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出エジプト記24章3-8節

2011年12月08日 14時05分20秒 | 聖書

24:4 「それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。」主はモーセに対して、種々の戒めを語り伝えました。そして、モ-セはそれを民に語りました。民はそれを聞いて、自分たちは従いますと、誓いました。しかし、大事なことは、この戒めは、そこにいた人々だけに語られた事ではないということです。主の民として生きるところの、すべての人々に語られた戒めです。それは、これから生まれてくる人々のためにも告げられているのです。ですから、そのために、この戒めは続けて語られ、知らされ続けなければならないのです。そのためには、一体何が必要であるのでしょう。それは、その言葉を、「書いて残す」ということです。そうすれば、何時の時代の人でも知ることが出来るからです。モーセは、そのことをここで行ったのです。大事なことでした。  そして、祭壇を築いて神を礼拝し、戒めを下さった配慮の主を覚えて、その主への服従の意志を示したのです。


◆知らないと知る

2011年12月08日 13時52分26秒 | 聖書

確かに、私は人間の中でも最も愚かで、
私には人間の悟りがない。      (箴言三〇2)

これはアグルという人のことばですが、「ぼくは何でも知っている」というより、心に共鳴を感じます。
ある学生が、有名な学者である大学の総長に、この方だったら知っているだろうと思って、一つの質問をしたところ、「それは分かりません」という単純率直な答えにびっくりしました。もの足りなく思って、「先生ほどの学者が、ご存じではないのですか」と問いました。するとその総長は、「私は学者だから、分からないと分かるんですよ」と答えたという話です。
私も若い時は、いっぱし学者の卵のつもりでいました。ある時、主任教授に、鎌倉時代の禅宗の坊さんたちが何をおやつ(点心)に食べていたか、何を食べていなかったかを調べてくれと言われました。鎌倉時代の坊さんの日記や文献を山ほど、来る日も来る日もしらみつぶしに調べました。何を食べていたかが、だんだん分かってきました。しかし、何を食べていなかったかを知ることは、とうてい不可能だと感じて、ついにシャッポをぬいだのでした。こんな小さな一つのことでも、ほんとうに知るのは大変です。
知ったかぶりをしないで、知らない者・悟らない者として、いつも真理に対して飢え渇きを持ちたいものです。謙遜な飢え渇く者に、人間の肉の力でない深い尊い知恵と真理が知らされます。
きょうのこの告白をしたアグルも言っています。「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている」(箴言三〇4)。へりくだって、真理を永遠を神を、飢え渇いて求める者は、「確かに知っている方」にめぐり合うのです。

 


◆サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。

2011年12月08日 13時51分09秒 | 聖書

彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。(黙示録三・四)

これは義認について語る聖句である。「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む」というのは、彼らが信仰によって義とされていることを、常に意識して喜ぶという意味である。彼らは、キリストの義が彼らに転嫁され、各々が洗われて、新しく降った雪よりも白くされていることを理解するのである。
さらにこれは喜びについて語る。白い衣はユダヤ人が祭日に着るものだからである。衣を汚さなかった者は、顔も常に輝いている。彼らは、ソロモンが「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる。いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない」と言った意味を理解する。神に受け入れられている者は歓喜の白い衣を着て、主イエスとの麗しい交わりの中を歩むのである。
数えきれないほどの疑い、苦しみ、嘆きはどこから来るのか。それは、多くの信者が、自分たちの衣を罪と過失によって汚しているからである。彼らは救いの喜びを失い、主イエスとの楽しい交わりを欠いている。すなわち、彼らはこの地上において白い衣を着て歩んではいないのである。
この約束は、また白い衣を着て、神の御座の前を歩むことを指している。この地上において衣を汚さなかった者は、必ずかしこにおいても白い衣をまとって歩む。そこでは白い衣をまとった群れが、いと高き方に向かって、不断にハレルヤを歌っている。彼らは、思いもよらない喜び、夢想さえできない幸福、想像を絶する天の幸い、予想外の神の深い恵みを受ける。「全き道を行く人々」は、これらすべてのものをもつであろう。これは、その人の価値や行いによらず、恵みによる。キリストが彼らを「ふさわしい者」とされたことにより、彼らは、キリストとともに白い衣を着て歩むであろう。彼らは主との麗しい交わりのうちに、いのちの水の泉から飲むのである。