すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

人類が滅びないために

2019-09-30 08:24:10 | 社会・現代
 16歳の少女の、国連本部・気候行動サミットでの訴えが心から離れない。

 「苦しんでいる人たちがいる。死にゆく人たちがいる。生態系は破壊され、多くの種の絶滅が始まっている。そして、あなたたちはお金の話や、終わりなき経済成長のおとぎ話ばかりしている」
 「子供たちはあなたたちの裏切りに気付き始めている。もしあなたたちが私たちを見捨てる道を選ぶなら、私は絶対に許さない」

 スピーチは直接的には、各国の首脳や国連代表や環境大臣たちに向けられたものだ。だが例えばぼくは、その経済成長のおとぎ話の中で70年余をおおむね安楽に過ごしてしまった者のうちの一人だ。だからあの言葉は、新聞やTVを通して、ぼくたちの一人ひとりに向けられたものでもある。
 地球人類は滅亡に向かっている。現代文明は崩壊に向かっている。それはおそらく、急速にやってくるが、一気にはやってこない。まだ100年くらいかかるかもしれない(この数字に何らの根拠もないが)。
 だから、心を閉ざして、感覚を麻痺させて、知らん顔をして残りの期間を生きてゆくことも、できなくはない。
 だが、至極当然のことだが、それがぼくたちの世代がこの地上からいなくなってしまった後でやってくるとしても、いま生きているぼくたちに責任がないわけではない。
ぼくたちがいなくなった後、もっと直接の破滅に直面しなければならない人々の、子供たちの、苦しみを考えないで良いわけではない。
 そこでぼくは、この一週間、思案している。
 人類を滅亡に向かわせないために、ぼくに何ができるのか? 
 電気や水を無駄に使わない、ごみを分別する、自家用車は持たないでなるべく歩くか自転車に乗る、食べ物を粗末にしない…などという当たり前の程度のことの他に。
 なにかできることがあるのか?
 デモ行進に参加するか? でも、ぼくはあのシュピレヒコールというやつが嫌いだ。率直に言うと、お祭りの神輿のあの熱狂と同じくらいに嫌いだ。
 熱狂でない、冷静で静かな表現方法はないものだろうか?
 ぼくは今日も思案している。
 たぶん、日常生活とシュプレヒコールのあいだに、何かを見つけなければならない。
 それは何だろうか?
 祈りだろうか?
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