋の深さを知る指標だったわけです。

今なら、携帯電話という便利(不便?)なものがあり、相手の意思を逢わずとも確認できます。しかし、昔は、夢というテレパシーで想いを計っていたのです。

「あなた、私のこと嫌いになったではありませんか?」

「そんなことはありません。私は今も変わらず愛しています」

「ウソ!そんな口ばかりでは信用できないわ。だって最近私の夢の中に全然出てきてくださらないじゃありませんか」

などと、夢のせいで疑われて痴話喧嘩。・・・なんてこともあったかもしれません。

逆に何とも思っていなかった女性から、「私の夢によくお現れになるのですよ。私のことが好きなのでしょう」等と言われても困ります。

憎からず思っていた相手なら、いい機会になるかもしれません。

今でも、人目を忍ぶ恋というのは不安なものです。人目を忍ぶから燃え上がる?

まして、平安時代は、男性が女性の家へ通う「通い婚」が慣習でした。男性が見限ってしまうと、もう女性の家へはやって来なくなります。

当然女性は、いつ自分が捨てられるかもしれないという、不安にさいなまれていたのです。

自分の想う人が、最近夢に全然現れなくなってしまったとしたら・・・。あの人はもう私のことなんて忘れたのではないのか。どこかに、好きな人ができたのではないのか。

平安時代の男性は、「牛車(ぎっしゃ)」に乗ってやってきます。ですから、牛の好む「」を玄関に盛ったのです。これに倣って男性を客とする商売の世界では、今でも「盛塩」をするのです。

作者の藤原敏行は男性ですが、歌合せでこんな歌を詠んで人気になるほど、平安時代の貴族たちは恋を楽しんだ、ということでしょう。

不便だからこそ、想像力をおおいに膨らませ、あらゆることを恋しい思いに置き換えて、現代人よりは豊かな恋愛をしていたのかもしれません。

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したっけ。

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「後朝とは?【難読漢字】」について考える

2013-02-23 09:59:32 | 歴史




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 今日は、大人の話をしますよ。子供は読まないでくださいね。

後朝」。これをなんと読みましょうか。その読みを知ると、日本語のなんと奥深いことかと思います。

そのまえに、・・・。

「小倉百人一首」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだとされる私撰和歌集です。この中には「逢ふ」ことを詠んだ和歌がいくつもあります。

逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」(四十三権中納言敦忠)

Photo_2「お逢いした後のつらい思いに較べたら これまでの思いなんて何も思っていないようなものでしたよ」

遠くから見たり、噂を聞いたりしただけで恋をしていた相手に、ようやく逢うことができ、一夜をともに過ごすことがでました。

そうなってみると、これまでのもの想いはなんだったのでしょう。離れている時間がとても辛くてなりません。

あけぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」(五十二 藤原道信朝臣)

「夜が明ければまた夕暮れがやってきてあなたに逢うことができます。そうとは知りながらも、なんと恨めしい夜明けなのでしょう。」

当時の、男女は夜しか会えなかったそうです。しかも、男性が女性を訪ねる通いという形式でした。

ですから、逢瀬の別れは、朝になると必ずやってきます。それはとても辛いものだったようです。

このような歌を「後朝(きぬぎぬ)の歌」と言うそうです。逢瀬の翌朝に女性に贈ったものです。

なぜ「きぬぎぬ」と読むかというと、朝になってそれぞれが「きぬ(衣)」を着て別れるからだそうです。逢瀬の舟に揺られて疲れた体に、朝日がまぶしいと思いながら、それぞれの衣をまとう姿。なんとも、艶っぽい言葉ではありませんか。

