富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

「冨冨冨」・富山第一主義の勧め:民俗学的な神社研究の必要性

2019年10月05日 | Weblog

富山県の県民力をマネジメントするとなると、「富山第一主義」が基本原理となる。世界の現代史の先端では、「我こそ世界の中心の暮らしているぞ」という自己主張が、相対論として認められる。古くは、お国自慢として終わる。今は、誰でも経営学の競争戦略をわきまえている。「富山第一主義」で整理すると、やはり3つの「ミニ富山県」が隠れている。東の引力は、「朝日町」「入善町」である。西の引力は、砺波平野である。真ん中は、富山市―高岡市を合わせた「大富山市」である。呉東と呉西とを東西に分ける2分法よりも、3分法の「ふふふ」が実態に近い。最近、ある学者が「諏訪社」の県内での分布を地域論ではなく、長野の諏訪社からどのような傾向性のある士族・氏族が、越中に諏訪社の信仰を流布されたかを類型化して研究している。僕は、富山県史の本筋は、仏教だけでは片付かないと考えている。明治政府から昭和前期の政府まで、国家の祭祀の体系に無理に再編される流れに反抗し、昭和ファシズムの最高潮のなかで「国策に反抗した郷社」の役割を強調し、『富山県史』の大正・昭和前期の編の政治史を締めている。この断定は、やはり今にしても正解だと思っている。概念的には、古代から越中国があったように思われるが、それは富山湾に流れ込む河川の利水・治水の協同のために「川筋」ごとに越中は分割されていた。これを横筋の社会として統合したのが、鉄道の敷設である。ところが、西の「冨」は、昭和後期に鉄道事業を衰退させてしまった。東の「冨」は、富山地鉄として健在である。富山では、川筋の地域文化帯を残したまま、横結合による人為の統合にも限界があり、結果として、非常に多様な「村社」レベルの土着化した「神」を抱き、時代をタテにつなぐ基幹家族により「わが村」「わが町」が継承されてきた。「富山第一主義」は、根底には、「わが村」「わが町」第一主義がある。それは異常なことではない。ドイツの修正マルクス主義者であるハーバーマスという学者のいう「生活者の生活言語によるコミュニケーション」の多様性に目を奪われることなく、それが強大なマスメディアを利用する政治権力社会に対する対抗原理となると説いている。僕は、この理論は大嫌いなんだが、ラグビーというブリティッシュの統一ルールの原理になかに、南アフリカからポリネシアの「わが村」「わが町」が許容されているという寛容のもつ意味は称えられるべきだと想う。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする