すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

「死のかげの谷」

2021-06-30 16:28:12 | 読書の楽しみ

 学生時代(と言っても、大学には最初の一か月以外、まったく行かなかったのだが)、諏訪湖から霧ヶ峰に上る途中にあるゴルフ場でふた夏、住み込みのキャディーのアルバイトをした。その一年目の給料で堀辰雄全集を買った。もともとそれが欲しくてそのバイトをしたのだった。
 その全集は、その後いつ頃だったか、ぼくの関心が堀から離れたこともあって、何度かの引っ越しの際に手離してしまった。今では文庫本が数冊あるきりだ。その文庫も、昔の変色した紙のしかも小さな活字が、今のぼくの目にはひどく読みにくいので、手に取ることはほとんどない。
 それでも今でも、「風立ちぬ」ほかの幾編かは活字の大きくなった新しい文庫に買いなおしていて、時々読む。
 堀辰雄は文章に独特の気取りのようなものがあって、それが関心を無くした大きな理由だ。たとえば、「風立ちぬ」の冒頭の「それらの夏の日々」という翻訳調の言い方がすごく引っ掛かる。もっと引っ掛かるのは、彼が(主人公が)自分の行動や心の動きを述べるのにしばしば使う「~でもしたかのように」、「まるで~であるかのように」という言い方だ、例えば「私はとうとう焦れったいとでも云うような目つきで…」とか書いてあると、読者は「あんたの目つきを、だれがどこで観察しているんだよ。じれったいなあ、もう」と思ってしまうのだ。

 …にもかかわらず、「風立ちぬ」は、生きていることの意味を、幸福ということの意味を、愛するということを、考えさせてくれる物語だ。ぼくは特に、最後の章「死のかげの谷」を、自分がちっぽけな存在で、生きている意味が良く分からない、などと思う時に読む。その時はそれで力をもらえても、やがてまた同じように自分の意味が分からなくなる時は来る。そしたらまた読む。そのたびにあの、山小屋の窓からこぼれる光のエピソードに救われたように思い、「何とか生きていくことにしよう」と思う。

 サナトリウムで共に暮らした婚約者を亡くした「私」は、一年後にK村(現在の軽井沢)の谷の奥の山小屋で一人で冬を過ごすことにする。そこは別荘地の外国人たちが「幸福の谷」と呼んでいる、だが自分には「死のかげの谷」のように思える場所だ。
 ひと月ほど経ち、炊事などをしてくれている村の娘の家に招かれて小さなクリスマスの宵を過ごした後、雪明りの道を小屋に戻る途中、雪の上に小さな光が落ちているのに気付く。「こんなところにどうして」と不思議に思い、見回してみると、明かりがついているのは谷の上の方にある自分の小屋だけだ。これまで自分では少しも気づかなかったのだが、小屋の灯は谷じゅうの林の中に雪の上の小さな光の粒となって散らばっているのだ。
 やっと小屋までのぼってベランダに立ってみると「明りは小屋のまわりにほんのわずかな光を投げているに過ぎなかった。」
 「(…)おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ計りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ・・・」

コメント
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