「後朝の歌」は男性が自宅などにもどってから、「後朝の使い」に持たせてやったそうです。

きぬ‐ぎぬ【▽衣▽衣/後=朝】

1 衣を重ねて掛けて共寝をした男女が、翌朝別れるときそれぞれ身につける、その衣。

しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがなるぞ悲しき」〈古今・恋三〉

2 男女が共寝をして過ごした翌朝。また、その朝の別れ。

になるとも聞かぬ鳥だにも明けゆくほどぞ声も惜しまぬ」〈新勅撰・恋三〉

3 男女、夫婦の離別。

「此の如くに、になるとても、互ひに飽き飽かれぬ仲ぢゃほどに」〈狂言記・箕被

4 物が離れ離れになること。

「首と胴との」〈浮・伝来記・三〉

大辞泉

『大辞泉』の解説にある、「しののめ」は「東雲」と書きます。これは、夜が明けようと明るくなってきた空のことです。これも味わい深い言葉です。

「後朝」などという、味わい深い言葉は、昼間から、いちゃいちゃしている子供にはわからない、大人の言葉です。

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したっけ。




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「猫の目は時計代わりだった」について考える

2013-02-22 10:15:39 | 似顔絵

222日は、「猫の日」だそうです。ニャンニャンニャン。

鹿児島市磯に「仙巌園(せんがんえん)というところがあるそうです。

桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた、敷地面積約15000坪の「借景庭園」といわれるものです。

「借景庭園」とは、自然の風景を借りて庭の一部のように見立てるというものだそうです。

1658(万治元)19代当主・光久が造った島津家の別邸で、「磯庭園」とも呼ばれています。園内には日本初のガス灯を点した鶴灯籠や日本に初めて移植された孟宗竹の竹林、反射炉跡などがあり、歴史を感じさせる。

和服女性による御殿内を案内するコース(抹茶・和菓子付1500)もある。水に浮かべた杯が自分の前に流れてくる前に詩を詠む曲水の宴(4)や、園内から切りだした孟宗竹に短冊を飾る島津家の七夕飾り(8)など、季節ごとに催しも行われている。所要1時間。

るるぶ.com

その広大な敷地の奥まった閑静な一角に、猫好きにとってはたまらない場所があるといいます。日本で唯一猫を祀(まつ)るという「猫神神社(ねこがみじんじゃ)」です。

猫アレルギーの私にとっては、別の意味でたまらないところです。

豊臣秀吉の「文禄・慶長の役(15921598年)」の際、第17島津義弘公は、朝鮮に7匹の猫を連れていったそうです。

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何のためか・・・。猫の目の瞳孔の開き具合で時刻を推測したといわれます。

この事を裏付ける古歌に、「六つ丸く五七卵に四つ八つは柿の核なり九つは針」というものが伝えられています。

6 六つ(午前六時頃)は「丸く」、五七(午前八時頃・午後四時頃)は「卵形」、四つ八つ(午前十時頃・午後二時頃)は「柿の種」、九つ(正午頃)は「針のように細い」という意味です。

「六つ丸く 四八瓜実 五と七と 卵なりにて 九つは針」というのもあるそうです。

当時、猫の目は「明るさ」ではなく時刻によって変化すると考えられていたようです。

島津義弘公は、連れて来た7匹の猫を、部隊ごとに1匹ずつ渡し、「ネコの目が卵型になったら任務開始」という様に使ったといわれています。さしずめ「Mission cat eyes」といったところでしょうか。この猫達の功績により、特に島津軍は「鬼石蔓頭(おにいしまんづ=鬼島津)」と敵兵から恐れられ、華々しい功績を挙げたと言われています。

そのため、無事に生還した2匹の猫の霊が祀られているそうです。

610日の「時の記念日」には、時計業者の人々がここに参集して例祭が執り行われ、また愛猫家のために猫長寿祈願と供養祭が行なわれます。猫人形などの猫グッズを売っている「猫屋」という店もあるそうです。 

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したっけ。

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「獺祭魚?【難読漢字】」について考える

2013-02-21 10:22:40 | 歳時記
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獺祭魚(たつうおをまつる)」とは、「かわうそ」が捕らえた魚を並べ食べることだそうです。

獺祭魚(だっさいぎょ、たつうおをまつる)」は七十二候の一(雨水初候)。また転じて書物をよく好み、引用する人のこと。今年の雨水は18日でした。

礼記』月令孟春の条に「東風凍を解き、蟄虫は始めて振く。魚冰に上り、獺魚を祭り、鴻雁来る」とあるのが出典。

らいき【礼記】

中国、前漢時代の経書。五経の一。49編。「儀礼(ぎらい)」の注釈および政治・学術・習俗など礼制に関する、戦国時代から秦・漢時代の説を集録したもの

大辞泉

元来は春になって「獺(かわうそ)」が漁をはじめ魚を捕らえるのが季節のうつりかわりを示していることを言ったものだそうです。獺の習性として捕らえた魚を人間が先祖を祭るときの供物のように川岸に並べることから、書物を多く紐解き、座右に並べて詩文を作ることを、こういったそうです。また好書家考証癖書癖などを言う言葉でもあるそうです。

