確かに、私は人間の中でも最も愚かで、
私には人間の悟りがない。 (箴言三〇2)
これはアグルという人のことばですが、「ぼくは何でも知っている」というより、心に共鳴を感じます。
ある学生が、有名な学者である大学の総長に、この方だったら知っているだろうと思って、一つの質問をしたところ、「それは分かりません」という単純率直な答えにびっくりしました。もの足りなく思って、「先生ほどの学者が、ご存じではないのですか」と問いました。するとその総長は、「私は学者だから、分からないと分かるんですよ」と答えたという話です。
私も若い時は、いっぱし学者の卵のつもりでいました。ある時、主任教授に、鎌倉時代の禅宗の坊さんたちが何をおやつ(点心)に食べていたか、何を食べていなかったかを調べてくれと言われました。鎌倉時代の坊さんの日記や文献を山ほど、来る日も来る日もしらみつぶしに調べました。何を食べていたかが、だんだん分かってきました。しかし、何を食べていなかったかを知ることは、とうてい不可能だと感じて、ついにシャッポをぬいだのでした。こんな小さな一つのことでも、ほんとうに知るのは大変です。
知ったかぶりをしないで、知らない者・悟らない者として、いつも真理に対して飢え渇きを持ちたいものです。謙遜な飢え渇く者に、人間の肉の力でない深い尊い知恵と真理が知らされます。
きょうのこの告白をしたアグルも言っています。「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている」(箴言三〇4)。へりくだって、真理を永遠を神を、飢え渇いて求める者は、「確かに知っている方」にめぐり合うのです。