だっ‐さい【×獺祭】

1 《「礼記」月令から》カワウソが自分のとった魚を並べること。人が物を供えて先祖を祭るのに似ているところからいう。獺祭魚。おそまつり。うそまつり。

2 《晩唐の詩人李商隠が、文章を作るのに多数の書物を座の周囲に置いて参照し、自ら「獺祭魚」と号したところから》詩文を作るとき、多くの参考書を周囲に広げておくこと。

大辞泉

Photo しかし、日本中にいた「ニホンカワウソ」は明治時代以降、河川改修や乱獲で減少してしまいました。

19754月、愛媛県宇和島市の離島で見つかったメスが最後の捕獲となった。19796月、高知県須崎市で目撃された後は正式な確認がなく、環境省は昨年8月公表の第4次レッドリストで「絶滅種」と位置づけています。

にもかかわらず、愛媛県では今でも目撃情報があるものの確認はできないそうです。

獺が正式な確認がないまま30年以上が経過し、この言葉も忘れられてしまうのでしょうか。

したっけ。




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「馬が合う・何故馬なの?」について考える

2013-02-20 09:46:40 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

馬が合う」とは「意気投合する」ことを言います。

これは、本来「乗馬」で使われた言葉だそうです。馬と乗り手の気持ちがピッタリ合わないと馬に上手に乗ることができないとされていることによります。

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騎手と馬との気持ちが合わない場合、振り落とされることがあり、逆に騎手と馬の息が合うと騎手の実力以上の力を馬が発揮するとも言われています。

ここから上手に馬に乗っている様子から「気が合う」ことを「馬が合う」というようになったそうです。

後にこれが人と人との関係にも使われるようになり、人と気が合い、しっくりいくことや意気投合することを意味するようになる。また、人以外にも車や楽器などクセのある物に対しても使われます。

(うま)が合・う

気がよく合う。意気投合する。「彼とは妙に・って、いつも一緒に旅行する」

大辞泉

Photoそのほかにも、「馬に関する言葉」はあります。

馬耳東風」は、人の意見や批評を心に留めずに聞き流すことです。

これは、中国の故事によります。唐の時代の詩人・李白が、「世人此を聞きて皆 頭(こうべ)を掉る(ふ-る) 東風の馬耳を射るが如き有り」と詠みました。「世間の人たちは、我々の詩などを聞くと、皆、頭を振って聞き入れない。あたかも春風が馬の耳に吹くようなものである」と詠ったものです。

これは、「春風が吹くと、皆喜ぶのに、馬は何も感じる気配がないように思えた」ということだそうです。そこから、意見や忠告をしても効き目のないことを例えて、「馬耳東風」と言うようになりました。

似た言葉に「馬の耳の念仏」というのもあります。

他には、「餞(はなむけ)」があります。これは、旅立ちや門出を祝って金品、詩歌、ことばなどを贈ることです。

この「はな」は、「馬の鼻」のことです。昔、日本では、送別の際、旅立つ人が、無事であることを願い、その人の馬の鼻を目的地の方へ向けたのだそうです。「鼻」を「向ける」ので「はなむけ」となりました。

ですから、「はなむけ」は、元々、「送別」で使われていた言葉ですから、おめでたい席にはふさわしくないのです。

結婚式などで「お二人に、はなむけの言葉をお願いします」というのはいかがな物かと思います。

「二人にとって門出」「新たな出発」と考えると、間違いとは言い切れませんが、本来送別の意味ですから気を付けた方がいいと思います。

昔から、「馬」と「人間」は深く関わっていたということでしょうか。

したっけ。

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「第36回郷土作家アンソロジー入選」について考える

2013-02-19 07:58:20 | ごあいさつ

昨年末が締め切りであった「36回郷土作家アンソロジー」に入選の発表が新聞に載りました。

1春の大雪」という、定年間際のオヤジと焼鳥屋の女将さんの話です。

これから表彰式の案内が届くと思います。久しぶりでお仲間と会えます。

前回、前々回と2連敗でしたので、とても嬉しいです。やっぱり入選はいいですね。

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881引き分けになりました。(引き分けは佳作)

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したっけ。




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